牧師室 '10. 1


◎ 2010. 1 ◎

「エベン・エゼル」


そこでサムエルは一つの石を取り、それをミツパとシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった。」と言った。
<旧約聖書 サムエル記第一 7:12>


  聖書の中心的なメッセージは何でしょうか?言うまでもありませんが、神様から離れた人間に「わたしの許へ帰って来い」と語られる神様の愛の呼びかけです。
  人間は罪の結果、神様の声を聞くことが出来なくなりました。しかし、神様は一方的な憐れみにより、神様の言葉を取り次ぐ人物をお立てになり、神様の言葉を語られました。それが旧約聖書における「預言者」です。
  今お読み頂きましたところに出て参りました、「サムエル」も神様がお立てになった預言者の一人です。
  サムエルの時代、神様が祝福の基として選んだイスラエルの国には、多くの偶像が祀られていました。すなわちイスラエル人は信仰的に堕落していたのです。当然神様の祝福はありません、それどころか、宿敵ペリシテ人がイスラエルを征服しようと攻め上ってきたのです。
  「困った時の神頼み」ではありませんが、7:2の後半に「イスラエルの全家は主を慕い求めていた」とありますように、イスラエルの人々は、主なる神の助けを求めたのです。そこに登場してきたのが預言者サムエルです。
  彼はイスラエルの全家に言いました。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなた方の間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなた方をペリシテ人の手から救い出されます。」(3)と。そこでイスラエル人は偶像を取り除き、主にのみ仕えた、とあります。やがてペリシテ人が攻めて来ましたが、主なる神は大きな雷鳴を轟かせ、ペリシテ人をかき乱されたので、イスラエル人は打ち勝つことができたのです。その勝利の記念碑として一つの石を置きました。それに「エベン・エゼル」という名を付けたのです。それは、「ここまで主が私たちを助けて下さった」(12)との意味であると記されています。神様は真実なお方です。

  さて、最初に聖書の中心的なメッセージは、神様から離れた人間に「わたしの許へ帰って来い」と語られる神様の愛の呼びかけであると申しました。
  私たちは、聖書66巻神様の言葉であると信じています。そして、ヘブル人への手紙1章1〜2節に「1:1 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」とありますように、2000年前、約束の救い主イエス様を通して、世の全ての人々に真実なる神様の許へ帰る道をお示しになったのです。私たちはその道すなわちイエス様を信じひたすらに歩んでいるお互いです。
  私事で恐縮ですが、私たちが献身をして、その一歩を踏み出す時に与えられた御言葉は、「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。」(詩篇37: 25)でした。
  色々な事がありました。時には涙することもありました。しかし、まさに神様はその御言葉の真実をもって「ここまで私たちを助けて下さった。」のです。「エベン・エゼル」です。
  イスラエル人たちが、偶像を捨て「主にのみ仕えた」時に「雷鳴を轟かせる」と云う、神様の方法をもって敵を退けて下さいました。 私たちの信仰生活の中に、様々な敵が襲って来る事があっても、「主にのみ仕える」なら、必ず神様の方法で勝利を与えて下さるのです。「主にのみ仕える」とは、神様のみを礼拝すると言う事です。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」(詩篇37:23〜24)