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私は熊本教会に遣わされて今年で10回目のクリスマスを迎えます。毎年毎年巡ってくるクリスマス、けれども、その年でなければ味わうことのできない感動を、毎年経験させて頂いています。そして、今年もきっと素敵なクリスマスを過ごすことになるでしょう。特に、聖歌隊の賛美する「ハレルヤ!コーラス」は最高です。この曲は、ロンドン初演(1743年)の時、感激した国王のジョージ2世が思わず立ち上がって聴いたことから、以後の演奏で観衆は立ち上がって聴く習慣になったというくらいです。 王の王・主の主であられるイエス様に栄光が永久にあるように。アーメン さて、お読み頂きました御言葉に 「1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、 1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」 とありますように、 罪の中にあることにさえ気づかずに歩んでいた私を、暗やみから光へと導いてくださったのです。感謝せずに居られましょうか、喜び賛美せずに居られましょうか。 しかし、パウロ先生はそれだけではない、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」と言っています。 そしてそれは、「キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」と。すなわち私たちがイエスの十字架によって罪赦され、今日という日が与えられているのは、「キリストのからだのために」生きることだとパウロ先生はいうのです。そして、「キリストのからだとは、教会のことです」と言っています。 |
「教会」とはギリシャ語で「エクレシア」「呼び出された者の集まり」と言う意味です。 つまり、教会とは、この世において生かされている者の集まりですから、苦しみ、悲しみ、痛んでいる人がいるのです。その人のためにとりなし祈る、共に生きる信仰の共同体が教会なのです。 シメオン会の(70歳以上の方々の集まり)方々が、毎日電話やメールででお互いの安否を確かめ合い、何か事が起きるとお尋ねして励まし合い、祈る姿はまさに「キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」とパウロ先生が言っていることではないでしょうか。今、イエス様は目には見えません、ですからそのお姿を通して直接私たちに触れることはできません。けれども、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」(ローマ12:15)愛の交わりを通して共に生きることを喜ぶのです。そしてその中心には、イエス様が共にいてくださるのです。それが教会の姿です。 イエス様が世に来られたのは実にこのためでした。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイ 5:4 )と、悲しむ者を慰めてくださいます。病の床にある者に手を置き、慰め励まし癒して下さいます。落ち込んでいる者には「平安あれ」とみ声を掛けて下さいます。 このように、イエス様ご自身が私たちの内におられ、やがて地上の歩みが終わるとき、主は私たちを、天の御国へと伴って下さるのです。 私たちは何を喜びとして生きているのでしょうか?繰り返しますが、パウロ先生は、「あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」(1:24 )と言って、キリストにあって共に生きることを喜びなさいと、勧めるのです。 |