牧師室 '09.11


◎ 2009.11 ◎

「主は知っておられる」

1:7主はいつくしみ深く、
苦難の日のとりでである。
主に身を避ける者たちを
主は知っておられる。
<旧約聖書 ナホム書 1:7>


  神様は、ナホムという預言者にニネベの町の滅亡を宣告されます。(1:1)
  ところで皆さんニネベという町の名前を聞くと何か思い出すことはありませんか。
  そうです。あのヨナの物語です(ヨナ書)。神様がヨナに『ニネベに行け』と言われたのに、彼は船に乗って全く反対のタルシシュへ逃れました。その時神様は大風を海に吹き付けたので、海は大荒れに荒れ、船は沈みそうになりました。船に乗っていた人たちは水を掻き出したり、荷物を海に投げ込んだり大騒ぎです。
  けれどもヨナは船底で眠り込んでいて、上で起こっている騒ぎには気づきません。船長が彼を起こし、「皆がしているようにあなたもあなたの神に祈りなさい。あるいは海を静めてくれるかも。」しかし、海は一向に静まる気配を見せません。そこで、「誰かがこの災いを招いたに違いない」と、くじを引くことになりました。それはヨナに当たりました。ヨナは海に投げ込まれますが、そこへ大きな魚が来てヨナを飲み込みます。三日三晩魚のお腹の中にいたヨナはやがて陸へとはき出されますが、何とそこは行きたくなかったニネベでした。
  ヨナが滅びを預言すると、ニネベの人々悔い改め、滅びを免れます。
  このように一度は神様の憐れみのゆえに、赦され滅びを免れたニネベでしたが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の譬えのように、彼らはヨナの宣告を忘れ、高慢になり、神様に挑戦するのです。
  その様なニネベに対して、神様は滅びの宣告をなさるのです。
  ヨナの時とは違い、ナホムには、「ニネベに行け」とは仰らず、ニネベは滅びるという宣言を告げるのです。
  しかし、神様のお心は、滅ぼすことではなく赦しです。そのお心を最初にお読み頂いた7節に見ることが出来ます。
「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。」と。
  少し前の3節を見てみますと、「主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方。」とありますように、神様はいつも悔い改めの機会を与えて下さっています。しかし、神様に身を避けようとしない者に対しては、厳しい裁きがあるのです。
  黙示録の2章にこんな事が記されています。「2:21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。2:22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。」と。
  ところで、私たちは既に悔い改め、神様の子とされ、裁きではない救いの宣告を与えられているのですから、御言葉にありますように、「主に知られている者」なのです。
  この「主に知られている」と言う事はどういう事でしょうか?
  これは神様との正しい関係の中に入れられていると言う事です。つまり義とされていると言う事です。「主に身を避ける」と言う事は、主を信頼していなければ出来ないことです。どの様な苦難の日であっても、主に信頼し、従う者を、主は慈しみをもって守って下さるのです。
  ニネベの人々は、悔い改めて主の慈しみの中に入れられたにもかかわらず、それを捨ててしまったのです。
  私たちは、イエスの十字架の死によって罪赦され永遠の命に至る約束を与えられていることを信じ、義とされたのですから、どんな時も主に身を避け、信頼し続け、主に知られている者であることを感謝しつつ、互いに励まし合い祈り合いながら、与えられた信仰を全うさせて頂きましょう。
  神様の祝福をお祈り致します。