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本当の喜びとは何でしょうか? ダビデはこう言いました。 「あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」と。 ダビデはこのように「喜びに満たして下さるお方がいる」と信じたからこそ、このように言うことが出来たのです。 そして更に「2:25 私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。 2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。」といいきることが出来たのです。 しかし、正直に考えてみますと、喜びよりも、悲しいこと、苦しいこと、痛いこと、辛いこと、心配事、そういったことの方が、人生において占める割合は遙かに多いように思うのです。 親は幾つになっても子どものことが気がかりなものです。子どもが4人いれば、それぞれがいろんな問題を抱えて生きている。親としてはそれだけ心配事も多い。離れて暮らしていれば、どうしているかと心配する。結婚すれば、心配事の数はなお増える。孫が生まれればまた増える。もちろんそれに伴う喜びや楽しみや感動や感謝もいっぱいある。けれどもやがて人生の行き着くところは死という未知の世界です。 Tコリ 15: 26には、「最後の敵である死も滅ぼされます。」とありますが、まさにイエス様は敵である死を滅ぼすために地に来られたのです。そして十字架の死と復活という出来事を通して、死は滅ぼされたのです。 イエス様の御生涯も、悲しみと苦しみの連続でした。しかもその最後は十字架の死でした。でもイエス様には、決して誰にも言えないことを言う ことが出来ました。 イエス様は、十字架を前にして、こう言われたのです。 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。 |
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ 14: 27 )と。 では、イエス様が仰った平安とは何でしょうか? それは、甦り・永遠の命です。 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」 (ヨハネ 16: 33)とイエス様は仰いました。「世に勝った」とは、「最後の敵である死をも滅ぼ」し勝利した、と言う事です。 ですからパウロ先生もこう言って、迫害の中にあるクリスチャンを励ましているのです。 「5:16 いつも喜んでいなさい。 5:17 絶えず祈りなさい。 5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16〜18)と。 パウロ先生は、イエス様のうちにこそ喜びがあると信じたのです。 それは、ダビデが抱いた思いと同じでした。と同じように、今を生きる私たちにとっても、本当の喜びに生きる道は、甦られたイエス様を信じる信仰のうちにあるのです。ですから、パウロ先生は獄中にあっても喜ぶことが出来ました。祈ることが出来ました。そして、賛美することが出来たのです。 私たちの人生は、患難の中にあると言えるでしょう。しかし、既に世に勝ち、復活をもって永遠の命に至る希望の道を備えて下さったイエス様が、『私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』のです。 患難の中にあっても『喜びに満ちて』生きることができると確信を持って主を見上げようではありませんか。 「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。(詩篇16:8)」と。 |