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先日あるテレビを見ていましたら、オリンピックで金メダルを取るほどの一流選手が、翌日の試合を前にして「試合の事が頭から離れず眠れない。寝不足で試合に臨むこともしばしばだ」と話していました。 マタイの福音書6章34節にイエス様がこう言われたことが記されています。 「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」と。このように生きられたら、きっと不眠症で悩むことなどないでしょうね。 しかし、なかなか、そうはいかないのが私たちの現実ではないでしょうか。 でも、そのように言われたイエス様は、そのすぐ前に「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言っておられるのです。問題はここにあるように思うのです。 オリンピックの選手のことを申し上げては失礼になるかも知れませんが、お許し下さい。しかし、あえて言わせて頂ければ、自分の記録、自分の名誉が第一になっているのではないでしょうか。 勿論、試合に勝ち、より良い記録を出すために苦労してきたのは自分ですから、記録も名誉、それも大切なことには違いありません。しかし、夜も眠れないほどにその事に捕らわれ縛られてしまうということは、決して健全とは言えないのです。 |
なぜなら、私たちは神に造られ、神の栄光のために創造された存在だからです。ですから、第一に求めるべき事は、「神の国と神の義」であると主イエス様は言われるのです。 その事を歌っている詩篇はいくつかありますが、その一つが、先程お読み頂きましたダビデの讃歌、詩篇63編です。その1節に「神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。」と、神を求める切なる思いがうたわれています。すなわちこれが、「神の国とその義 とをまず第一に求めなさい。」とイエス様が言っておられることなのです。そして3節には「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」と。 私たちにとって「いのち」は一番大切なものです。しかしその「いのち」も神様の恵みなしには、砂漠のように渇き、花を咲かせることもできません。しかし神様はこう言われるのです。「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。」(イザヤ 41: 18)と。 私たちが世に生きているかぎりは、様々な悩み苦しみ痛みがあるものです。しかし、私たちを生かし、恵みを与えて下さる、「主を思い」求めるて祈るならそこに真の平安があるのです。ですからダビデは、「それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。」(4節)と歌うのです。 もし、眠られぬ夜を迎えたなら、神を求め、「ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。」(63:6)。とダビデが歌っているように、「主を思う」心を第一として祈ろうではありませんか。必ず主の右の御手が、あなたを支えて下さいます。 |