牧師室 '09. 4


◎ 2009. 4 ◎

「出ておいで」


2:10 私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。
<旧約聖書 雅歌 2:8〜15>


  先日孫が、「大きい魚!見に行こう。」と言うので、水前寺公園に行きました。ここの池には大きな鯉がうようよいますし、近場なので、久し振りに散歩かたがた出掛けました。案の定餌をやると、寄って来るは来るは・・・。夢中になって餌をやる孫に、別な所に行こうと言っても、テコでもその場を離れようとしません。すっかり鯉に恋してしまいました。
  処で皆さんは今、何かに、誰かに恋していますか?
  「え!!もう私には恋なんか関係ない・・・。」そうでしょうか?恋は決して若い人だけのものではないと思うのです。いえむしろ恋をすることによって、いつまでも若くいられるのではないでしょうか。ただ、問題は何に、誰に恋するかです。
  さて今お読み頂きました「雅歌」は、文面通り取るなら、男女の愛の賛歌です。しかし、聖書の中に収められている書物として見るなら、それなりの解釈が必要ではないかと思います。
  古今東西様々な解釈がなされてきましたが、神とイスラエル、イエス様と教会、そして、イエス様と私の間にある愛としての意味に捉えることが出来るのです。
  それは、新約聖書においても、その様なとらえ方をしている箇所が何カ所かあるからです。
  Uコリ 11: 2に「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」と、パウロ先生はコリントの教会をキリストの花嫁と言っています。
  無理にこじつけるわけではありませんが、十字架に於いて命をかけて私たちを愛して下さったイエス様が、私たちに語りかけて下さる愛の呼びかけとして、この雅歌の言葉を聞き取ることができるのではないでしょうか。特にこの春の季節まさに「野には花が咲き乱れ、歌の季節がやってきた。」家の中に閉じこもっていないで「さあ、立って、出ておいで」とイエス様はご自身の愛の御手の中に私たちを招いておられるのです。
  この雅歌の言葉を聞き取ることができるのではないでしょうか。特にこの春の季節まさに「野には花が咲き乱れ、歌の季節がやってきた。」家の中に閉じこもっていないで「さあ、立って、出ておいで」とイエス様はご自身の愛の御手の中に私たちを招いておられるのです。
  礼拝の宣教のテキストとしてこの雅歌が取り上げられることはめったにないでしょう。しかし、聖書66巻すべて神の霊感による書物と信じ、聖書は神様からの愛のメッセージであると信じる私たちにとっては、大切な書物である事に間違いありません。
  ですから、この雅歌からも神様が私たちに語りかけている愛のメッセージとして受け止めることには、何ら抵抗はないと信じます。
  そこで、雅歌2:10を見ますと、私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」と。「美しいひと」とは、顔かたちではなく、「心の貧しい人」すなわち神様の前に遜って歩む人です。「立って」とは「信仰に立つ」という事です。「出ておいで」とは、「わたしに従って来なさい」という事です。
 ここで、心に留めたいことは、「私の愛する方は」 とあるこの事です。つまり、私のために命をかけて下さった方を、私たちがどれほど愛し、恋い慕っているかと言う事です。しかもイエスはこう言われるのです。
  「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタ 16: 24)と。
  イエス様を愛する愛がなければ、十字架を負って従う事は出来ません。ですから私は願うのです。「出ておいで」と言われるイエス様を愛し、恋していたいと。
「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。」(詩篇 84: 2 )