牧師室 '09. 2


◎ 2009. 2 ◎
「神の家族」

12:49 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。
「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
12:50 天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
<新約聖書 マタイの福音書12:49〜50>

  「人類皆兄弟」と誰かが言っていましたが、実際に赤の他人が、その様な親しい関係を自覚的に持っているのは、クリスチャン同士ではないでしょうか。
  ではなぜ、私たちは洗礼を受けて教会の一員とされることによって兄弟姉妹と呼び交わす仲になるのでしょうか? イエス様が「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイの福音書12:50)と言われましたが、「父のみこころを行う」とはどういう事でしょうか?
  そこでヨハネ6:40をご覧頂きますと、イエス様は、「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」と言われました。
  「父のみこころ」とは、父なる神様の独り子イエス様を信じることです。
  父なる神はただお一人ですから、イエス様を信じて神の子とされたすべてのクリスチャンは皆兄弟姉妹なのです。
  そして、それは私たちがその様に決めた、理解したというのではなく、ちゃんと御言葉による裏付けがあることを知ることが大切です。聖書はこう記しています。
  「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ 8: 29 )とあるとおりです。
  このように、イエス様が私たちすべての長男であると言っていますように、主に在って兄弟姉妹としての素晴らしい交わりに入れられた私たちは、当然「神の家族」なのです。とは言っても、いつも一緒に生活しているわけではありません。家族であれば、お互いの安否が気になるものです。クリスチャンでなくても、家族の安全・幸せのために祈るでしょう。
  私たちはこうして、折ある毎に共に集い、いえ、何よりも毎週神様を礼拝するために神様の家(教会)にそれぞれの生活の場所から集まって参ります。お互いの安否を確かめ合い、病や悲しみ、あるいは色々な問題を共に分かち合い、祈り、慰め、励まし合うのです。しかしその交わりの中心にはいつも、主なるイエス様が、共にいて下さるのです。それはまさに、私たちは主イエス様を長子として集められた「神の家族」だからです。
  「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ 2: 19 )
  かといって、肉の家族が家族でなくなったわけでは決してありません。
  「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」(Tテモテ 5: 8 )とパウロ先生が言っていますように、この家族なしに、私たちは存在しないのですから、特に救われていない家族のために、共に「神の家族」としての恵みを分かち合うことが出来るように祈り求めなければなりません。
  「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」(ヘブル 11: 7)
  私たちの祈り願いは、この教会に集うすべての家族が救われることです。
  「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ 5: 16)と御言葉にありますように、祈り続けましょう。100人礼拝が実現するまで。
  主を信じる私たちは皆「義人」です。ですから信じて祈るなら、あなたの祈りには力があります。
  主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使 16: 31)