牧師室 '08.12


◎ 2008.12 ◎

「シメオンの信仰」


2:25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
<ルカの福音書2章22〜35>

 今はアドベント(待降節)ですが、このシメオンの物語は、イエス様誕生の後の出来事です。しかも、22節を見ますと、[きよめの期間が満ちたとき]とあります。この[きよめの期間]と言いますのは、レビ記12章に記されています。それによりますと、「七日の間は、不浄の期間」と言われています<生まれた子が汚れているのではない>。ですから男の子の場合8日目に割礼を施します(レビ記12:3,ルカの福音書2:21)。その後更に、男の子を産んだ場合33日間は,聖所に入ることはできません。すなわち宗教行事には参加出来ないのです(産後の静養期間)。
 ですから、22節の[両親(ヨセフとマリヤ)が幼子(イエス様)を主に献げるためにエルサレムへ連れて行った。」のは、きよめの期間が満ちた後であったのです。エルサレム神殿の跡で、今は嘆きの壁があり、多くのユダヤ人が祈りに来る。また、観光のスポットともなっている。
 さて、両親がイエス様を主に献げるためにエルサレム(神殿)に連れて来られた時、そこに、シメオンという人がいました。「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。」(ルカ2:25)のです。すなわちメシヤの訪れを待ち(アドベント)望んでいたのです。
 神様がイスラエルの民に、メシヤ(救い主)が与えられるであろう、と約束をさてから、それはそれは長い時が過ぎていましたが、彼らは,神様の約束を信じ何世代にも亘りその約束が語り伝え、待ちに待ち焦がれていたのです。
 シメオンは,聖霊に感じて宮に入るとそこにいたイエス様を一目見るなり腕に抱き「このお方こそ約束のメシヤだ」と、神様をほめたたえたのです。彼は、「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」(26)のです。
 待つと言う事は忍耐がいります。
と同時にその時が来るまで備えが必要なのです。備えていなければ、その時が来ても気づかずに、過ぎ去ってしまうと言う事があるのです。
 ではその備えとはなんでしょうか?
 福音書の中に、度々「目をさましていなさい」と言われた主のお言葉が記されています(マタイ、マルコ、ルカに12回:新約聖書全体では19回)。今回その中から特に示された御言葉は、マタイの福音書26章28節と40節です。ここはゲッセマネの園でのイエス様の祈りの場面ですが、 そこには、28節『そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」』と言われ、また40節には『それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。』と言われました。 ここで、「わたしといっしょに」とイエス様が繰り返し仰っておられます。  シメオンには、「聖霊が彼の上にとどっておられ」ました。彼は、「主のキリストを見るまでは、決して死なない」という約束を毎日思い起こし祈りつつ、その日を待ち望んでいたに違いないのです。聖霊に導かれたシメオンは「正しい、敬虔な人」であったとあります。「正しい」とは、神様との正しい関係を表し、「敬虔」とは,神様に対する全きへりくだりを表しています。これが「シメオンの信仰」の姿です。
 既にメシヤ(救い主)が与えられている私たちは、イエス様が「わたしにとどまりなさい」(ヨハネ15:4)と仰ったように、イエス様と「いっしょに目をさまして」、主の再び来られるのを待ち望むのです。
 神様との正しい関係を保ち、神様に対してへりくだるとは、日々、イエス様といっしょに目をさまし,喜び、祈り、感謝することなのではないでしょうか。
           メリークリスマス!