牧師室 '08.11


◎ 2008.11 ◎

「主を喜ぶ」


104:31 主の栄光が、とこしえにありますように。主が そのみわざを喜ばれますように。 104:32 主が地に目を注がれると、地は震え、山々に 触れられると、山々は煙を上げます。 104:33 私は生きているかぎり、主に歌い、いのちの あるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。 104:34 私の心の思いが神のみこころにかないます ように。私自身は、主を喜びましょう。 104:35 罪人らが地から絶え果て、悪者どもが、 もはやいなくなりますように。 わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。
<詩篇104篇31〜35節>

 皆さんにとって、今「一番の喜び」とはなんですか。私にも、あれ、これと思い浮かぶことが色々ありますが、私にとっての「一番の喜び」は、この教会に繋がる愛する兄弟姉妹が、共に礼拝に集い主をほめたたえることです。
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」(詩篇133:1)とあるとおりです<100点>。
 とは言いましても、飲んだり(アルコールのことではありません)食べたり遊んだりする事も大切な交わりではないかと私は思います。福音書を読みますと、イエス様も食事における交わりを大切になさっていたことを知る事が出来ます。こうした交わりを通して、人は心を開き、お互いを理解し、受け入れ合うことができるからです。
 しかし、私たちクリスチャンにとっての交わりは、その中に欠かすことの出来ないお方が存在しておられることを忘れてはならないと思うのです。
 それは、言うまでもなく、主イエス様です。ヨハネ第一 1章 3節には、「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」とあるとおりです。この御言葉が心に浮かんだ時に、故・松下姉妹が『病院の看護師さん達はみんな親切にしてくれるので感謝だけれども、だれも信仰の話し相手になってはくれない。これが一番寂しい……。』と良く言っておられたのを思い出しました。愛する兄弟姉妹との信仰による交わりは、何にも代え難い楽しいときなのではないでしょうか。それは、私たちの魂が、主を恋い慕い、飢え渇きを覚えるからです。
 最初にお読み頂きました、詩篇104篇33節に「私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。」とありますが、『生きているかぎり』とか『いのちのあるかぎりり』とか言う表現は、今日というかけがえのない日、すなわち日毎にという気持ちが込められている言葉です。
 更に、34節に「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。」とあります。私自身というのは、身も心も魂も、私の全存在が、主を喜んでいると言うことです。そして35節に「わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。」とありますように、神様は。私たちの霊の内に働いて下さお方ですから、神様との交わりは、何物にもまさって、魂に喜びを満たして下さるのです。これはまさに主と共にある平安です。
 先日「幼児祝福式」を致しました。こんなに沢山の幼子が与えれていることは、素晴らしい恵みであり、神様の祝福です。と同時に、私たちには、大きな責任が課せられていると言う事でもあるのです。 毎日毎日共に生活をしてはいませんが、週毎に行われる礼拝に於いて、主との交わりの素晴らしさを共に味わうことです。そして信仰の家族であるみんなが喜んで生きている姿を示すことです。彼らは見ているし何よりも、それが彼らに対する証しに他ならないのです。
 でも、そうしたくてもできない方々もおられます。ならば、こちらから出かけて行くことです。信仰の話し相手になってあげることです。私なども良く経験することですが、お尋ねしたこちらのほうが、励まされ、力づけられることが多いのです。何故なら、その交わりの中に、力ある主、慰め主、助け主なる聖霊様が共にいてくださるからです。これは、主イエス様の約束です。主イエス様は言われました「わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ  16: 7)と。
 主にある「聖徒の交わり」(使徒信条における信仰告白)を通して私たちは『主を喜ぶ』素晴らしい恵みを分かち合うことができるのです。『わが魂よ。主をほめたたえよ。ハレルヤ!』