牧師室 '08.10


◎ 2008.10 ◎

「主の家で」


135:1 ハレルヤ。主の御名をほめたたえよ。ほめたたえよ。主のしもべたち。
135:2 主の家で仕え、私たちの神の家の大庭で仕える者よ。
135:3 ハレルヤ。主はまことにいつくしみ深い。主の御名にほめ歌を歌え。その御名はいかにも麗しい。
135:4 まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。
<詩篇135篇1〜4節>

 神様は、聖書(み言葉)を通して実に多くのことを私たちに語りかけています。励まし、掟、約束、警告、慰め、叱責………等々。そうした数ある言葉の中で、私が最も心ひかれるのは、この詩篇135篇の4節「まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。」です。
 ここに、ヤコブを選び・イスラエルを選んで、とありますが、ヤコブは後に神様によってイスラエと呼ばれます。創世記32: 28にその事が記されています。『その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」』と。
 さて、「まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。」 とありますが、ガラテヤ人への手紙 3: 7 を見ますと、「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。』同じくガラテヤ 3: 29 には「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」とありますように、イエス・キリスト様を救い主と信じ、今日という日を信仰によって歩んでいる私たちは皆、アブラハム、ヤコブ・イスラエルの子孫なのです。と言うことは、私たちも神様に選ばれて、神様の『宝』とされていると言うことなのです。
 イエス様は言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15: 16)と。
 すなわち、貴方も、「神様の宝の民」のとして選ばれた一人なのです。
 でも、私なんかはどう見ても神様の宝などとはおこがましくてと思うのです。でもそれは、私が決めることではなく、神様がお決めになることなのです。ある人にとってはゴミくずのようなものでも、私にとっては宝のような大切なものがあるのです。
 神様はこうも仰いました。
 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)と。
 ここで『あなた』とはイスラエルの民を指しています。神様に逆らい滅びの中を歩んでいるイスラエルの民に、それでも私はあなたを愛している。と神様は言われるのです。
 少し前に、ロシアの相撲取りが、大麻を吸っていたと言うことで解雇された事件がありました。その時、ロシアにいる彼のお母さんがこんな事を言っていました。『もし本当にその様なことをしたのなら、ちゃんと罪を償って欲しい。世間をお騒がせして本当に申し訳ありません。でも彼は、私にとっては大切な息子なのです。』と。
 私も神様の前には、『宝』などといって頂く値打ちなどないかのように思います。でも私たちは、神様が仰って下さることを素直に受け入れ、感謝をもってお委ねし、お従いすればよいのです。神様が『あなたはわたしの宝だ』と仰って下さるのですから。
 ところで、この『宝』は、『宝』だと言って下さるお方の手の中にあってこそ『宝』なのです。もしこのお方の手から離れてしまっては、どんなにすてきな『宝』であってもその『宝』の価値を発揮することはできません。
 先程引用しました、ヨハネ15: 16 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」 とありましたが、この御言葉に続く神様のみ心を心に留めなければなりません。それはこうです。「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」とあります。詩篇の記者が135:2 「主の家で仕え、私たちの神の家の大庭で仕える者よ。」と歌いましたが、『主の家』とは、「教会」を指しています。そして『仕える』とは、『礼拝』です。私たちクリスチャンは、教会に集い、神様を礼拝するこの事を持って、実を結び輝いて生きる事が出来るのです。ですから私は思うのです。教会は建物ではありませんから、もしこの礼拝堂に集うことができなくても、二人又は三人の者が主の名によって集まるところに主も共にいて下さる(マタイ18:20)と約束して下さっているのですから、私たちが訪問し、共に祈るその所が『主の家』なのだと。