牧師室 '08. 9


◎ 2008. 9.18 ◎

「共に生きる喜び」


31:6 強くあれ。雄々しくあれ。
  彼らを恐れてはならない。
  おののいてはならない。
  あなたの神、【主】ご自身が、
  あなたとともに進まれるからだ。
  主はあなたを見放さず、
  あなたを見捨てない。
   <申命記31章 6節>

 先週の月曜日(9月8日)○○委員会のために福岡へ行きました。高速道路を車で走る事約1時間半、目的地に着いてみると誰もいません。10時30分。暫く待っていましたが誰も現れません。日時を間違えたのだろうか?あるいは場所が違うのだろうか?段々不安になってきました。
 手帳を見てみましたが、「福岡・11時」間違いなかとよ。諦めて帰ろうかなと思ったその時、綺麗な薔薇が咲いているのが目に留まった。車からカメラを持ってきてパチリ・パチリ夢中でシャッターを…不安な思いなどどこへやら(その一枚が上の写真)。するとそこへ「お早うございます」時計を見ると11時に5分前、そして、次々とメンバーがやってきて、会合が始まったのが11時10分。 もしこの時薔薇を見なかったら………私は諦めて帰っていたかも?
 自分の思いや願いとは全然違った形で事が進んでいるなんて事はだれもが経験している事だと思います。
 モーセは神様の召しに従って、イスラエルの民を奴隷の地エジプトから連れ出し、神様の約束の地カナン目指して旅を続けます。その数、なんと壮年の男子だけでも60万人(出エジプト記12:37)。その時モーセは80歳でした。一月も歩けば目的地へ行けるはずが、民の不平不満、不信仰のゆえになんと40年もの間荒野を旅する羽目になってしまったのです。神が「私はあなたと共に行く」とは言われたけれども、こんな筈ではなかったと何度東に沈む太陽を見ながら思った事でしょうか。
 さて、荒野を旅する事40年、80歳でエジプトを出たモーセは、「私は、きょう、120歳である。」(申命記31:2)。辛い旅もようやく終わろうとしていた。ところが、続きを読むと「主は私に『あなたは、このヨルダンを渡る事は出来ない』と言われた」とあります。つまり、約束の地カナンにあなたは入れない、と言うのです。え!なんで………。その答えは申命記32章51節にあります。「あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現さなかったからである。」と。これは、民数記20章に記されている事を言っています。
 民が「水がない」と言ってモーセとアロンに逆らったときに、神様は「岩に命じて水を出し……飲ませよ」(20:8)と言われたが、モーセは「杖で岩を二度打った」(20:11)のです。
 「岩に命じて」と言われたのに「岩を打った」事によって、神の聖さを現さなかった、と主は言われるのです。
 え!たった一度の過ちを……と私たちは思います。しかしそれは私たちの思いであって、神の思いではないと言う事です。あくまでも主権は神にあるのです。
さて、今回私たちが学びたいのは、モーセの信仰です。40年間民を導いてきたモーセ、しかも約束の地を目の前にして、入る事が出来ない、なんと神様は理不尽なとだれもが思うに違いない、けれどもモーセは言うのです。「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記31:6)と。カナンの地に入る事は出来ないけれども、モーセは決して神様に見捨てられたとは思ってはいない。モーセは「え!!どうして」と、思えるような時にも、「私はあなたと共にいる。私はあなたを捨てない」と言われた主の約束のお言葉を信じたのです。
 こうして神が2千数百年前にモーセに語り、ヨシュアに引き継がれた信仰は今日、私たちにも引き継がれているのです。インマヌエル(神共にいます)の約束は、イエス様を通して全世界すべての人に与えられているのです。それはとりもなおさず、この私と共にいて下さると言う事です。
 ジョン・ウェスレーは言いました。「私にとって、最も良き事は、神が共におられる事だ」と。私の罪のために十字架で死なれ、三日目に甦られたイエス様。このお方と共に生きる喜びを味わいながら、またその喜びを分かち合って生きるお互いでありたいと思います。その為に私はここにいるのです。 「共に生きる喜び噛みしめながら歩いていく、私の傍にはいつも、もう一つの足跡」 アーメン