三船殉難事件 あまり知られていない悲しい事件です、忘れられないようにアップして見ました 2008年4月 |
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太平洋戦争終戦直後、1945年8月22日北海道留萌沖の海上で樺太からの引揚げ船、小笠原丸・第二新興丸・泰東丸の3隻が 国籍不明の(明らかにソ連の軍艦である)潜水艦に撃沈され、合計1,708名が犠牲になる。 |
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1945年8月15日、日本はギブアップし終戦となった。 (いわゆる、ポスダム宣言を受諾) 直前の8月9日に、対日参戦したソ連軍は当時日本領であった 樺太に侵攻、終戦後も攻撃を続けた!ギブアップしているのに 許される行為ではない! ロシア人は、こんな卑劣な人種である。 樺太から引揚げる為大泊港に殺到した引揚者。 この内、老人、子供、女性が優先的に船に乗船する事になった。 その引揚げ船となったのが、次の三船です。 @小笠原丸 沈没 ← 逓信省・海底ケーブル敷設船 A第二新興丸 大破 ← 特設砲艦船 B泰東丸 沈没 ← 貨物船 |
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犠牲者 @小笠原丸 1,500名程乗っていたが稚内港で800名程下船、 700名程乗せて小樽港へ向かっていたが8月22日、午前4時20分頃、 撃沈される。 乗員乗客638名が死亡、生存者はわずか61名だった。 A第二新興丸 3,400名程を乗せて小樽港へ向かっていたが、攻撃され大きな損傷を受ける。 自力航行可能だった為留萌港に入港、船内で確認された遺体は229体 行方不明者も含めると400名とも言われている。 B泰東丸 780名程乗せて小樽港へ向かっていたが同日、9時52分頃、浮上した潜水艦 の攻撃を受ける、白幡を掲げるも攻撃され撃沈される。 667名が死亡した。 |
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事件の犠牲者は1,708名とされているが、終戦直後の引揚げの混乱時期で乗船名簿等はなく、正確な乗船人員は 不明である。 遺体が確認されていない行方不明者も相当数いる為、実際の犠牲者はさらに多かった可能性があります。 (しかも罪のない、乳飲み子含めて子供達が、どれほどいたことか・・・・・思うと、無念でなりません) なお、本慰霊碑の奉安場所は、小平町鬼鹿です。 |
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犠牲になられた方々に対し、心よりご冥福をお祈り致します。 さぞ無念であったと思います、安らかにお眠り下さい。 |