我が國の歴史(慷慨の士)
拔刀隊(西南の役、田原坂の戰ひ)

 「拔刀隊」と云ふ歌をご存じでせうか?
 これは紀元2603年(昭和18)11月25日折からの雨中、神宮外苑競技場で行はれた學徒出陣式の際の行進曲である。
 外山正一詩、Charles Leraux(シャルル・ルルー)曲である。シャルル・ルルーはフランス人で、當(当)時、日本陸軍の雇教師であった。
 大東亞戰爭中は敵國語や敵國の音樂が一般に排斥されたのに、敵國人であるフランス人作曲の「拔刀隊」が演奏されたのは、この曲が陸軍を象徴した名曲で、強烈な攻撃精神をもつて強敵米英を撃てと云ふ戰意鼓舞に最適の歌であつたからでせう。
 そもそも、この曲は歌詞のとほり(註:下記に歌詞)西南の役を詠つた歌である。
 歌については抜刀隊抜刀隊で聴けます。
 田原坂の戰ひは、西南戰爭勃發後半月の紀元2537年(明治10)3月4日〜20日の17日間の戰ひである。
 田原坂は、西南戰爭勃發(発)當初から熊本城が攻められ、補給路が斷つてゐた爲、これを救う戰ひであつた。
 また、西南戰爭は2536年(明治9)の秩禄處分(士族への家禄支給を全廢した措置)が背景にある。その爲、全國での武装蜂起の可能性や反政府の機運が高くなり、政府軍は、早急に田原坂を攻める必要があつた。
 政府軍は最新式の銃であり、西郷軍は旧式銃であつた。然し、3月8日西郷軍は、示現流で慣らした切り込み隊である拔刀隊を編成し應戰した。農民、町人出身の政府軍は、最新式の銃を持つてゐながら、武士の氣迫に恐れ、敗退した。農民が持つてゐた武士は恐いと云ふ先入觀、刷込が敗因であつた。
 そこで、明治政府軍は田原坂南方2kmの「横平山(標高140m)」の攻略に警視廳(庁)巡査拔刀隊を編成した。「武士(西郷拔刀隊)には武士(巡査拔刀隊)」と云ふ考へで、巡査拔刀隊をこの戰ひに投入した。
 警視廳巡査は士族出身者であり、本來、戰場での治安維持が任務であつた。その警視廳巡査から拔刀隊への志願者を募つた。その志願者の多くは、幕末京都で倒幕勢力の取り締まりにあたり、その爲、明治維新で賊軍の汚名を着せられ、薩摩、長州に略奪暴行の限りをつくされた會津藩士で占められた。當(当)時の新聞には、10年前の戊辰の復讐と叫んだ巡査がゐたと記録されてゐる。また、1人で13人を倒す兵(つはもの)がゐたとも記録されてゐる。會津の怨みが示現流を倒した。この歌詞の中の「敵の大將たる者は、古今無双の英雄で」とは西郷隆盛のことである。
 3月15日には横平山を占領し、20日には田原坂も陥落し、西南の役最大の激戰が終了した。

      拔刀隊

    外山正一詩
    Charles Leraux(シャルル・ルルー)曲

    吾(われ)は官軍我が敵は
    天地容(い)れざる朝敵ぞ
    敵の大將たる者は
    古今無双英雄で
    これに從ふつはものは
    共に慓悍(へうかん)決死の死
    鬼神に恥じぬ勇あるも
    天の許さぬ反逆を
    起こせし者は昔より
    榮えしためしあらざるを
    敵の亡(ほろ)ぶるそれ迄は
    進めや進め諸共(もろとも)に
    玉散る劍(つるぎ)拔きつれて
    死する覺悟で進むべし

 なほ、10年前テレビで年末幕末時代劇「白虎隊」「五稜郭」「田原坂」の「田原坂」の中で拔刀隊も演奏されて(歌詞は歌つてゐない)ゐる。またビデオ化されてをり、レンタルビデオ店にも置いてあるのを見たことがある。

(「國語問題研究會」から再掲加筆訂正、慷慨の士)
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