「Nappy Brownの想い出」
ナピー・ブラウンというブルースマンをご存知か?
数年前のある日、本人から直接我が家に電話があったときには驚いた。
サウス・キャロライナに住む、共通の友人から電話番号を聞いてきたらしく
「いま日本にいる。ライブを観に来い。」どうやらそういうことらしい…。
肌寒いある晩、東京タワーのすぐ側にある「ボルガ」というクラブに行ってみる。かなり広いスペースの中に、客はたったの二組だけ。一組はサラリーマン風の二人連れ。もう一組は金持ち風のカップル同士が四人で食事を楽しんでいる。壁際には一定の間隔でウェイターとウェイトレスがずらりと並んでおり、まるで監視されているような気分になる。
前座の日本人バンドの演奏が終了したところで、サラリ-マン組は席を立ってしまった。50ほどもあるテーブルに、残った客はたった四人だけ。なんだか気まずい空気がまわりを支配しているようで、オレは居たたまれない気持ちになりながらも彼の出番を待っていた。
前座バンドがいきなりバックバンドに変身し、派手なオープニングテーマにのって、紫色のスーツをバッチリときめたナピー・ブラウンが登場した。
…それからの40分間、オレはなんだか夢をみていたような気がする。
実際のところ、あの日のことを思い出すたび頭に浮かんでくる映像は何故か天井から見たもので、だだっぴろい空間の中でステージに注目するたった四人の客と、夢中でシャッターを切っている自分の姿がそこにあるのだ。
かのブルースマンはといえば、まるで大観衆の前で唄ってでもいるかのように骨太のブルースを唄いつづけている(これは本物だ!凄げー!!)

たった四人のためのライブも終盤にさしかかった頃だった。
ブルースマンはステージを降り、唯一の客のテーブルまで向かって来たと思ったら、今度は床にごろごろ転がりながら唄い始めたではないか…。
オレは白状すると、初めのうちはなんだか見ちゃいけないものを見てしまったような気まずさを感じていた。となりの客たちも「どうしょう…」というのが本音だったと思う。しかし、ブルースマンには悲壮感などまったくなかった。文句なくかっこ良かったのだ。オレは全身に鳥肌が立ってしまい、写真を撮るのも忘れて、汗まみれでシャウトするオールド・ブルースマンを見続けていた。
あらためて言うまでもなく“少ない客の前でも全力を尽くす”ということはプロとしては当たり前のことだしよく耳にすることだが、この日のナピー・ブラウンのパフォーマンスをみれば、たいがいのミュージシャンは逃げ出してしまいたくなるに違いない。本来エンターテインメントというものはこういうものなのだろうが…。
終演後、楽屋でポートレートを撮らせてもらう。
葉巻を手にしてニカッと白い歯をみせて笑うのが彼の得意なポーズらしい。
オレが撮りたかったのはそんな顔ではなく、終演後のブルースマンの自然な表情なのだが、しかし彼は愚直なまでにそのポーズを崩さない。
別れ際「写真を送るからアドレスを教えてほしい」というと、彼は「綴りを言うからお前がメモしろ」という。よく聞き取れないアルファベットを書きながら、自分で書いてくれりゃあ早いのに…、と思っていたオレは、はたと気がついた。
彼が、読み書きできないのかもしれない…ということに。
しかし、ブルースマンにとってそんなことはどうでもいいことなのだろう。少なくともオレに、過去に味わったことのない感動を与えてくれたのは事実だし、それが武道館ではなく、たった一組の客の前でみせてくれたステージだった、ということがきっと大切なのだ。
その後、送った写真がブルースマンの手元に届いたかどうかは分からない。