『SSのお部屋』

Preludio

 何よ、あれは……。
 何をしてるのよ、あの人は……。

 姿を見せなくなったと思ったら、この有様?

 一体、何を考えているの?
 あなたなら、ずっと大切にしてくれる。
 ずっと……待ち続けてくれる。

 そう……、信じていたのに。

 裏切り。
 そうだ、これは『裏切り』でしかない!

 見捨てるんですね、姉さんを……。
 もう、待ち続けることなんて出来ないんですね?

 男なんて所詮、その程度の誠意しか持ち合わせていないんですね。
 ……そして、そんな男をたぶらかした「あの人」。

 許さない。
 私は絶対に……許さない。

移ろい行く、時と心

Atto:1 悲しみに暮れる、一年目

<1>

「はい、涼宮です。……あの、どちらさ……鳴海さん、ですか? あの……どうなさって」
 え? 鳴海さんから電話入ってるんだ。どしたんだろ? 今日は姉さんとデートのハズなのにね。
 それに、お母さんの声。……何か、おかしい。
 何かあったの?

「ええ?! 遙が……事故?」
 ……え。……うそ、ウソ…だよね?

 それで、遙は? 遙は?!
 手術……中。
 病院はどこ……ですか?
 鳴海さん? 鳴海さんっ?!

*          *          *

 混乱したやり取りの中、私が憶えてるのはこのくらい。
 言葉の断片。

 大学のお父さんに連絡した後、病院に駆けつけた私たち。
 タクシーの扉が開ききる間さえももどかしく外に飛び出し、目に映った白衣の人をつかまえ、半ば問い詰めるような口調のお母さんとともに、手術棟へと案内してもらう。
 行き着いた薄暗い手術室前の廊下に、ゆらめくように立ち尽くす人影。

「……お兄ちゃん? お兄ちゃんっ! お姉ちゃんは? ねえ、お姉ちゃんはっ!」
 それが鳴海さんだと確認した私は、思わず飛びついた。……それこそ立っているのがやっとのはずの鳴海さんが倒れるくらいの勢いで。
 すがるものが欲しかった。
 安心させてくれるものが欲しかった。
 姉さんは大丈夫だ、だから泣かないで。
 そう言って、欲しかった。……たとえ、その場を取り繕うだけの『嘘』でもいいから。

 でも鳴海さんは私と、お父さんお母さんを前にしてただ、冷たい床に手を付いてすみませんを繰り返すだけだった。
 お父さんの制止も、私の懇願も……その耳には届いていなかった。

<2>

「お兄ちゃん……。ねえ、今日はもう帰ろうよ。もうこんな時間だよ?」
 面会時間はとうに過ぎていて、事情を察してくれている病棟看護師さんの特別のはからいがなければ当然、追い出されているくらいの時間。

 事故からもう半月余り
 姉さんの意識は今だに戻らない。
 鳴海さんは毎日のように病院を訪れていた。
 そしてそんな鳴海さんを心配してか、水月先輩もやってくるようになった。水泳の練習で疲れた身体を引きずるようにして来ることも多く、このままでは鳴海さんも、水月先輩も身体を壊してしまうかもしれない。
 でも、そのときの私に二人を止めることなんて、出来なかった。
 そして、そんな自分がもどかしかった。

 季節は巡り、冷たい木枯らしが身に染みるようになった頃だった。
「え? 実業団への推薦を取り消された……。本当なんですか? 先輩」
 練習に身が入らず、それさえも休みがちになっていた水月先輩。
 みるみるうちに記録が落ち、学校側が推薦すれば内定確実とまで言われていた実業団『フォレックス』へのそれすらも、取り消されてしまった。

 水月先輩はそれを境にして水泳からも遠ざかるようになってしまった。仮に実業団入りが果たせなくても、高校水泳での記録保持者である先輩だ。選手として続けていくことも、コーチなどの指導者として身を立てていくことも可能だったはずなのに……。
 水月先輩から水泳をやめると告げられた私は、何も言えずにその場を走り去ってしまった。目標にしていた先輩からの、状況を考えればある程度予想できた告白だったけれど、そのきっかけとして姉さんの事故があることを知っていた私は、そのとき頭の中が真っ白になってしまったのだ。
 ただ一言「先輩のバカ!」と叫んだような記憶はあるけれど……。

 結局、水月先輩はどのようなつてなのかは知らないけれど、橘町にある中堅商社のOL職となり、白陵高校に合格した私は、周囲に流されるままに水泳部に入部。憧れの存在を失った状態で半ば惰性のように、勉強と部活に暮れる日々を送っていた。

 気がつけば再び巡ってきた、忌まわしい季節。
 姉さんは事故から一年が経とうとしている今でも、眠り続けていた。

Atto:2 憎しみに染まる、二年目

<1>

「おかしいなあ、今日も来てないなんて」

 早いもので、姉さんの事故から季節が一巡りしていた。
 そんな残暑もやわらぎ、少し肌寒さを感じるようになった頃。
 鳴海さんが、姉さんの見舞いに来なくなった。
 二日や三日なら、鳴海さんにだって当然都合はあるのだろうから別段、不思議なことではないけれど……。
 でも、今日でもう半月くらいになる。何かあったのかな? とお母さんに訊いてみたけど、そちらにも特に何も連絡らしいことはないそうだ。
 毎日とは言わないまでも、三日以上間を空けることはあの日以来なかったというのに、一体、急にどうしたというんだろう?

 その二人の姿を街中で見かけたのは、鳴海さんが何も言わずにお見舞いに訪れなくなったのを、おかしいと感じるようになった、丁度そんな頃だった。
 私の疑問への、最悪の回答。
 しばらく、と言ってもあれからまだ一ヶ月も経ってないけれど、偶然見かけた鳴海さんは、気持ち顔色が良くなっているように感じた。
 橘町のショッピングモール。
 ブティックやらファンシーショップやらが並ぶ、ちょっと男性が一人で佇むには似合わない場所。こんなところで一体、何をしているんだろう。

 何をしてるんですか?
 そう声をかけようと近づこうとした、その時だった。
 私じゃない呼びかけに反応するように店側を振り向いた、鳴海さん。
 その軽く開いた腕に、絡みつくように抱きついた人影。
 誰?
 澄み切った秋の空からアーケードごしに降り注ぐ陽の光を浴びて輝く、見事なロングのポニーテール。
 私はその場に立ち尽くすしか……なかった。
「何よ、どういうことよ。何で鳴海さんが、あの人と一緒にいるのよ。……それも、あんなに楽しそうに」
 無意識に握り締めた拳に、震えが走った。

 速瀬……水月。

 姉さんの親友だった、人。
 私の憧れの先輩だった、人。
 そして『裏切った』、人。

 腕を組みながら去る二つの人影。
 ショッピングモールの出口付近で手を振りながら別れた二人の内の一人の姿を、私は追った。
 その人物の目的地は、美容院だった。
 どのくらい待ち続けただろう、陽が西に傾き夕闇がその帳を降ろす頃、その人物が出てきた。
 一瞬、服装でしか判断できなかった。
 見事なまでのロングの髪が、肩口で切り揃えられていたからだ。
 私の「尾行」は続く。
 今度は女性一人の方が似合わない、メンズブティック。そこのショッピングバッグを下げたまま、今度はスーパーへ。二つに増えた袋を下げ、どう考えても私の知るその人の「家路」とは逆の方角へ歩いていく。……この方角って。

 気付かれぬようにわき道を早足で駆け、目的の場所へと急ぐ。……あそこのはず、だから。
 目の前に立つ5階建てのマンション。
 夕焼け色に染まるそれを背にして、しばらく待つ。
 やがて私の予想の正解が、姿を見せた。

「え? ……茜?」
 驚きましたか? 私がここにいることを。
 それに『茜』ですか? 今のあなたに、そんな馴れ馴れしい呼び方をされる筋合いなんてありません。
 私は何も言わずにその手荷物をじっくりと観察させてもらった。……それこそ舐めるような視線でね。
 メンズブティックの袋には、ビニールにくるまれた男物のポロシャツ数点と下着類。もう一つのスーパーの袋には肉やら野菜やらの食材に缶ビール。
 ……完全に『彼女気取り』ですね。

「ふうん、カレシの洋服に夕飯の材料ですか。鼻歌まで口ずさんで……随分と楽しそうですね?」
 さあ、何か釈明してみなさいよ。
 何であなたが、鳴海さんと一緒にいるんです?
 しかもすっかり『彼女気取り』で。
「最近、鳴海さんが姿を見せなくなったからどうしたのかと思ったら、こういうことですか? いつ目が覚めるか分からない姉さんに取って替わろうってトコですか?」
 私は反論を封じる勢いでまくし立てた。……言わなければどうにも、気が収まらなかったから。
「水泳をやめたのもそういうことだったんですね? 何が姉さんのことが心配で練習に身が入らない、こんな気持ちのまま記録の世界でなんて生きられない、よ」
 そう、確かにそう言った。練習に身が入らず記録が落ち続け、目標にしていた実業団入りが夢と消えたこと。それを境にもう水泳から身を引く、そう言ってましたよね?

「聞いてないの? 茜……。孝之が遙のお見舞いに行かなくなった理由を」
 詰問の相手がようやくにして重い口を開いた。
「なんです? 何か理由があるって言うんですか? なら、ここで言ってみて下さいよ」
 また無言。
 沈黙が、私の糾弾の勢いをさらに加速させる。
「言えないんですか? その理由とやらを。ふんっ! 当然ですよね? 所詮はその程度の口実を並べようとしただけなんですものね。単にもっともらしい理由でこの場を収めて、逃げたかっただけなんでしょ。この卑怯者!」
 その言葉に反応したのか、伏し目がちにしていた視線が上がり威圧するような光を放った。
「何を言われてもいいわ。……茜には関係ないことなんですからね」
 わざとこちらの神経を逆なでするような口調。
 売り言葉に買い言葉。
「はんっ! ここまできて開き直りですか? ふうん、恋のライバルが減ってせいせいしたってトコですか? その顔は。それがかつての友人に対する仕打ちですか。自分と同じ人を好きになった報いですよって。どうなんです? ここまで言っても何も答えようとしないんですか?」
「何もないってさっき言ったばかりでしょ? 理由はまあ、あるにはあるんだけどね。それを今の茜に言ってもムダだってことも分かってるから。……でも、そうね。一言だけあげようかな? 今の孝之を支えてるのは他でもない私なの。つまりは私が孝之の彼女。文句ある?」
 その言葉に、精神のタガが外れた音が聞こえたような気がした。
「何て言い草……。姉さんの事故を……あんな悲惨な出来事を、あなたは喜んでるんですね! 姉さんが事故で意識不明になって、あれほどの絶望に沈んだ鳴海さんの気持ちをまんまと利用して、彼を自分の方へと振り向かせる絶好の好機にしたというんですね!」
 ここまで卑劣な人だったの? 憧れもした、尊敬もした先輩像が音を立てて崩れてゆく。私はこんな人を目標にしていたというの?
「……最っ低!」
 それだけを吐き捨てるように叩き付けると、私は反射的に踵を返した。
 ……顔を見ることさえ、我慢できなかったから。

<2>

 許さない……。
 絶対に許さないから。

 姉さんを裏切ってあの人の下へと走った鳴海さん、あなたを。
 そしてそんな鳴海さんをたぶらかした先輩、あなたも……。
 先輩?
 ううん。もう憧れていた、尊敬もしていた「先輩」なんかじゃ、ない。
 あんな「女」。……許すものですか!

「どうしたんだ? 茜。随分と機嫌が悪いようだが」
 いけない。顔に出ていた?
「え? う…うん。ほら最近、鳴海さん姉さんのお見舞いにこないじゃない。だから変だな? って。姉さん、淋しがってるんじゃないかな? って思って」
 今日あったこと。でも今は言わないでおこう。
「……そ、そうだな。確かに最近、鳴海君の姿を見なくなったな。どうしたんだろうね」
 お父さん、知ってる?
 鳴海さんはもう、姉さんのところへなんて来てくれないんだよ?
 あろうことか、姉さんの友人だったあの人にたぶらかされて、その下へと身を寄せてしまったんだよ?
 姉さんのことを、見捨てたんだよ?

「……まあ、鳴海君にも事情というか、思うところがあるんだろう……」
「お父さん! なんでそんなに冷静でいられるのよ! 鳴海さんは姉さんを見捨てたんだよ? ほんの半月前まではお見舞いに来てたのに、少し見なくなったその間に違う女の人と付き合ってるんだよ?」
 我慢ができなくなった私は今日の出来事を暴露した。
「違う…女の人……おんな! あの女、速瀬水月とよ?!」
「……そう……か」
 別段驚く様子も見せないお父さんの態度に、怒りに震える心が臨界点を越えた。
「……どうしてそんなに『仕方ない』みたいに聞けるの? お父さん。悔しくないの? 姉さんが可哀相と思わないの? 捨てられたんだよ? その上、選りによって親友だった人に……奪われたのよ?」
「茜。それはな……」
「いやっ! もう何も聞きたくないっ! ……私は許さないよ。絶対に許すもんですかっ!」
 待ちなさい、というお父さんの声を振り切って部屋に駆け込んだ、私。
 悔しさと、悲しさと、憎しみとが混ざり合った涙が、いつ枯れるとも知れず、零れ続けた……。

 その日以来、私は変わった。
 迷いを振り払うように、水泳の練習に打ち込んだ。
 泳いでいるときだけ、記録に向かって進んでいるときだけ、無心になれる気がしたから。

 だけど、そんな私を衝き動かしているのは『憎しみ』。
 かつて憧れ、尊敬までしていた先輩像は、唾棄すべき対象に。
 記録を追い求めるのは、あの人に追いつき追い越して、上に立って見下すことで、私の中で屈服させ『敗者』の、そして『負け犬』の烙印を焼き付けてやるため。

 私の心の中に黒雲が湧き起こるように、憎悪の感情が広がってゆく。
 そんな気持ちを行動動機にする私。
 他人を憎む感情を前へと進む原動力に変え、かつて憧れ尊敬した人を貶めることで自分の存在を形作る。

 負の感情に支配された、事故から二回目の季節が巡ってゆく。
 そんな私たちをどこかで見ているのだろうか?
 姉さんはまだ、目覚める気配すら……ない。

Atto:3 心彷徨う、三年目

<1>

「茜。少し、いいか?」
 夕食の後、お父さんが声をかけてきた。
 何だか、苦虫を噛み潰したような、複雑な顔。
 どうしたんだろう? こんな日に。

 こんな日。
 そう。実は今日、とても嬉しいことがあった。
 ううん、嬉しいなんて軽い言葉で表現することなんて、できないくらいの。

 姉さんが、目を覚ましたのだ。
 7月も終わりに近づき、毎日水を取り替えなければ花たちさえも眠りにつきそうな、暑い夏の日の昼下がり。
 私が、いつものように病室の花の水を替えようと訪れたときのことだ。
 シーツ交換の仕方が少々雑だったのか、姉さんの手がベッドからはみ出していたので、きちんとやってくれないと……と、小さな悪態をつきながらそれを戻そうとした時だ。
 かすかな手の震えと息遣いに驚き、顔を上げると、ずっと眠り続けていた姉さんの目がうっすらと開いていたのだ。まあ、その後の私の取り乱し様は察しが付くかと思うけれど……。
 私の半分ろれつの回らない報告に、病棟看護師の星乃さんと天川さんが飛び込んできて、しばらくしてからそういうときに限ってたまたま非番だった香月先生が、大慌てを絵に描いたような普段着に白衣を引っ掛けた格好でやってきた。

 私はとにかく家に連絡しようと、とりあえずその場を離れることにした。
 病院内はもちろん携帯電話が禁止だから、転がり出るように外に飛び出すと震える手で番号を押した。
 電話口のお母さんとどんな会話をしたのか、今でも思い出せない。私もお母さんも、姉さん、目を開けた、聞いてる? などと、文章にならない日本語を並べていたのだけは確かなようだけど。

 でも当然だよね。
 今日と同じような暑い夏の日の午後。
 その照り付ける太陽さえ凍て付くような悲報に打ち震えてから巡ってきた、三回目の同じ季節。
 そう。姉さんは実に三年間も眠り続けていたのだから……。

 目覚めた姉さんの第一声は「孝之くんは?」だった。
 私は心が痛んだ。
 姉さん、鳴海さんはもう、いないんだよ? 姉さんのことをとっくに見捨てて、新しい女の人と一緒になってるんだよ? ……それも、姉さんの友達だった「あの人」と、なんだよ?
 あの事故から三年が経っていた。
 でも姉さんの中では、今だに三年前のままなのだ。
 記憶の混乱はこうした昏睡患者の場合さほど珍しいことでもないらしく、今後は本人が周りの状況を見ながらであったり周囲の人間が教えるなどして、徐々に修正されていくものだという。
 ただ今回は三年という長期でもあり、事実を教えることでのショックが大きかろうとの判断で、病室を隔離病棟に移した上でとりあえず三年前のまま。様子を見ながらそのタイミングを推し量っていく、ということになった。

「茜、聞いてるかい?」
 あ……つい。
「ご、ごめんなさい。何の話? ……言いにくそうな顔してるけど」
「あ、ああ。実はな、明日のお見舞いのことなんだがな」
 明日の月曜日。別病棟に移すために精密検査等が必要らしく、三日ほど間を空けてのお見舞い。お父さんもわざわざ大学に休暇願いを出して、家族全員で向かうことになっていた。
「……鳴海君に来てもらうことに、したんだよ」

「え?! どうして? どうして、今さら鳴海さんを? あの人はとっくに姉さんのお見舞いもやめて、他の女の人と付き合ってるような人なのよ? それを、何で今さら」
 口にされた名前が一瞬信じられず、それを噛み砕くように反芻するうちに、心の奥に仕舞い込んでいた負の感情が蠢き出した。
「……茜。そのこと、なんだがな。……いや、何でもない。と、とにかくだ。茜も知ってるだろう、遙があの事故から三年も経ったことを分かってないことを。……だから、な。とにかく三年前と同じ『状況』を作って、その時を演じる必要があると思うんだよ。いずれは本当のことを話さなくてはならないだろうが、とりあえず今は、な……」
 三年前と同じ状況をつくり出すために、そのために鳴海さんを呼ぶと言うの?
「でも来るのかな? 鳴海さん。だってそうでしょう? とっくに姉さんを見捨てたような人が今さら、どんな面下げてここに来るっていうのよ」
 当然とも言える私の疑問。
「いや……来るよ、鳴海君は。必ず……ね」
 確信を持った遠い視線が、少しばかり気になった。

<2>

 翌日。
 予告通り、鳴海さんは病院を訪れた。
 久しぶりに見る姿に私の心の奥で憎しみの黒雲が湧き上がったけれど、姉さんの前では三年前を「演じ」なければならない。震える口調を何とか抑えて「お兄ちゃん」と呼ぶ私。お父さんが気を利かせて「二人きりにしてやろう」と言ってくれたので、私は胸の中にたまった憎悪の瘴気を吐き出そうと病院の中庭に出た。
 一呼吸、二呼吸……
 どのくらいの時間が過ぎただろう。
 『面会』を終えて帰ろうとする『彼』が外に出てきた。

「ふうん……。姉さんが眠っている間、あの人と随分楽しく過ごしてたみたいですね」
 目に映った姿に、思わず口をついて出たのは……悪態。
 事情は聞きましたよ。三年前と同じ「状況」を作るには、あなたみたいな不誠実な人でも必要なんですからね。
 それであったとしても、よくも恥知らずにもここに来られたものですね。

「……言っておきますけどね、鳴海さん。私はあなたの顔すら見たくないんですからね。当然でしょう? 姉さんのことを二年間も放っておいて、あろうことか『あの人』と付き合ってるんですからね」
 このことを姉さんが知ったら、どうなるでしょうね?
 ショックでまた意識を失うかもしれませんよ?
「……やっぱり、聞いてないんだね、茜ちゃん。なら、恨まれても仕方ないか」
 話? この期に及んで言い訳ですか?
 理由はどうあれ、あなたが姉さんを『捨てた』ことに変わりはないと思うんですけどね。
「何の話です? それに、ちゃん付け。やめてもらえます? 虫酸が走るんですけどね。ま、もうここには来ないで、とは言いませんよ。いいえ、言えません。こんな不誠実なあなたであっても、三年前を演出するためには必要でしょうからね。これも姉さんのためです」
 そう、姉さんのため。
 姉さんの前でだけは『お兄ちゃん』と呼んであげますよ。
 そしていずれは姿を見せるであろうあの人のことも『先輩』と呼んであげますよ。

 でも、それ以外ではあなたたちは『裏切り者』でしかない。
 姉さんを必要としなくなったあなたたちに、私たちの前に現れる資格なんてないんですからね。

<3>

「鳴海君とは話をしたのかい?」
 夕食後のリビングで、お父さんが唐突に訊いてきた。
「え? な…鳴海さんと? そ…そりゃあ、ね。挨拶くらいだけれど」
 本当はそれ以上。
 姉さんを見捨てた鳴海さんを、責め立て、糾弾し倒した。
「やはり、許せないか……。そうだろうな。茜にしてみれば、遙のことを2年間も放っておいて、速瀬さんを新しい彼女にした、と受け止めるしかないからな」
「どういうこと? 私にしてみれば……って」
 お父さん。何を言い出すの?
 私に隠してることがあるの?
「……お父さんのことを恨んでくれて、いいよ。私だって、まさかこんなことになるなんて想像も出来なかった。だから、あのような自己保身以外の何物でもない短絡的な行動に出てしまったんだからね」
「短絡的な……って、一体、何をしたの?」
 押し殺したような表情と口調がさらにその色合いを落とし、搾り出すような声が私の耳に届く。
「鳴海君が姿を見せなくなった二年前。あの秋の日に、私は辛さから逃れたい一心で鳴海君に、言ってはならないことを言ってしまったんだ」
 まさか……お父さん?
「そう……。もう、ここには来ないで下さい、とね」
 悪い予想は大体が的中するもの。
 でも、今回のは……
「そんな……。じゃあ、鳴海さんが来なくなったのは……、あの人と一緒になったのは……!」
 何てこと、何てことを言ってしまったのよ、お父さん。
「そうだよ。あれ以上、鳴海君が悩み苦しむ姿を見たくなかった私が、無理やり押し通したエゴなんだよ。……そして、そのことで茜に責められたくないからと、今の今まで話せずにいた。……あの後、ひょっとしたら鳴海君たちが話してくれるかもしれない、そんな期待もあったものだから余計に……ね」

 二年前のあの日。
 鳴海さんが姿を見せなくなり、あの人と一緒にいることを知ったとき、私はあの人…水月先輩をひどくなじった。事情を知らなかったとは言え水月先輩のことを、機を見て姉さんから鳴海さんを奪い取った『卑怯者』と。
 そして、いくら傷心であったにしてもそんな先輩に気持ちを移ろわせた鳴海さんのことを『裏切り者』と。
 私は水泳をやめたという、言うなれば私の勝手な期待を裏切った先輩のことを始めから、色眼鏡をかけて見ていた。
 だからあのときも、先輩がどんな釈明や説明をしようとしたところで、素直に聞く気などなかった。
 あの時の水月先輩は、そんな私の心境を見透かしていたのかもしれない。何も釈明しようもせず、憎みたければ憎みなさいと言わんばかりのリアクションを返してきた。
 そんな先輩と鳴海さんを憎むことで、負の感情を原動力にすることで強くなろうとしていた私。

「……茜。悪いのは私なんだ。だから鳴海君を、そして速瀬さんを許してやってくれないか? 私はどんなに責められてもいい、だけど、あの二人だけは……」
 水月先輩……。
 鳴海さん……、
 お兄ちゃん……。

「何で……、何で今まで黙ってたのよ。どうしてよ! 私、鳴海さんのことを『裏切り者』って、先輩のことを『卑怯者』って呼んじゃったじゃない……。このことを知っていれば……、分かっていれば……こんなこと」
 今までのことは全て誤解?
 でも今さら、どんな顔をして鳴海さんと水月先輩に『誤解してました、すみません』って謝れると言うの?
 心の底から憎み、その憎しみをいわば「よりしろ」にしてこの二年間を過ごしてきた私が……。
 できない……。
 そんなこと、できないよ……。
「茜……」
「……私、もう、どうしていいのか分からない。分からないよお!」


Atto Fine 今は憎むことしか、できないから…

「……またいらっしゃったんですね、鳴海さん。それに先輩も……お久しぶりです」

 事情は聞きました。お父さんから。
 二年前のあの日。もう、来ないで下さいって言われたんですよね。

 そのときの鳴海さんの様子も聞かせてもらいました。
 茫然自失。
 抜け殻のようになってしまったあなたを、その場で支えたのが水月先輩だったんですね。
 先輩の真意は知りませんけど、そんな状況でわずかでもすがるものが現れたら、頼りたくもなりますよね。
 でも、どうして黙ってその言葉に従ったんですか?
 お父さんのエゴを受け入れたんですか?

 姉さんのことが本当に大切なら「嫌です、このまま続けさせて下さい」って言えたんじゃないのですか?
 やっぱり、諦めがあったんですよね。
 姉さんはもう、このまま目を覚ますことはないんだっていう諦めが……。

 ごめんなさい、鳴海さん。
 今の私は、あなたを憎むことしかできそうにありません。
 そして、鳴海さんのことを救い支えたであろう先輩、あなたのことも……。

 ここからは、私のエゴ。
 鳴海さん、もう一度、姉さんのところに戻ってきてくれませんか?
 あなたをずっと支えてくれた、水月先輩のことが大切なのは分かっています。
 でも、それでも……。

 今は憎むことしかできない私。
 でももう一度、心から『お兄ちゃん』と呼ぶことが出来るのなら……。

 だから、お願い。
 帰ってきて……下さい、姉さんのところへ。
 たとえそれが水月先輩の気持ちを『裏切る』行為であったとしても……

〜Fin〜

≪あとがき≫

 いわゆる空白の3年間のお話ですね。以前、同じ時間軸の水月視点話「心のゆくえ」で茜ちゃんがちょろっと出ましたが、それを茜ちゃん側から見た話、ということになりますね。
 まあ、散々に水月をこき下ろしてますんで……ヤヴァいかなぁ〜(苦笑)
 それにしても今回もギリでした。正直間に合わない、とさえ思いましたから。まあ、それだけに読み返してみると掘り下げの甘い箇所がそこここに……(汗)

『SSのお部屋』へ戻る