『SSのお部屋』

Preludio

「ダメ、ですか?」
 ささやくようなその口調に、寂しさの色彩が滲んでいた。

「いや、約束する。お前と出会ったことを誇りに思って、生きて行く」
 俺は誰に、約束したんだろう。

「……よかった、です」
 優しい微笑みが満ちる。
 それが少しずつ消えてゆく………
 ……待ってくれ、どこにも行かないでくれ。
 まばゆい光の中にその姿が、消えた。
 その名を叫ぶ、あらん限りの力を込めて………

 ………渚。愛しい響きに満ちた、その名を………

遠いあの日の誓いを胸に…

Atto:1 白い世界

「………うっ、はぁ!」
 夢?
 ここは、一体どこだろう。
 白い天井、白い照明、白い壁。
 白一色の世界。
 そしてこれは、ベッド? その上にシーツが掛けられ横たわっている俺の姿。
 これは、まるで病院の……。

「朋也!」
「岡崎っ!」
「朋也さん!」
 それぞれの口調は違うが、確かに俺の名を呼ぶ声。それもいくつも……。
 鉛の塊のような頭をどうにか動かして、辺りを見回す。
 ……早苗さん、オッサン、それに……春原に、杏。
「俺は、どうして……」
 そう、口にしたつもりだが、声にはならなかった。
 一番、近くにいる早苗さんの目が、赤い。まるで、泣き腫らしたように……。
 起き上がろうとして体を動かそうとすると、それを制止するかのように早苗さんの腕が、優しく俺の体を包み込んだ。
「まだ、動いちゃダメ。でも……よかった、本当によかった」

 状況がつかめない。記憶もはっきりしない。
 ただ、早苗さんの後ろから俺を見るオッサンの目が、悲しい怒りに満ちていた。
 俺は、何を、したんだろう?
「……早苗に免じて、ここでは何もしねぇよ。だがな、一発や二発ぶん殴っただけじゃ、正直、俺の気持ちは収まらねぇ。そのことだけは、覚えておくんだな」
 詳しいことはそいつらに訊け、と春原と杏の方に顔を向け、外の空気を吸ってくると言い残し、オッサンは部屋から出て行った。

「……俺は、一体」
「……マジでやばかったと思うぜ、あと1時間も遅かったら、な」
 ふぅっと息をつきながら、春原が口を開いた。
「古河さんから、朋也と汐ちゃんがどこに行ったか心当たりないかって訊かれて、アンタのこと捜してたんだ。見つけられたのは、ホント偶然っていうか、ほとんど奇蹟みたいなものだったよ。だって、雪の中で、うずくまるようにしてたんだもの」
 俺を見つけてくれたのは、どうやら杏だったらしい。体が冷え切り、意識も遠のいていたが、汐だけはしっかと抱きしめて、放さなかったそうだ。
 汐だけは。
 ……汐?!

「……汐、汐は?」
 無意識のうちに体が動いていた。早苗さんが慌てて抱きとめたその手を振りほどく。そこに杏が加わるがそれも。そして、さらに強い力が俺を押さえつけた。
「落ち着け! 落ち着くんだ、岡崎。汐ちゃんなら、大丈夫だ。だから、落ち着け」
 最後に加わった力と同時に、乾いた衝撃が頬を捉えた。タックルするように俺を押さえつけた春原が、何とか空けたもう片方の手で平手打ちをしたのだ。いつも冗談めかして人をはぐらかし、軽口ばかり叩いていたあの春原が。……目を覚ませ、と言わんばかりに。

 汐。
 俺の娘。
 愛しい渚と俺の間に授かった、命。
 忘れ……形見。

 その後、少しは落ち着いたらしい俺に、今回犯した愚行の一部始終が伝えられた。
 原因不明の高熱に苛まれ、本来なら立ち上がらせることさえできない汐を連れて、俺は雪の降りしきる外へと出た。『もう一度、パパと旅行したい』そんな、叶えられるはずもない願いを「最後の望み」として。

 汐。
 体の弱かった渚が、自らの命と引き換えに遺してくれた、かけがえのない命。
 渚の死の衝撃から逃げるように、そんな汐の存在からも逃げていた俺。
 5年という長い、長い『父親であることの放棄』という空白を経て、やっと始まった二人での暮らしに、運命の女神は残酷な試練を課した。
 母親である渚と同じ病。
 俺は、それまでの『ささやかな幸せ』を取り戻そうと、仕事も辞めて常に汐のそばにいることを選んだが、そんな献身さえもあざ笑うかのように、汐の症状は悪化の坂道を転げ落ちて行く。余りにも過酷な運命に弄ばれた俺に、正常な判断など下せるはずもなかった。
 だから、汐の『叶うはずのない願い』を、俺は受け入れてしまったのだ。
 そこまで、追い詰められていたのだ。

 冷静に考えれば、ほとんど死出への旅と言うに等しい、まさに愚行。小さな炎が燃え尽きるが如く、その歩みを弱め力を失って行く汐。白銀に染まる世界の中、俺はそんな汐を抱きしめながら、地に膝を付いた。俺と汐の周りは白一色に染まっていた。いや、恐らくはその時点で俺の意識は別の世界を彷徨っていたのだろう。

 白い世界の中で、渚の幻影を見た気がした。
 渚の声を聴いた気がした。
『後悔しないで下さい、強く生きて下さい』
 そんな声を聴いた気がした。
 その声に俺は、応えた。そして、誓った。
 ……強く生きる、と……

 俺と汐の行方が分からなくなってから、どのくらいの時間が経っていたのかは分からない。杏によって奇跡的に雪の中から救出され、病院へと運ばれたが、俺はほぼまる一日、意識不明のまま生死の境を彷徨っていたという。
 汐も、一時的に危険な状態だったそうだが、医者や発見者の杏の話では、俺が全身で包みこむように汐を抱きかかえていたことが幸いしたらしく、俺よりも回復は早かったそうだ。
 だけど俺も、事情をそれなりに知っている杏にも、それに早苗さんにも腑に落ちないのが、回復した汐の体温が平熱で落ち着いている、という事実だった。
 汐は原因不明の高熱に苛まれていたはずだ。

 その時、俺の脳裏にあの時の光景が甦った。
『約束して下さい、強く生きると……』
 その声に応え、真っ白な光の中で、俺はアイツに誓った。
『……お前と出会ったことを誇りに思って、生きて行く』と。

『よかったです……』
 安堵に満ちた答え。その後に続いた言葉があった。
 それに導かれるように俺は、そして汐はこの世界に戻ってこられたのか?
 そして、汐の原因不明の病もまた……。
 後に続いた言葉。
『私の分まで、生きて下さい……』

 渚………
 涙が溢れた。
 横たわったまま、俺は人目も憚らずしゃくりあげていた。
「渚、みんな……。ごめん、ごめんよ……」
 暖かな手が泣きじゃくる俺を包み込んでくれた。
「もう、いいの。今日のことは今日までにしましょう。だから、これからのことを考えるの、ね?」

 どこまでも優しい早苗さん。
 杏、そして春原。
 いつの間にか病室の入口に戻ってきていたオッサン。
 こんなにも見守られていたと言うのに、俺は何と言うことを……。
 ただ泣き続けることしか、できなかった。
 ……この、白い世界の中で……

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Intermezzo 出会い、共に過ごした日々。そして、別れ…

 桜の舞い散るゆるやかな坂道。
 その登り口でアイツは立ち止まっていた。
 この学校は好きですか?
 誰に語りかけるでもなく、呪文のように繰り返し唱えながら……

 栗色のショートカットに包まれた俯き加減の白い肌が、クリーム色を基調にしたセーラー風の制服と見事に溶け合い、細い体の正面に回された両の手でカバンを下げ、もじもじと躊躇うような仕草が、華奢な容姿にさらに幼げな印象を加えていた。

 興味本位、だったと思う。
 そんなアイツに、俺は言葉をかけた。

 探せばいいだろ? 次の好きなものを、楽しいことを……
 半分は俺自身に向けた言葉だったのかもしれない。
 幼い頃に母親を失い、父親ともうまくいかず、ただ惰性のように学校生活を送っていた俺。そんな面白くもない生活を変えたいという思いが、きっかけという『見返り』を求める気持ちと重なり合い、言葉として口からこぼれ出た。
 期待はしてなかった。顔は見えなかったが初めて見る姿、しかも女生徒だ。仮にこちらの存在に気付いていたとしても、向こうだって警戒しているだろう。何も返答がなければまたいつもの日常が始まるだけ、そう考えていた。

 だけど、彼女は反応した。
 ひとり言に突然かけられた言葉に驚いた、というのが正しいのだろう。ぴくっとその華奢な体を震わせると、ゆっくりとこちらに振り返った。その視線の先に映ったのは見ず知らずの男子生徒である俺なのだから、普通なら興味なさげに失望の色彩を交えながら顔を背けるだろう。
 だけど………

 彼女の視線は動かなかった。
 俺もその視線から目を逸らすことが出来ないでいた。
 柔らかな春風とそれが運んだ桜の花びらが、俺とその女生徒の間を吹き抜けていった。

 この瞬間に、何かが始まったのだろうか?
 何かが、動き出したのだろうか………

 その女生徒は、古河渚。
 一見、気弱で内気などこにでもいる、引っ込み思案な女の子。それが第一印象だった。この出会いも一つの縁だ、からかい半分に付き合ってやろうと当時の悪友、春原やクラスメイトの藤林杏、その妹の藤林椋らとともに、日々は流れて行った。

 一見、気弱で内気。
 だけど、その中に強い意志と優しい包容力とを秘めているのに気付いた時、励まし励まされるというその立場は逆転し、俺にとっての渚は何にも代えがたい存在へと変化して行った。そして渚の家族とも触れ合う内に、俺の中で欠けていた『家族』という名のピースが、憧憬とともに形をハッキリとさせて行ったのだ。

 そして卒業。
 その翌年、遅れて卒業した渚と、俺は結婚した。
 そして渚は、俺との子どもを宿す。
 だけど、それが悲劇を招いた。
 卒業の遅れの原因ともなった、渚の病弱な体質だ。
 医者からは、出産には危険が伴うと忠告された。
 けれど、渚は必ず産む、と譲らなかった。
 弱かった自分が、強くなるためと……。

 そうして授かった、俺と渚の子。
 汐。
 けれど、渚はその手に汐を抱くことはなかった。
 余りにも大きな代償。

 だから俺は、逃げた。
 この世界の全てから………。

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Atto:2 悔恨を明日への糧に

「……二回目、だな」
 病院の屋上。
 オッサンが既に火が消え吸殻同然となったタバコを弄びつつ、まるで視線を合わせると怒りしか込み上げてこないとばかりにその顔を背けながらつぶやいた。
「……え?」

「オマエのことだ、朋也。いいか、おまえはやってはならないことをもう二回もしてしまったんだ。そうさ、親であることを放棄するという……な」

 親であることを放棄。
 それも、二回目。
 一回目は、そうだ。あのとき……だ。
 渚が、己の命と引き換えに授けてくれた、新しい命。俺と渚の子、汐。
 だけど、俺はそのかけがえのない『命』をこの手に抱こうとはしなかった。それどころか、その存在から目を逸らしていた。与えてくれた『命』への『代償』、最も大切なものを失った現実から逃避するように……。

「いつだったか言ったよな、オマエに。やるべきことをやり抜いて、それがもたらした結果をあるがままに受け止める。そしてそこからまた考え、始めるんだ……と」
 それは早苗さんにも話してなかったと言う、幼い渚の命が救われた時の不思議な体験を俺に語った日に、一緒に話してくれたものだった。

「だが朋也。オマエはやり抜いたと言えるのか? 胸を張って、アイツにそう報告できるのか?」
 鋭く俺を見つめる視線。そこに寂しさが滲んでいた。
 報告。……胸を張って。
 できるわけが、ない。
 俺は言葉もなく、ただ俯くことしかできなかった。

「ま、そうは言うものの、俺もそう偉そうなこと言えた義理じゃないけどな」
 オッサンが咥えていたタバコを足もとですり潰し、手持ち無沙汰となった両手をズボンのポケットにねじ込みながら、自嘲気味に遠くに視線を泳がせつつ、呟いた。

「俺には早苗がいた。渚も生死の境を彷徨ったが、俺たちのところに帰ってきてくれた。懸命に自分の存在を訴えてきていたアイツをいわば見捨てて、自分に走った愚かな俺たちの下へ……な。今のオマエに較べれば、まだ救いがあったと言えなくもない」
 当時、早苗さんは学校の教師として、受験を間近に控えた教え子の追い込みに付き合っていた。オッサンもまた、所属劇団の公演準備に追われていた。その結果、幼い渚は風邪をこじらせ生死の境を彷徨う事態にまで陥った。

「俺はあの日を境にして、劇団を辞めた。早苗のヤツも教職から身を引いた。二人して、いつも渚のそばにいられるようにするにはどうすればいいか、どうすればいつも見守ってやることができるのか、そう考えに考えた挙句、商売なんてものを始めちまった」
 家で渚を見守りつつ生きていくには、ここで仕事をするしかない。そう考えて全く経験のなかった自営業を始めた。試行錯誤を繰り返しやっと軌道に乗った頃には、貯えはすっかり消えていたが、それも罰の内なんだと割り切ったと言う。

「……糧、だったと今は思うようにしている」
 数瞬の間を置いて、オッサンがふっと空の彼方に視線を投げながらつぶやいた。
「……糧?」

「ああ、糧……だ。俺たちの身勝手が招いたあの事件。それを悔やんで、反省することなんていくらでもできた。だがな、それは後ろ向きの生き方でしかないってことも、分かっていたんだ。渚が命を賭して訴えかけてきたのは、単に反省を求めているだけじゃない。そこから俺たちが何を得、何を学んだか。人として、親として生きるとはどういうことなのか、それを悟らせるためだったのだろうな」

 人は失敗を続ける生き物だと言う。
 過ちを重ねる存在だとも言う。
 そして人は失敗から学び、過ちを悔い、それを礎とし糧として成長していくものだと……。

「悲しいことだけどな、それが人間ってヤツなんだと思う。だからと言って、それに悲観して勝手に幕を引くことも許されないんだ。なあ、朋也。生きていくしかないんだよ、俺たちは。俺たちなりに……な」
 生きていくしかない。
 言葉が胸を突き動かした。

「私の分まで、生きて下さい……」
「あん?」
 不意に出た一言に、オッサンが怪訝な顔をした。
「いや、単なる夢だったと思うけどさ。眠っていた時に、渚がそう言ってくれたような気がしてさ」
 眩いばかりの光の中で聴いた言葉。

「……夢じゃないさ」
「え?」
 今度はこちらが怪訝になる番だった。
「それが夢だろうが、幻だろうが、聴いた本人がどう捉えるか、じゃないのか? 俺が渚を抱きかかえつつ、朝日の中で何かを見た時のように……な」
 死に瀕していた幼い渚が、朝日の中でゆっくりと目を覚ました。その時、オッサンもまた言葉では表現できない何かを見たのだろう。それが夢であれ幻であれ、渚が助かったのは事実。だからそれもまた夢でもないし、幻でもないのだろう。

「さて、そろそろ戻るか。オマエも一応、入院患者なんだし、面会も程ほどにしないとな」
 検査などもあってしばらく入院することになった、俺と汐。
 屋上からの帰り際、もう一度茜色に染まりかけた空を見上げた。

 ありがとう、渚。
 オマエと俺とが授かった命。
 そして、オマエが託してくれた俺と汐の命。
 その想い。
 今度こそ、受け取ったよ………

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Atto:3 遥かなる歩み、再び…

「ああ社長。どうします? 一応、捕まえましたけど、そのまま連行しましょうか」
 もともとの素質に加え、肉体労働で鍛え上げた腕力でもって、公衆の面前で俺の首根っこを掴み上げ、そんな奇異な光景をどこ吹く風とばかりに携帯電話で通話している男性。……芳野さんだった。

 汐の病気を理由に高卒以降お世話になっていた、光坂電機を退職した俺。その後いろいろあったけれど、幸いにも汐が快方に向かったことで、当然のことだが生活のために仕事を探していた。不況も手伝ってやや難しいものがあったけれど、以前の仕事の際に取得させてもらった電気技術系の資格はやはり大きな武器だった。条件的にもさほど高いものを求めていなかったのでいくつか候補が見つかり、それの問い合わせをしようとしたところで、かような状況になってしまったのだ。
 言うまでもなく、ここは公共職業安定所。つまりハローワークだ。仕事を求める人々でごった返す中での珍事だけに、奇異の視線があちらこちらから注がれている。

「よ、芳野さん。いくらなんでもアレはないですよ」
 事務所への道中の車の中、さすがに俺も抗議をした。
「何を言ってる。俺や社長との約束を反故にするようなヤツに弁解の機会を与えるほど、俺は大人でもないぞ」
「や、約束って……」
 そこまで言いかけて、やっと思い出した。

 ……岡崎君、いつでも戻ってきていいんだからね。
 ……お前が戻ってくるまで預けておく。だから大事にしろ。

 仕事を辞めた、離れたものと思っていた。
 だけど、違っていた。そう思い込んでいただけなのだ。その時、心を閉ざしかけていた俺自身が。

「やあ岡崎君、久しぶりだね。どうかな? すぐにでも復職できるのかな?」
「大丈夫でしょう、文句言うだけの元気あるんですから」
 光坂電機の事務所。仕事を辞めたのは半年前だからさほど変わりはないが、親方が社長と呼ばれていることから組織的には多少の変革があったのだろう。けれどそれ以上に、その社長の『復職』という言葉に俺は驚いていた。
「お、親方。あの、復職って」
「あれ、聞いてないの? 岡崎君は退職ではなく、一時休職の扱いだったんだけど……」
「ほら、さっさと支度しろ。ブランクのことも考えて、今日は軽い仕事にしておいてやったんだから、少しは感謝しろよ」
 芳野さんが、親方の言葉が終わらない内に作業服一式を投げてよこす。

「いいんですか? あんな辞め方をした俺が、またここで働かせてもらっても……」
「いちいち回りくどいヤツだな、こっちがいいと言ってるんだ。あ、そうだ。預けておいた工具、今度持ってこいよ。それが復職の承認代わりだ」
 職場を離れる日、芳野さんが俺に渡した一本のドライバー。
 そう、確かにあの時言ってくれた。
 預けるだけだ、と。

 繋がっている。
 ここでも、俺はみんなと繋がっていた。
 それを断ち切ろうとしていた。
 何て愚かだったんだ、俺は。

「分かりました! じゃあ社長、行ってきます。芳野さん、お願いします」
 現場でもないのに目深にヘルメットをかぶりながら、大声で返事をした。
 嬉し涙と照れ隠しなのは、そこにいる全ての人に明白だった。
 けれど、誰もそのことには突っ込まなかった。

 また始まる。
 そして、再び登り続ける。
 長い、長い坂道を。
 繋がっている人々と、支えてくれるみんなと、そして……汐とともに。
 愛しい渚の想いを乗せて………

*          *          *

 そして時は流れて行く。
 季節は巡り、風景は移り行く。
 昨日の幼子は、日に日に育って行く。
 今日の大人は明日を見据えて、年輪を刻んで行く。

「ねえパパ、似合ってる?」
 母親譲りの可憐で華奢な体躯に、赤いラインの入った白のセーラーカラーに彩られた、クリーム色の制服が見事に溶け合っていた。くるりと体を回すと、わずかな風の流れを掴んで、短めの紺色のスカートがふわりと舞う。
 少しばかり、悪戯心が芽生えた。

「わあ、……ってアレ? もうヤダ、これママの写真じゃないの」
 自分で見てみろよ。そんな言葉とは裏腹に鏡を見せるフリをしつつ、渚の在りし日のポートレートを突き出すと、ぷうっと膨らませた頬で汐が抗議の上目遣いを投げてきた。
「はは……、それだけ似てるってことさ。うん、これでもう少しおしとやかなら、それこそママと生き写しだったんだけどな」
「もお、パパったらぁ!」

 ほどなくして玄関の呼び鈴が鳴り、トーンの異なる黄色い二重唱が汐の名を呼んだ。
「いっけない、もうこんな時間? じゃあパパ、行ってきます!」
「ああ、行ってらっしゃい。パパ、多分遅くなると思うから夕食また一人になるけど、いいかな?」
 今日は光坂高校の入学式の日だが、汐の意向もあって式には出ず、いつも通り仕事に行くことにしている。もっとも高校の入学式なのだから、そもそも親同伴自体ほとんどないし、式会場の父兄席も申し訳程度にあるくらいだ。

「うん、それはもう分かってる。でも、その代わり……ね?」
 その先は言われなくても分かってたし、汐も口には出したくないのだろう。
 高校生になった汐だけど、実は今でも一緒にお風呂に入ることもあるし、同じ布団で寝ることだってある。汐の方からそうして欲しいと言ってきていることだけど、汐自身も分かっているのだろう。間違っても外でこの話はしない。もちろん俺も同じで、これは二人だけの秘密だ。

 互いを遮るもののない、素肌の触れ合いが欲しくなる時がある。
 全てを預けられる、一番安心できる場所で眠りたくなる時がある。
 そして、そんな汐をそっと抱き寄せ、優しく守りたくなる時がある。
 汐も、そして俺もそれだけ渇望し、求めているのだと思う。触れ合うことで確かめられるもの。それはかつて俺自らが放棄したことで失くした時間。一番甘えたい時期に、そうさせてやれなかったことへの償い。そして不運に絶望して失いかけた、親と子の触れ合いと絆。まさに、そのものだったから……。

 汐もいつかは俺の手元から巣立って行くのだろう。
 女性なのだから恋もするだろうし、その先には結婚だってあるだろう。
 いずれにしても、今のこの時間が永遠に続くことはない。
 だからこそ、今、この時間を大切にしなければと思いつつも、そろそろ引き際のことも考えなければ、といささか寂しい想いに囚われることがある。

『その代わり……ね?』
 その言葉と一緒に頬を染める汐。その色合いがいつも以上に感じた、光坂高校入学式の今日この日。もしかしたら汐も感じたのだろうか? 『そろそろ、パパから離れないと』と。そして『俺もそろそろ、子離れするときかな?』と。

 なあ、渚。
 俺たちは生きているよ。
 あの日のことは、やっぱりオマエなんだよな?
 渚、オマエが繋ぎとめてくれたんだよな?
 俺と、そして汐の命を。

 だから、今度こそ誓うよ。
 あの日の誓いを胸に、強く生きていくと。
 どんなことがあっても、それを投げ出さないと。
 だから、見守っていてくれ。

 薄く開いた窓から暖かな春の香りを孕んだ風が、ポートレートとそれを見つめる俺との間を吹き抜けて行った。

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Atto Fine そして命と想いは巡る…

「……女の子」
「ええ、可愛らしい女のお子さんですよ。お母さんがちょっとお疲れですけど特に大きな問題もないですし、お子さんも元気そのものです。……いかがですか、岡崎さん? おじいちゃんになってしまった感想は」
 悪戯っぽく笑みを浮かべる看護師さん。胸の名札には『産婦人科看護師長、藤林椋』の文字があった。……全く、人の運命や繋がりというヤツは。

「名前、考えてくれた?」
「え? 名前?」
 それなりに難産だったのもあって、面会謝絶とまでは行かないまでも安静が必要になっていた汐。仕事の忙しさとお見舞いの両立に参りかけていた旦那さんに代わって、産後の見舞い役を買って出た私に、落ち着きを取り戻した汐がそう切り出してきた。

「もお、約束してくれたじゃない。名前、考えてくれるって……」
 そうだったかな? と軽く頭をかきながら、記憶の引き出しに手をかける。そう、あれは私にとっての激動の日だった。一人娘、愛しい渚の忘れ形見、そんな何物にも代えがたい宝物。汐が傍らに男性を伴って帰ってきた、その日だった。
 汐の付き合いそのものは知っていた。もともと隠し事がキライな性格もあったからすぐに打ち明けてきていたし、私も自身の経験から二人の成り行きを暖かく見守るというスタンスを取っていた。だけどやはり『結婚』となると話は別だった。
 ひょっとして、オッサン(今もこう呼ぶのはさすがにどうかと思うのだが……)も同じ気持ちだったのだろうか? 渚との婚約の報告をしようとしたとき、散々にはぐらかされたのを今になって思い出していた。
 私も、やれ仕事だ付き合いだとはぐらかしまくっていたが、当然のように抵抗空しく婚約承認をさせられ、その席上で子どもができたら名前を考えてやる、と約束したのだった。……半分はヤケ酒の勢いまかせだったと思うのだが、当人たちはいたって真面目に受け取ったのだ。

 私の視線の先で静かな寝息を立てる小さな命。
 女の子。
 なまえ……
 静かに目を閉じる。
 憧憬がまぶたの奥に広がった。
 そして余りにも自然に、それは口から零れ出た。

「………渚」
「……え?」
 その余りに愛しい響きに、汐が目を丸くする。
「それ、それ……って」

 遠い記憶を手繰るように……
「……ママの名前、よね」
 そして、確認するように俺に問う。
「ああ、そうさ。……ママの名前、だよ」

「いいの? パパ。そんな、大切な名前もらっても……」
 静かに頷く。
「ああ。……汐の子、だからな。だから、あげたいんだよ。この名前を……」
 汐の瞳に柔らかな波紋が広がっていく。
「うん。ありがとう、パパ……」

 いいよな、渚。
 この小さな新しい命に与えてやっても。
 オマエのように、優しく、強い人になってもらいたいから。
 そして今度は、汐から見守り包みこんでもらえるように。
 渚は汐を見守り、汐は渚を包みこむ。
 そうして、命と心と想いとが巡り行くように……。
 だから、この名前。

 ………渚、を………


〜Fin〜

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≪あとがき≫

 Gリーグと言う例外がありますが、作品SS単体としては初の「非君のぞ物」です。「CLANNAD」に限らず、Key系のSSは以前から書いてみたかったのですが、やっと実現しました。

 今回、After Storyの汐編をテーマにIF系のお話を書きましたが、これは本編での汐編が(パラレルとは言え)余りにも悲しい結末だったので、少しでも希望が持てるお話にできないものだろうか?という思いが、執筆動機になっています。個人的な脳内補完には違いないんですけど、まあSSって本来、そういうものでしょうし。
 それにしても久しぶりのSS。ホント、文章が書けなくなってるのを実感してます。

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