『SSのお部屋』

Preludio

「ただいま……」
 口癖のように思わず吐いて出る、言葉。
 もちろん、返事なんてない。
『おかえり』と返してくれる人なんて、いない。

 そう……
 ここには、私しか……いないから。

 今、私は一人きりだから。
 一人で暮らしてみる、と出てきてしまったのだから。

 それは過去と決別するため。
 それは想い出を打ち捨てるため。

 そして……
 この体が覚えている「ぬくもり」を消し去るため。

 でも……
 ほんとうにできるの? そんなことが……
 ほんとうに、してしまっても……いいの? そんなことを……

 だけど、それが私の選んだ道だから……
 選んでしまった、ことだから……
 だから……、今はそれを、続けるだけ……

ただいまと、おかえりと…

Atto:1 ひとりでいる、ということ

「え〜、今日から君たちの指導を担当して頂くことになった、速瀬水月さんだ。知ってるとは思うが、速瀬さんはかつての高校水泳の記録保持者。今から3年前の記録と言っても……」
 横で私のことを紹介してくれているのは、ここ陽光学園の水泳部顧問をしている北島聡先生だ。

 陽光学園。
 今年で創立5年目を迎えた新設校で、私立ということもありスポーツに特に力を入れている。現在のところ一番知名度が高いのは男子サッカーで、地区大会でも上位常連。プロのクラブからのオファーもくるほどの実力を持っているとのことだ。
 水泳に関してはまだそれほどの成績は出せていないそうだが、男子は有力コーチ(北島先生のことだ)の指導によりここのところメキメキ力をつけているそうで、もう少しでインターハイクラスの選手が出るのでは? と期待を寄せられている。
 私がコーチとして招かれた女子はまだまだこれからのようだが、先日視察した限りでは良い素質を持った選手が数人いるようなので、指導のしがいがありそうだなとの印象を受けた。

 実はこの陽光学園女子水泳部のコーチ就任話、高校卒業後の進路の一つとして存在していたのだ。非常勤の扱いであれば教員免許の必要がないそうなので、第一志望の実業団『フォレックス』がダメになったときのいわゆる「滑り止め」として候補には挙げてもらっていた。
 結局、いろいろあって水泳から遠ざかりたくなった私は、その傍目から見れば実においしい話すら断り、親と先輩のコネに頼って一商社のOL職になってしまった。おまけに私的な事情からそのOL職からも離れて無職の女となり、今では錆付きかけた『過去の実績』しかない私をそれでも、ここ陽光学園は買ってくれた。もちろんかつての私のコーチであった人の口添えがあったからこそ、実現したのだけれど。

「……速瀬君、速瀬君ってば」
「え?! あ、す…すみません。え〜そんなわけで、余り頼りがいのあるコーチではありませんが、よろしくお願いいたします」
 考え事をしていた私は、とりあえず定番じみた挨拶でしのいだつもりつもりだったけど、どうやらそれ以上に話が進んでいたようだった。
「いや、挨拶はそれくらいでいいから。ああ、岩橋君、すまんが更衣室まで案内してやってくれるかな?」
 え? 更衣室? 初日とは言えちゃんと水着は持ってきてるけれど、いきなり顔と名前も一致しない子たちのコーチをしろっての?
「あの……ブランクはもちろんあるんでしょうけど、期待はしてますよ?」
 更衣室への道すがら、岩橋さんというその子が興味津々な表情で私を見つめた。確か視察のときに良い動きをしていた子よね。……でも、期待って。イヤな予感を抱きつつも、とりあえず着替えることにする。

 わずかに締め付けを感じる心地いいまでのフィット感。
 やはり、体が憶えているのだろう。
 高校生のとき以来体を通していなかった競泳用水着。
 もちろん夏場にプールや海に出かけることはあったけれど、カジュアルな水着と競泳用のそれとでは、身に付けたときの体の反応が無意識のうちに違ったものになる。気持ちが引き締まるとでも言うのだろうか?

 水着の上からパーカーを羽織りプールサイドに出た私。
「ウォーミングアップはいいのかい? 水慣らしも……って、話聞いてなかったねその様子では」
「……え? 初日からコーチングするってことではないんですか?」
 私の言葉に半分顔を覆っている北島先生。初日からのコーチングのことではないって……まさか?
「100mのタイムアタックだよ。ブランクがあると言ってもかつての記録保持者の君だ。部員たちがその泳ぎっぷりを見たいと思うのも当然だろ?」
 どうやら私のイヤな予感は的中。
「そ……そんな、いくらなんでも3年のブランクがありますから、みんなの期待するような泳ぎなんてムリですって……」
 文句を言いつつも皆の視線にしぶしぶウォームアップを済ませ、スタート台に向かう私。はあ〜、いきなり腕試し? しかもブランクがあるっていうのに。……期待を裏切って初日から悪い印象植え付けたらどうしよう。

 でも、そんな戸惑いはあの場所に近づくにつれて、自分でも不思議なくらいに消えていった。
 3年ぶりに立つスタート台。
 天窓から差し込む陽の光が、静かに揺れる水面を青と白のまばゆいばかりのモザイクに染め上げる。
 呼吸を整え、ゆっくりとゴーグルを下ろす。
 何だろう、この高揚感。
 体が自然に動く。
 ホイッスルの音とともに思い切りスタート台を蹴る。
 一瞬の空を裂く飛行の直後、懐かしささえ感じる水の抵抗が全身を包む。
 1、2、3……
 カウントをしながら潜水、そして浮上。長めのストロークで水を掻き分けて進む。
 50のターン。前方に壁の気配を感じ取ると、沈み込むようにくるりと体をひねり反転。両の足が冷たく硬い感触を捉えると、前へ進もうとする力の全てをその一点に叩きつける。
 私の体は水の中でどう動くべきかを、まるでプログラムされているかのように、記憶していた。

「ふうっ……」
 剥ぎ取るようにキャップを外し、首を左右に大きく振る。泳ぎ終わった後にする高校時代からの私のクセだ。もちろんあの頃は髪を伸ばしていたからそうしていたのだけど、そうした体に染み付いた仕草というものは自然と出ちゃうみたいね。
 ふとプールサイドを見ると、呆気に取られたような北島先生と女子部員たちの顔。
 あちゃ〜、やっぱ期待を裏切っちゃったのかなぁ〜。自分としてはブランクがあるわりにはうまく泳げた方だと思っているんだけどね。

「は、速瀬……君」
「え? な……なんでしょう。ひょっとしてあまりのひどさに言葉もない、ですか?」
 まずったかな? と思った私だったけど、どうやら逆の意味で呆気に取らせてしまったようだった。
「何を言うんだい! 今インターハイに出ても上位狙えるんじゃないのかい? 正直、驚いたよ。スタート台に立ったときから只ならない雰囲気だったけど、まさかこれほどとは……ね」
 ………ねえねえ、すっごい泳ぎだったよね。
 ………今の私よりも速いじゃない、こんなスゴい人がコーチしてくれるの?
 ………それにね、後輩からもスゴく慕われてたって話よ?

「はいはい、静かにして! というわけでだ、かの速瀬さんが今日から君たちのコーチとなってもらえることになった……」
 ざわめき立つ場を制するように北島先生の締めの言葉が響き、続いて「よろしくお願いします」との黄色い合唱が続いた。
 しばらく水泳から離れていたのだからもちろん不安はあるけれど、いいスタートを切れたのは確かなのだ。
 うん、やっていけそうね。……とりあえずは、ひとりでも。

*          *          *

「ただいまぁ」
 返事なんてあるわけないのに、思わず出てしまう一言。
 まあ昨日一人暮らしを始めたばっかりなんだから、ついついそんなこと言ってしまうのもムリはないのかもね。
 高校卒業から3年。
 長年住み慣れた柊町を出て、ここ桜ヶ丘町で一人暮らしを始めた私。
 でも陽光学園のコーチに就任したからといって、わざわざ住み慣れた町を出る必要など、実はなかったのだ。ここ桜ヶ丘町は柊町から1時間もあれば訪れることができる町。そう、陽光学園は柊町の自宅からだって十分に通勤できる距離なのだ。
 なら、どうして?
 そう、私にはそんな住み慣れた町を離れなければならなかった『理由』があったのだ。

 ふっと視線が整理棚の上へと泳ぐ。
 そこには自分を含めた4人が収められた『思い出の証』が飾られている。
 そんな『思い出』を断ち切るため、『思い出』が一緒に連れてくる『痛み』から逃れるために、私は一人でいることを望んだというのに……。
 まだ日が浅いからということもあるだろうけれど、今の私はまだそれを『過去のもの』として心の整理棚に仕舞いこむことが、できないでいる。

 日を追うことで、こんな気持ちは薄らいでくれるのだろうか?
 薄らいでしまっても、いいものなのだろうか?

 複雑な想いを抱きつつも、私の『ひとりでいる時間』が始まりを告げ、そして……流れてゆく。

Intermezzo
 ひとりでいなければならない、理由(わけ)

 それはほんの半月ほど前のこと。
「どうしても、行っちゃうの? みつき」
 住み慣れた町を離れ、友人とも別れ、一人で暮らしてみると言い出した私に、戸惑いと半泣きの入り混じったような表情で『確認』を取りにきた、高校時代の親友。
 涼宮遙。
 内気で奥手な彼女が、好きな人がいるんだ……と相談してきたのは高校3年生の春だった。もともとお節介なほどに世話好きな私は、興味半分でその橋渡しをしてあげた。……そこまではよくある「友達付き合い」以外の何物でもなかった。
 高校卒業から3年。
 そう、その3年の空白をもたらした、あの事故さえ……なければ。

 私がその橋渡しを演じることになった遙の想い人、鳴海孝之とのデートの待ち合わせ中に交通事故に遭い昏睡状態に陥った遙は、その後の3年間を失った。そして絶望に沈む孝之に寄り添うことにした私は、日に日に大きくなってゆく孝之への想いに戸惑いながらも、「遙の代わり」を演じ続けていった。
 だけど私は役者ではないし、これは舞台でもドラマでもない、現実。
 孝之の深く傷ついた心が癒されてゆくのに比例するように、私の心の中の想いも隠し切れないものになってゆく。孝之もそんな私の想いに気付き、『遙を忘れることはできないけれど、これからも支え続けてくれるか? 今、一番大切なのは水月……お前なんだから』と、二人の想いがやっと重なり通じ合えたと感じた、事故から3年目の夏。

 遙が目を覚ました。
 3年の空白が急速に収縮してゆく。
 孝之が胸の奥に仕舞い込んだ『遙への想い』が軋んだ音を立てながら、再び動き出す。
 それをひた隠しにしようと振舞った孝之だけど、私が気付かないわけがない。そして私のそんな気持ちに気付けない孝之でも、なかった。
 どうして、今になって……
 時間はなんて残酷で、卑怯なの?
 やっと、私と孝之との時間が動き出したのに、それを否定するように、凍り付いていた孝之と遙の時間までも動かすだなんて……。

 だけど、本当に卑怯なのは……私。
 3年前、遙の想いの手助けをしようと孝之に近づきながら、遙と同じように想いを寄せてしまった、私。
 だけど、私と遙、遙と孝之、孝之とその親友の慎二、その縁がもたらした私と慎二の友人関係、4人の輪を崩したくないと考えた私は、孝之への想いを胸の奥に仕舞い込んでそんな「上辺だけの4人の輪」を維持し続けようとした。
 そこへ、あの事故。
 私は「遙の代わり」として孝之に寄り添いながらも、二人の時を過ごすうちに秘めた想いを大きくしていった。……もう遮るものなんて、なかったから。既に一人欠けて崩れてしまった『輪』を気にする必要もなかったから。
 そう、私は『遙』という隠れ蓑を纏いながら孝之を見つめ、それを気にする必要がなくなってから、自分の気持ちに正直になることにしただけなのだ。

 そんな私への報い? 罰?
 孝之も苦しんでいた。
 3年間自分に寄り添った私と、一度は停止し再び動き出した遙への想いの狭間で。
 だけど、遙を失い絶望の奈落に沈んだ孝之。そこへあたかも蜘蛛の糸のように垂れ下がった『私』という存在に必死にすがりつき、遙が目覚めてからもそれを大切にしようとしている孝之を、優柔不断な人間だと誰が責められよう。
 むしろ、そんな「すがる物」を求めていた孝之の、絶望に打ち震える心の隙に付け込むように入り込み、遙の代わりと言っておきながら無理やりそれを忘れさせ、自分の方へ振り向かせた私こそ、責められて当然の存在ではないのか?

 苦悩しながらも孝之は『遙』との時間を選んだ。
 孝之と慎二がいて、遙と私。
 傍目から見れば、3年前の輪が再び回りだしたと映るだろう。
 だけど、私はもう3年前のようには振舞えない。
 遙という隠れ蓑を纏うには大きくなりすぎた『想い』。

「いつか、帰ってきてくれるよね? みつき」
 涙声でそう訴えかける遙。
 どうしてそんな言葉をかけてくれるの?
 私はあなたが眠っているのをいいことに、あなたから孝之を奪おうとした女なのよ? 孝之の心を乱した元凶なのよ? それなのに、どうして……

 今の私に、遙の気持ちの真意を汲み取ることはできない。
 何もかも許してくれるような『遙』がいる『4人の輪』に甘えているうちは……。
 だから私は、その『輪』から抜けることを決めたのだ。
 ……ひとりになることを、望んだのだ。

 これが、今、私がひとりでいる「理由」。
 単に逃げただけだ、という謗りは甘んじて受けよう。
 全てを見つめなおすための時間だけが、今は必要なのだから……

Atto:2 おもいでに苛まれて…

「……ほらほら、動きにムダが多いよ? もっと自然に! ……ほら、壁を目で見てるうちは素早いターンなんてできないって言ってるでしょ? ……………」

 赴任して2ヶ月余り。
 初めのうちは多少遠慮気味に指導してたけど、やっぱり地というのはすぐに出てくるものなのね。怒声というほどのものではないけれど、ついつい声を荒げる場面もあるからなのか、最近の私はどうやら「鬼コーチ」との陰口をささやかれてるみたいだ。もっとも単にスパルタだけではいけないので、きちんと「飴とムチ」を使い分けてるように気は遣ってるつもりだけど。

「ふぅ〜」
 リラックスタイムと称して自由時間を与えてる間、プールサイドのベンチでくつろぐ私。
「おやおや、お疲れのようですな? まああれだけの熱血指導ぶりなんですから分からないでもないんですがね。私にはあそこまでは……」
 北島先生だった。
 どちらかというと理論派な北島先生には私は昔ながらの「スポ根指導者」に見えるらしい。
「ふふっ、マンガみたいに見えます? ひょっとして」
「ははっ、そこまでとは言わないよ。それにしても彼女たちのタイム、確実に縮まってるからね。やはりさすがなものと思うよ」
「いや、素質がいい子たちが多いですから。それなりに理にかなった指導をすればここまでくらいはこれますよ」
 実際、私がこれまで彼女たちにしてきた指導は、高校時代にコーチから口を酸っぱくして言われていたことばかりで、自分のオリジナルの指導法ではない。もっとも完全なスパルタだった高校時代のコーチを反面教師にするように、思うような結果を残せなかったり、壁に当たってるように感じている子を見つけるとなるべく優しく接するようにはしている。また、私自身がそういう関係が好きなことも手伝い、プライベートでも友達感覚で付き合うようにしているので、『厳しい指導振りにしては退部者が一人もいないんだね』と評価もされているようだ。もっともこれから先、インターハイクラスの選手を育てるつもりなら、いつかは「ふるい」にかけるようなこともしなければいけないんだろうけど。

「は・や・せ、せんせぇ〜い!」
 う…この黄色い合唱は。
 声の方角を見ると、私と北島先生とのやりとりを興味津々に見つめる複数の視線。
 私と北島先生との年齢がそれほど離れていないこともあってか、どうもそっち方面に関心が向くらしい。……そういうことが一番、気になる年頃でもあるしね。微妙に共感を覚えつつもすぐにコーチらしい振る舞いに戻ることにする。
 こほんと、わざとらしいまでに大げさな咳払いを一つ……。
「おやぁ? 自由時間とは言ったけれどぉ、こんなトコで遊んでていいとは一言だって言った覚えはないんだけどねぇ〜。……サボってんじゃないっ!」
 どうやら完全に目が座っていたらしい。口々に半笑いの悲鳴を上げつつ慌ててプールに戻っていく一団。……まったくもう。
 ふぅ、と軽いため息をつくと、横から押し殺したような笑い声。

「ははは、すっかり彼女たちのお守り役が板についてきたようだね。それじゃそろそろ僕も戻るとしようかな? うかうかしてると大会で恥をかくことになりかねないからね」
「もう、茶化さないで下さいよ。……でも、そうですよね。大会、迫ってますからね。気を引き締めないと」
 そうだ、来月(正確には来年と言うべきだけど)にはインターハイへの重要な布石となる地区大会が控えている。私だってそれがあるから「鬼コーチ」になってしまったわけだし、ここで気を抜いていては何にもならなくなってしまう。
「そういや、速瀬君にとっては初めての大会だったね。おまけに場所が場所だ。まあ凱旋っていうほど大げさなものでもないだろうけど、それでも地元での開催なんだし、満足いく結果を残したいだろう?」
 え?! ……地元?
「……ど、どう言う事です? 中央体育館での開催なんじゃ……」
 明らかに声が震えていた私。
「あ、また連絡事項を読んでなかったんだね? しょうがないな。それに、そんなに驚くことでもないだろう?」
 北島先生の話によると、会場が県の中央体育館から柊町の総合スポーツセンターに変更になったのはほんの数日前のこと。確かにあそこは設備的にも中央体育館のプール施設より数段上をゆくものを備えている。かの実業団『フォレックス』が本拠ともしており、昨今知名度はうなぎのぼりの超一流施設。まだ大会まで1ヶ月ほどもあるわけだし、会場変更による影響も低いと判断しての決定だそうだ。
 そんなに驚くことでもない。確かにそうだ。でも……。

 あそこには……
 柊町には……

*          *          *

「ただいま……」
 もちろん返事なんてない。
 今の私はひとりきりだから。
 心の整理をつけたいとあえてひとりになることを望み、ここ桜ヶ丘町での「ひとりの暮らし」がようやく落ち着きだしたというのに……。

 また視線がフォトスタンドに向く。
 そこにはあのときの4人の姿が……今はない。
 何も入ってないように見えるスタンドに手が伸びる。
 そっと留め金を外し、ガラスと板の間に挟まるものをまさぐる。

 裏返しになった写真。
 それを見るたびに「思い出」にとらわれるのが辛くて……。その『痛み』から逃れ、気持ちの整理をつけようとひとりになることを選んだのに……。
 どうして、そんな私の想いを今、柊町に向けさせようとするの?
 遙には話したけれど、孝之に、慎二に何も言わなかったから?
 ……ひとりきりになる、ということを。
 心を許せるとお互いに思い込んでたみんなに、それを閉ざしたまま出てきてしまったから?

 ダメ……
 今は、ダメ!

Atto:3 忘れるために…

「……ちょっと、いいかい? 速瀬君」
 年が明けて1月。冬休みはおろか、正月も返上しての水泳部の練習を終え、帰り支度をしていた私に、北島先生が声をかけてきた。
「……なんでしょう?」
「……ここでは何だからね。ちょっと場所を変えたいんだけど」
 男子は正月休みなのにわざわざ出てきて声をかけてくるってことは、断りは不許可だぞということなのだろう。承諾し後についていく私の背中に複数の冷たい視線が投げかけられるのを、感じた。

 北島先生の車に同乗して30分ほどのところにある喫茶店。
「もうこんな時間だからね、ここぐらいしかやってないんだよ」
 時計を見ると夜の10時を回っていた。

「……一体、どうしたというんだい? 最近の君はおかしいよ。ついこの間まではあんなに皆に慕われてたじゃないか。それが……」
 お互いに飲みものを注文し、しばらく無言のままにしていたが、そんな居心地の悪い空気を破るのはやはり回りくどいものよりも、こうしたストレートな言い方のほうが適しているのだろう。
 私は別に驚かなかった。ポーカーフェイスが苦手な北島先生が深刻そうな表情で誘いをかけてきたときから、この件での問いただしが来るであろうことは予想していたのだから。

「……大会が迫ってますからね。いつまでも馴れ合い根性ではいい記録なんて期待できないですから、自然、厳しくもなりますよ。それに、これ見ます? 記録表ですけど」
 むろん口先だけの理由だ。本当のことなんて言えないし、言ったところで何の解決にもならない。これは私の個人的な問題にしか過ぎないのだから。
「見なくても分かってるよ、最近の彼女たちのタイムの縮まりかたはね。男子の方でもしっかりウワサになってるくらいだ。……部員たちへの君の接し方の冷酷さもプラスされて、なんだけどね」
 はぐらかすような私の返答に、少し苛立ったような口調になる。

 冷酷。そう……かもね。
 今の私は、あの子たちを『水泳マシーン』としてしか見ていないも同然の状態。ただ怒声を上げて彼女たちの尻を叩いてるに過ぎない。
 だって……
 そうすることでしか、気を紛らわすことができないから……。
 そうしないと、意識のベクトルが「思い出」の方向を向いてしまうから……。
 だから、何かに打ち込んでる時間を確保するために、水泳部の練習を利用しているのだ。大会が近いことを口実に、彼女たちの休みの日さえ取り上げてまでも……。
 ひとりになってしまう時間、『思い出』に苛まれる時間を、減らすために……。

「……今日、また僕のところにこれを届けにきた子がいた。なぜ君に直接ではなく僕を通してなのか、まあ、君には十分に分かってると思うけどね。……もし本当に分からない、なんて言い出すつもりなら、越権を承知の上で君に三行半状を叩きつけたくもなるが、とりあえず渡しておくよ。……ほら」
 2通の封書が私の前に滑るようにやってきた。
『退部願』
 分かってはいたけれど、思わず自嘲気味のため息が出る。
 コーチとして就任したとき、部員は20人ほどいた。その後、入部者が増えて11月には30人を超えるまでになっていたけど、今は……10人少々しかいない。

「コーチとして契約している以上、君を解任するには正当な理由が必要だし、僕にその権限があるわけでもない。ただね、これだけは言っておくよ。理事会では新しい人選の検討に入ってるらしい。このまま状態が改善されなければ……。まあ、話はそれだけだ。遅くまで付き合わせて悪かったね、せめて送っていくから、そろそろ出ようか」

 現在の私の『自宅』である、マンションの前。
「……君のプライベートにまで口を差し挟むつもりはないし、コーチである君以外のことを何も知らない僕が、無責任に言えることではないだろうけどね。……これ以上当り散らすのだけは、やめるんだ。いいね?」
 車中無言だった北島先生が、運転席から私と視線を合わすことなくそう話しかけ、そのまま走り去って行った。
 その口調は、忠告というよりは『最後通牒』のそれ、だった。
 ………何も分かってないくせに………

*          *          *

「………。ただいま……」
 期待なんてしてもいないし、することも愚かなんだけど、つい口に出してしまうのは……どうして?
 返事なんて、『おかえり』って言ってくれる人なんて……。

『……よお、遅かったじゃないか?』
 え?!
『おかえり、みつき。今日はどうしたの?』
 どこ? みんな、どこ?!
『……せぇんぱぁ〜い、どこ見てるんですかぁ〜』
 お願い、顔を見せて!

「いやぁぁぁ〜!」
 ここには、誰もいないじゃないの。
 ここでは私だけが、ひとりぼっちじゃないの。

『それを望んだのは、あなたでしょ?』
 違う、そうじゃない!
『みんなといっしょにいられないから、ひとりになったんでしょ?』
 そうよ。私はひとりになりたかったんじゃない。
 ひとりになるしか……なかったの。
『本当は、寂しいくせに……』
 寂しい。
 さびしいよ……。
 ひとりは、いやだよ。
 遙……、慎二君……、孝之……
 たかゆき………

 帰りたい……
 でも……帰れないんだよ、こんな私じゃ。

 どうすれば……いいのよ。
 教えてよ、誰か……教えてよ。

*          *          *

 1月の下旬。
 競泳の県大会の日。
 私は陽光学園女子水泳部のコーチとして、会場である『柊町総合スポーツセンター』に来た。
 でも私に声をかけてくれる人なんて、いない。
 知ってる人に出会うかもしれないから、学校別に割り当てられた控え室から出ることもできない。

 女子200m決勝。
 優勝は、白陵柊の涼宮……茜。
 陽光学園の選手は準優勝だった。他の上位候補を抑えての堂々の『銀』、誇れる記録だ。喜びに沸く部員たちと、応援に駆けつけた男子部員や生徒、そして北島先生。
 でも私はその光景を、ひとり輪の外から眺めているだけ。
 それを気にかけてくれる人さえも……いない。

 ………また、ひとりになって……しまった。

Atto:4 ひとりになってしまった私に…

 目の前で水面が激しく波打つ。
 白い水しぶきが天窓から差し込む日の光を受けて、真珠を散らしたようにきらめく。
 その中をしなやかに身を躍らせながら進む複数の影。

 でも、私の目にはそんな躍動的な風景さえも、フィルタを通したように虚ろにしか映らない。
 掛け声が響き渡る。
 既に進路が決まった3年生の部員だ。
 私の代わりに後輩にあたる部員たちを指導している。

 私の代わり。
 そうだ、今の私は肩書きだけの『女子水泳部コーチ』。
 プールまで出向きはするけれど、ただプールサイドのベンチに座って見ているだけ。
 明らかに迷惑そうな視線が私の体をチクチクと苛む。

 ………ねえねえ、あのコーチいつまでここに居座るつもりなの?
 ………嫌われてるって気付かないくらい鈍感なんじゃないの?
 ………ねえ、ゆっこも辞めるって言い出しちゃったよ?

 わざと聴こえるように言ってるのだろう。だけど私はその場から動くこともできないでいる。肩書きだけとは言えコーチとして契約している以上、職場であるプールから正当な理由なく離れるわけにはいかないのだ。……そのことを承知しているからこそ、なのよね。
 気付かれぬよう視線だけを外した私の耳に、そんな悪口雑言とは別のざわめきが聴こえてきた。少しだけ澄ましてみると、他校の偵察だとかの言葉の中に余りに懐かしい響きが、混じっていた。

 ……ねえあのコ、白陵柊の涼宮茜じゃないの?

 え……?!
 弾かれたように顔を上げた私の目に、鮮やかな赤髪と白のバンダナ、勝気な瞳が映った。
 二、三、部員たちと言葉を交わした後、真っすぐに私のところまでやってきた。

「……お久しぶりです、水月先輩」
 先輩……。まだ、そう呼んでくれるの?
「……そ、そうね、久しぶりよね。あれから、ずいぶんになるものね。元気してた?」
 怪訝な視線と悪意のざわめきが包む中、私は精一杯平静な口調でお決まりの返事をした。
「……先輩、あの」
「こ……ここではなんだから、外に出ない? その方が茜も話しやすいだろうからね」
 その言葉を待っていた、というように茜の顔が綻ぶ。
「それじゃあ、すみません。ちょっとコーチ、お借りしまぁ〜す」
 小声のうわさ話が飛び交う中、客の応対という正当な理由を得た私は、半ば逃げるように茜をせかしながら、足早にプール場を後にした。

 学園の中庭。私立だけあって大学のキャンパス並みに綺麗に整備され、小さな公園風になっている。放課後で部活動の時間ということもあって、普段は学生の憩いの場となっているここも人気なく閑散としている。

「そ、それにしても久しぶりね、茜。……私がここにいるってこと、知ってたんだ。そっか、同じ水泳部だしね、それなりにウワサは伝わってるってことなのかな。えと……」
 冷静さを保とうと、茜の顔を見ずに一方的に話す私。ちらりと横目で見ると、言いたいことを全部話したら? と言わんばかりに自らの口をつぐむ茜がいた。

「……ここのコーチ、うまく行ってますか? 記録だけは出てるみたいですけど」
 茜……。
 何でそんな風に訊くの?
 全部、知ってるんじゃないの?

「水月先輩、どうしちゃったんですか? 最近、先輩の悪いウワサしか入ってこないんですよ。さっきだって明らかに先輩、みんなに避けられてるじゃないですか」
 悪いウワサ。そうよね、今の私は理由さえ揃えば即コーチをクビにされるような状態。

「うん、ちょっとね。大会が近かったのもあって行き過ぎた指導をしちゃったもんだから……」
 悪あがきにも似た言い訳に、茜の表情が苛立ちの色に染まっていった。
「違うでしょ、違いますよね? 先輩、いい加減、素直になって下さい。私、先輩に限ってそんなことはないハズと思いながらも、いろいろ調べました。それで知ったんです。今回の一件、先輩が変わってしまったのは、大会の会場が柊町に変更になってからだって」

 柊……町。
 ……遙。
 ……慎二君。
 ……孝之、たかゆき……

 全てを見透かしてるような茜の言葉に、こみ上げてくるものがあった。
 今ならさらけ出せる、さらけ出しても……いいんだよね?
 ここには私と茜しか、いないもの。
 他には、誰もいないんだもの。

 そして……
 ひとりぼっちでも、ないんだもの……
 抑えきれなくなった想いが、熱い雫となって頬を伝い……決壊した。

「……先輩?」
「う……うあ、ああ……………」
 もう言葉は続かなかった。
 私は自分よりも年下で、かつては私を『先輩』と慕ってくれた茜の体にすがりつくようにして、泣いた。……ただ、泣き続けた。泣き続けることしか、できなかった。

「水月先輩……。もう、いいじゃないですか。これ以上ひとりだけで苦しまなくても、いいじゃないですか。……みんな、待ってますよ? 先輩が帰ってくるのを」
 え……? 待っている?
「……もちろん、私たちだって気持ちを整理できたわけでは……ないです。でも今のままでは整理することなんてできないですよ。あの日、姉さんには話しをしてくれましたよね。でも、そのことを鳴海さんには話しましたか? 平さんには話しましたか?」
 そう、慎二にも、孝之にも話してはいない。……そんな勇気なんて、なかったから。中途半端になるってことは分かりきっていたけれど、せめて携帯にメッセージを残すのがあのときの私にできる……精一杯だった。
「……同じ別れるにしても、みんなで納得してからでなくては……そこから、動けないですよ。……私だって、そうなんですよ?」
 母親に甘える子供のように泣きじゃくる私の耳に、茜が訥々と語る。
 分かっていた。
 あんな中途半端な別れ方ではいけなかったこと。

「来月の一日、姉さんの卒業式をやるんです。病院で、ですけどね。……鳴海さんの発案なんですよ? みんな、集まってくれます。お父さんもお母さんも、みんな……」
 みんな……
 集まってくれる……
 行きたい。……でも。
「私の口から会ってください、来てくださいとは……言えません。ですから、先輩にはそういう予定があるんだ、ということだけ伝えます」
 茜……。
「本当は、来て欲しいんですよ? でも、先輩に任せます。……今日、先輩に会いにきたことは、誰にも言いません。だから……」

 それだけを話すと茜は、もう止まりかけてはいたけれどまだ涙に濡れていた私をそっと引き離し、静かに踵を返すとそのまま立ち去って行った。
「私も待っています。どんな形であれ、先輩の答えを」
 その一言を……残して。

 私の……答え?
 今の私に、出せるの?
 出さなくては……いけないの?

Atto Fine 私が欲しかったもの

 ここにくるのは、いつ以来?
 町を一望できる、小高い丘。
 時折そよぐ風にざわめきを立てる、大きな樹。
 遥かな町並みから視線を下に動かすと、白い建物が瞳に映る。

 白陵高校の裏の丘。
 かつて4人で『おもいで』を作った場所。

 今日は3月の1日。
 茜から聞いた、遙の卒業式の日。
 ……私は結局、行けなかった。
 だけど……

 ポケットから携帯を取り出す。
 メモリアドレスの1番、2番、そして3番。
『待っています』
 送るメッセージは、ただそれだけ。
 一括送信のボタンを、静かに……押した。

 ここだって、気付いてくれるかな?
 もし気付いてくれたなら……どうするのかな?

 ここまで来てくれるのかな?
 来てくれて、もう一度、私を輪の中に入れてくれるのかな?

『みんな、待ってるんですよ?』
 あの日にもらった茜の言葉。
 そのお返しにと、託した言葉。

 気付いてくれたら……
 ここまで、来てくれたら……
 もう一度『仲間』に戻ることが叶うのなら……

 私はまた、みんなに確かめようとしている。……私自身の気持ちさえも。
 こんな、ずるい私だけど……
 そんな私でも、帰ってきていいのなら……
 そのときは、言おう。この胸いっぱいの気持ちをこめて……
『ただいま』と。

 きっと、返ってきてくれるはず。
 私が、一番、欲しかった言葉が……
 そう……

『……おかえり』が。


〜Fin〜


≪あとがき≫

 遙エンド後の水月視点話です。以前書いた『ここが僕らの帰る、まち』を水月側から見たSS、ということになりますね。
 今回、聖誕祭SSのネタがなかなか思いつきませんでした。第1章モノでも書いてみようか?とも思いましたが、それすらも……(汗)
 言い訳になってしまいますが、今回聖誕祭が迫っていて焦ったこともあり、特に後半が雑なカンジになってしまった感があります。 またいずれ、じっくりと時間をかけて見直しなりをしてみたいと考えてたりします(爆)

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