『SSのお部屋』

Preludio

「え?! 今、何て……」
 思わず鸚鵡返しに聞きなおす。

「え? いや、だからですね、最近ウワサの陽光学園、あそこの水泳部のコーチがあの速瀬水月……先輩って言っていいのかな? だって」

 新設校ながら、と言うよりも私立で新設校だからなのだろう。最近、急速に競泳の実力を付けつつある陽光学園。話を聞く限りではどうやらそこの水泳コーチにあの人、速瀬水月が就任しているらしい。
 そう、あの人が。
 水泳を辞めてから結構な年数が経っているはずだけど、選手ではなくコーチならってことなのね。

 速瀬……水月。
 私の中にまだ無意識のわだかまりが残っている。
 ううん、消えたと思っていたものが再び、燻り出したのだろうか。
 かつて憧れそして裏切られ、憎しみさえ抱いていた頃さえあった、あの人。
 でもかたや選手、かたやコーチという立場の違いはあれ、同じ競泳という土俵の上に再び立ってくれたということの方が、素直に嬉しい。
 それだけ、憧れていたんだよね……。

「へぇ〜、そうなんだ。かつての日本代表クラスがコーチやってるんだったら、さぞかし部員のモチベーションも高いだろうし、これはいいライバルになるかもね」
 知り合いという関係を必要以上に強調したくないから、当たり障りのない返答をしている私。それでも嬉しさが少しずつ込み上げてきた私のそれに、意外な冷水が浴びせられた。

「それがですね、そうでもないんですって。何かね、あそこのコーチと選手の関係は最悪だってウワサですよ?」
「えっ?」


せんぱいと呼べる日を…

Atto:1 涙の理由は、何ですか?

「姉さん、大丈夫?」
 帰宅するなり倒れ込んでしまった姉さんをとりあえずリビングのロングソファに寝かせ、足をさすりながら汗の浮かんだ顔を覗きこみつつ話しかける。
「う、うん。ゴメンね茜、心配かけちゃって。でも、でも……ね」

「あの人のことでしょ? 姉さん」
 少し躊躇った後、そう訊き返す。
 あの人。
 まだ素直に名前で呼ぶことができないでいる私。わだかまりは一応解けたはずなのに、心の中でまだ壁を作っている。そんな私の「あの人」呼称を、姉さんも寂しそうな表情で返してきた。
「………うん」

*          *          *

 事の起こりはほんの小一時間前。
 交通事故とそれに伴う後遺症から長期入院していた姉さん。今日はその退院の日だった。鳴海さんにその友人の平さん、お父さんお母さんと一緒に出迎えに行き、祝福されつつ病院の正面玄関から車を出した、その直後のことだった。

「車を停めてっ!」
 いつになく激しい口調に反射的に踏まれた急ブレーキ。全く予測していなかった衝撃に案の定、前部座席の背中でしたたかに頭を打ってしまった私がやっとのことで顔を上げると、窓の外に駆け出して行く姉さんと、慌てて追いかける鳴海さんと平さん。運転席から半身を乗り出して呆気に取られているお父さんの姿が映った。
 体勢を直すと私も外に飛び出した。ただでさえ昏睡状態からの回復で身体の弱っている姉さんだ。やっと車椅子から解放されたばかりのこの時期に、いきなり駆け出すなんて到底無理なこと。姉さん自身も分かっているだろうから、それでもそんな行動に出るからには余程のことが起こったのだ。

 駆け出した姉さんと、追いかけた鳴海さんに平さん。
 3人の輪に混じって事情を訊こうとした私は、その状況に一歩離れた位置で固まるしかなかった。質問さえ出てこなかった。

 泣いていたのだ。
 姉さんはもとより、鳴海さんも平さんも……
 手を付き頭を垂れながら嗚咽を漏らす、鳴海さん。
 その震える両肩をそっと抱き起こしながら涙を流す、姉さん。
 二人から視線を逸らしつつ、じっと耐えるようにしながらも両目に光る雫を浮かべる、平さん。

 ………一体、何があったと言うの?………

*          *          *

「そう、そんな事が……」
 落ち着いたところで話を聞くと今日、あの人も病院に来ていたそうだ。そして鳴海さんや平さんとは会わず、姉さんにだけ「一人になりたいから……」と告げて去って行った。最後にそれぞれの携帯に一言だけのメッセージを残して……。

 あの人も鳴海さんのことを好きだったってこと、私はとうに気付いていた。単に眠り続ける姉さんの代わりになるだけなら、あそこまで献身的になれるはずがないからだ。鳴海さんもそんなあの人に心を動かされ、想いを寄せて行った。その有様を姉さんを失った鳴海さんの悲しみに付け込んで、姉さんから鳴海さんを奪い去ったのだと憎しみを抱いたときもあったけど、それが鳴海さんが姉さんの面会と見舞いに明け暮れる日々を、そんな様子に耐えられないからと、お父さんから拒絶された結果であったという事情を知ってからは、いくらそんな事情があったからと言ってという疑問を抱きつつも、ある程度は納得するようになって行った。
 もっともわだかまりが完全に解けたわけではない。そのことは、私が未だにかつてのような「先輩」ではなく「あの人」と呼称している事実が何よりも証明していた。

「でもね、茜。悲しいけれど、今はこのまま進んでいくしかないと思うの。そうでなければみつきだって、帰りたくても帰ってこられないと思うから……」
 昏睡状態で眠り続ける姉さんに絶望した、鳴海さん。
 その鳴海さんを姉さんの代わりにと支え続けた、あの人。
 いつしか互いに想い合うようになった、二人。
 動き出した二人の時間をあの日に連れ戻した、姉さんの目覚め。
 姉さんとあの人の間で揺れ動き悩み苦しんだ、鳴海さん。
 心情を伺い知ることはできなかったけど、姉さんと鳴海さんの関係を認めて自らは身を引く決意をした、あの人。

 お父さんの言葉にも負けず、鳴海さんが姉さんを待っていると決意していればこんなことにはならなかった、というのは3年かかったとは言え姉さんが目覚めることができたから浮かんだ、身勝手な考えでしかないのは分かっている。あの時点、姉さんがいつ目覚めるか分からない、もしかしたらずっとこのまま、という状況で鳴海さんと同じような境遇に置かれたら私だってどうなっているか……。先の見えない暗闇の中で、そこに縋り付く糸があったならどうしていたか……。
 そんなこと、考えるまでもなかった。
 目覚める日を信じていつまでも待っている? そんなドラマや映画のように達観できるはずがない。人間、そんなに便利に高尚にできているはずなんてないのだから……。

「……いつか、きっと?」
「うん、私は信じてる。だから、だから……ね、今は泣いてもいいよね。いつか笑える日が来ることを信じているんだから、今だけは……」

 悲しいときに流れるのが、涙。
 嬉しいときにも浮かぶのも、涙。
 そして……

 それぞれの涙の理由は様々だけど、姉さんの、今の涙の理由は、何ですか?
 いつか訪れる日を夢見ながら、きっと訪れると信じながら零れる、そんな涙ですか?

 未だにわだかまりが解けない私にも、そんな涙はあるのだろうか?
 いつか、もう一度……
 あの人ではなく、「水月先輩」と呼べる日。
 そんな日を夢見た、きっと訪れると信じた……

 ………そんな、涙が………


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Atto:2 どうして一人でいるんですか?

「ふぅ〜っ、どう?」
 キャップを剥ぎ取りながら、プールサイドでストップウォッチを覗きこむ後輩の菊川希(きくかわのぞみ)に声をかける。目がまん丸だ、これは期待できるかも。
「スッゴいです先輩、自己ベスト更新ですよ?」
 驚嘆の声にタイム表示を見ると、確かにこれまでの最高タイムが刻まれていた。

「うん、なかなかね。でもまだ目標には届かないなぁ」
「ええーっ?! せ……先輩、これでもまだ不満なんですかぁ? インターハイでもトップレベルのタイム叩き出してるってのに……」
 確かに今出したタイムは自己最高。この記録を出せればインターハイでも十分上位、ともすれば優勝クラスだろう。でも私にとってはまだまだ。
 私の目標は更なる高みにある。
 そう、あの人のそれを超えたところに……。

「あはは、ゴメンゴメン。ちょっと自分の世界に入り過ぎちゃったね。うん、今のタイムを維持できれば今度の大会、十分行けるもんね」
「もう1ヶ月切ってますもんね。で、どうですか勝算は」
 そう言いつつ手にしたストップウォッチをマイクに見立てて近づけてくる希。クラブの先輩と後輩の関係にある私と希だけど、仔猫のように人懐っこい性格の希を相手にすると何となく、かわいい妹を持ったお姉さんのような気持ちになってくる。当の希もあんまり先輩として意識してないようだけどね。

「う〜ん、確かにね自己ベストは出せたけど、相手がともっぺとなるとキツいよなぁ」
「ともっぺ……って、橘東の下原知美さんのことですか? ウワサは良く聞きますけどスゴいんですってね。それにしても最大のライバルなのに、随分と仲がいいんですね」

 下原知美は私と同じ高校3年生で橘東高校水泳部のエース級選手。交流戦などで何度も顔を合わせていてその実力も十分思い知らされている。とは言え、互いにしのぎを削るライバルではあるものの、水泳から離れればとにかく気さくで明るくあっけらかんとした性格の知美。人懐っこい雰囲気から校内でも人気者と言う。私も初めてその名を知った頃に偵察半分で話しかけたのだが、水泳をしているときの厳しさなんてどこへやらの明るさに一気に毒を抜かれ、それをきっかけに友達関係に発展していったのだ。

「あ、そうそう。下原さんも気になるでしょうけど先輩、陽光学園って聞いたことあります? あそこの水泳部、何か最近メキメキ実力付けてるそうですよ? まだ創立5年くらいの新設校なのに随分頑張ってますよね」
 白陵学園を含む、私たちの住む柊町や橘町、欅町などのいわゆる市街地区と丁度、湾を挟んだ向かいに位置する新興の住宅地区。そこに5年前に創設されたのが陽光学園だ。新設の私立らしく運動、文化を問わず部活動には力を入れており、スポーツ系では特にサッカー部が有名らしい。どうも希の友人が陽光学園に通っているらしく、私の知らない(興味がなかっただけなんだけどね)情報もいろいろと話してくれている。

「新設校だからじゃないのかな? おまけに私立ってことだし、スポーツでまず学校名を売ろうってところなんじゃない?」
「なるほど、確かにそうですよね。水泳部も最近有名コーチを迎えたって言ってましたしね。男子は元五輪選手の北島さんでしょ? 女子なんてかの、速瀬水月さんですもんね」
「えっ?! 今、何て……」
 一瞬、耳を疑い思わず鸚鵡返しに訊き返していた。

「いや、ですからね。陽光学園女子水泳部のコーチがあの速瀬水月さんだって。しばらく水泳から離れてたみたいですけど、やっぱり有名なんですよね。スカウトされてコーチに就任したっていう話ですし。あ、でもウチからは話なかったのかな? だってもともとは白陵出身なんですし……」
 傍らでしゃべり続ける希。
 そう、あの人が。

 恐らくは何度も打診はあったのだろうと思う。
 白陵柊学園の名を有名にしたあの人だもの。水泳部在籍中も面倒見が良く後輩たちに慕われていたほどだ、学校としては水泳部のコーチとしてぜひとも招きたいところだったろう。でも、私は知っている。あの人が白陵から、そして柊町から距離を置くために出ていったこと。今はまだ戻れないことを……。

 でもそれは個人的な事情でしかない。
「へえ〜、あの人がコーチなのか。元インターハイクラスの選手がコーチなんて、さぞかし部員たちのモチベーションも高くなってるんじゃない? これはいいライバルになるかもね」
 だから私は必要以上に知り合いと思われたくないのも手伝って、当たり障りのない返答をした。心の中では嬉しかったけどね。

「それがですね、そうでもないんですって」
 希の口にした意外な一言。

「あそこのコーチと部員たちの関係は最悪だってウワサですよ?」
 もう一度耳を疑った。
「え? 最悪って、どういうこと?」

「う〜ん、私もウワサの又聞きですから、詳しくは知らないんですけどね。何か余りにも冷たい指導振りらしくて、確かに記録が伸びてる部員もいるそうですけど、それ以上に退部者がかなりいるとかいないとか……」
 冷たい? 退部者?

「そ、そんな。あの人に限ってそんなことが……」
 今でこそわだかまりが解けてないけれど、かつてあれほど憧れ慕い続けた先輩像が、希の口にする言葉に合わせて崩壊していく。……何かの、間違いだよね?
「ですよね、私も白陵時代の速瀬さんのこと少しは知ってますから、いくらウワサだからって余りにも……」

 確かめたい。でもどうやって? 直接合う勇気なんて今はないのに……。
 知美。
 そうだ、知美ならこうした情報にも詳しいはず。普段からデータ派というか、いろいろな情報を集めてるし、何よりあの性格もあって交友関係も私なんかより断然広い。
 今度の大会で訊くことができないだろうか?

 でも、訊いてどうするの?
 単なるデマならいいけれど、もし事実だったら……
 大事な大会を前にして私の想いは逡巡し、心は千々に乱れた。

*          *          *

 準備に追われる時間と言うのはあっという間に過ぎるもの。
 今日は高校競泳全国大会、つまりはインターハイ出場を賭けた地区大会の日。
 大会は確かに緊張するものだけれど、自分の力を出しきれば十分行けるとの自信があった私。結果は出場権獲得。でも運が良かったのも確か。何と言ってもあの知美と同じ組にならなかったからね。

「やっほ、あっかね。さすがだね〜、しっかり出場権獲得してるし」
「わぁ〜っ! もう、ともっぺぇ〜」
 いつも通りの高いテンションで後ろから抱き付きつつ話かけてきたのは知美だ。この知美の「攻撃」にもかなり免疫ができてきた私だから、もうさほどは驚かない。

「ん? ドコの学校だろ。何か沸きかえってるようだけど」
 知美と一緒に会場を回ってる中、歓喜に包まれている一団を見つけた。
「ああ〜、アレね。えと、陽光学園だったかな? まだ新設校だけど、選手の一人が出場権獲得したみたいだし、それで喜んでるんじゃないかな?」
 陽光学園。

「ん? どしたの、茜」
 無意識に足が止まり、その沸きかえる様子に目が行った。そして、その輪から外れるようにしている人物に視線が止まった。
 スラリとした長身、肩口までの青みがかったショートヘア。
 間違いない。
 でも、自信に満ち溢れていたその瞳からは明らかに光が失われていた。

「ね、ねえ知美。この後何か予定ある? なかったらちょっと話に付き合って欲しいんだけど……」
 学校単位で参加している大会なのだから、普通に考えれば予定も何もあったものではないだろう。でもそのときの私にはそんな冷静さはなかった。知美もそんな私の「異常」を察したようだ。普段なら「ともっぺ」と呼ぶ私が「知美」と呼んだこともあって……。
「う、うん……。まあ顧問にはうまく話せると思うけど、どしたの茜。らしくないよ?」
「ゴメン、知美。お願い……」
 最後まで「ともっぺ」には戻らなかった、私。


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Atto:3 帰りたいんですよね?

 ………ねぇねぇ、あのコってひょっとしてあの………
 ………え〜っ、いくらなんでもわざわざ制服でなんて来ないでしょ?………
 ………でも、スゴいんだよね。サインもらっちゃおうかな?………

 今日、私は陽光学園までやってきた。
 競泳の実績でそれなりに名を知られているのか、私の姿を見た生徒たちが数人の集団に分散しつつ、偵察? それとも冷やかし? などとあれやこれやと小声で話している。だけど今日私がここまできた理由は一つ。あの人、速瀬水月に会うためだ。

『あそこのコーチと部員の関係は最悪だってウワサですよ?』
 後輩の希が口にした一言。
『ここ1ヶ月くらいで急に態度が変わったんだって』
 他校のいわゆるライバル選手だけど、親友でもある下原知美の口にした言葉。
 それを裏付けるように、新設校ながらインターハイ出場権獲得選手誕生の喜びに沸きかえる会場で一人ぽつんと佇んでいた、あの人。
 どうにも気になった。
 あれだけ後輩たちにも慕われ、私も含めたみんなの目標にして憧れだったあの人がどうして……。

 勝手に他校の施設に入るわけにはいかないから、受付、職員室を通してからプール施設へと案内してもらう。ここでもやはり私の名前はそれなりに知られているようで道中、案内役の教員からもいくつか質問をされた。……やんわりと受け流したけどね。

 プール施設に足を踏み入れると、ただでさえ白陵の制服姿の私だから皆の視線が集まり、一瞬の間を置いてざわめきが広がって行った。
 意に介さずに視線を動かす。
 見つけた。

 天窓から差し込む光に煌めく水しぶき。
 歓声と激励、時に罵声じみた声も飛び交う。
 水面を切り裂くように進む人影。
 記録に一喜一憂する部員たち。

 そんな光景をまるで劇場の桟敷席から眺めるように、場違いな佇まいでプールサイドのベンチに腰を下ろし、競泳用水着にパーカーを羽織り俯き加減で自分の足に頬杖を付いている人。……体も、水着も、濡れていなかった。

 ………ねえねえ、あれって白陵柊の涼宮茜じゃないの?
 プールのそこかしこから上がる複数のざわめき。
 彫像のように動かなかったその人の顔が、その言葉、そして『涼宮茜』の響きに激しく反応した。
 肩口までのショートヘア。
 驚きに見開いた目と口。

「あ……、茜?」
 いきなり呼ばれたファーストネーム。
 でも全く違和感を覚えない。
 それどころか、これは懐かしさ?

「お久しぶりです……」
 自分の中で急速に融解していくものを感じる。
 そして、あれだけわだかまりがあったはずなのに、素直に出てきた一言。
「……水月、先輩」

*          *          *

 陽光学園は新設の私立らしく、学園施設にリラクゼーションを意識したものが多く配されている。その内の一つだろう、石のベンチに囲まれた控えめな噴水を中央に置いた、ちょっとした公園風の中庭。

「ちょっとコーチ、お借りします」
 そう断わってここまで連れ出した。部員たちのひそひそ話のトーンが上がっていくのを、背中で感じながら。

「それにしても久しぶりね、茜。私がここにいるって誰かに聞いたの?」
 驚きを隠しつつ、平静な挨拶。

「ええ、私の後輩の友人がここに通っているらしくて……」
 ………何か、部員とコーチの関係は最悪だって………
 希の言葉が脳裏をよぎる。

「そうなんだ。ま、まあ他校だからって水泳のコーチなんてやってれば、おのずと知れ渡っちゃうしね」
 あの頃と同じ軽い口調。……上辺だけの。

「いろいろ訊いてますよ? ……悪いウワサも、ね」
 ………一時は30人を超えてた部員も、今は10人程度しか残ってないって………
 知美から聞いた話。

「いろいろ、か。悪いウワサって、さぞかし鬼コーチとか何とか言われちゃってるのかなぁ〜。ここのところ厳しくし過ぎたみたいだしね……」
 ………厳しいって言うよりも、休みまで返上してるって言うし何か変なのよね………

 いつまではぐらかすつもり?
「違いますよね、先輩」
 苛立ちから思わず出てしまった激しい口調に、水月先輩の表情がこわばる。何を知っているの? とその目が語っていた。

「私、聞きました。白陵の頃と同じように面倒見が良くて、とても慕われていたのに、大会の1ヶ月前くらいから急に態度が変わったって」
 大会の1ヶ月前。それは……。
「……開催会場を、柊町の総合スポーツセンターに変更することになりました」
 わざとお知らせそのままの平板な口調で話す。

「もう、もう言わないで。それ以上、言わないで。お願い……」
 聴きたくない、もう話さないで、と両手で耳を押さえる。

「柊町……。忘れたかったんですか?」
 自分でも意地が悪すぎると思った。でも……

「……お願い、お願いよ……あかね」
 呪文のようにつぶやきながら、水月先輩が静かに近寄ってくる。

 5、6歩の距離から半歩のそれまで近づき、俯いた顔が上がるのが早いか、私より高いその背丈が急速に縮んで視界から消え、両肩付近にひしっと掴むような感触、胸にどんっと押し付けるような衝撃。
 半瞬を置いて、止まった空気を切り裂き、打ち震えるような慟哭が、私の両の耳を貫いた。
 上半身が強く前に引かれる。
 私の両肩を掴んだ腕で吊り下がるように、水月先輩は崩れ落ちていた。私の上着の胸に残る染み。そのままの姿勢で俯いた顔からこぼれ落ちる雫。

 静かに膝を折り、泣き崩れる先輩をまるで子どものように抱きしめる。
 もう、帰ってきてもいいんですよ?
 帰りたいんですよね?

 でも、それを言葉にして伝えることはできなかった。
 だから想いが伝わってくれるようにと、抱きしめるその腕にさらに力を込めた。

 どうして一人でいるんですか?
 もう一人でいなくてもいいのに……
 そんな想いを込めながら強く、さらに強く………


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Atto Fine 帰ってきたんですよね?

『……卒業証書授与。白陵大学付属柊学園高等学校3年B組、涼宮遙……』

 姉さんの主治医だった香月先生が静かにそして凛として読み上げる。
 今日は姉さんの卒業式。
 もちろん学校ではなく、病院の一室でだ。卒業証書だけの「卒業」では余りにも寂しいからと、珍しく鳴海さんが気の利いた提案をし、病院側(正確には香月先生)の許可も得られたので、姉さんの定期健診の日を利用して「病院での卒業式」を行うことになったのだ。確かに気の利いた提案ではあったけど、気に入らなかったのは全てを3年前にして行うということ。つまり私は当時中学3年生だったわけだから、またしても中学校の制服を着るハメになったのだ。もちろん抵抗はしたけど「姉さんのため」という殺し文句には敵わなかったので結局……。

 段取り通りに進行する中、私は待っていた。

*          *          *

「来月、姉さんの卒業式をやるんです。定期健診の日を利用して、病院の一室を借りてですけどね」
 やっと泣きやんだ水月先輩の濡れた両目をそっと拭いてあげながら、私は話した。

「……孝之も、慎二君も、遙も……いるんだよね。そこへ、私が?」
「来てください、と私の口からは言えません。私にそこまでお願いする資格なんてないですから。だから、そういう予定がある、という話。それだけです。後は……」
 先輩自身が決めて下さい。

*          *          *

 日時も場所も、正確に包み隠さず伝えた。
 でも姿を見せることはなかった。
 やっぱり? そう心の中で寂しさを覚えた、その時だった。

 3つの旋律が鳴り響いた。
 携帯の着信メロディ。
 同時に鳴り響いたことに訝しさを浮かべつつ、それぞれが取り出した携帯の画面を見つめる。
 3つの視線がそれぞれの驚きに染まった顔を見つめ合う。

「速瀬……?」
「水月……?」
「みつき……?」

 少し遅れて、私の携帯からもメール着信音が鳴った。
 画面を見る。
『ゴメンね、茜。これが今の私の、精一杯だから……』

 大丈夫ですよ、水月先輩。
 みんな、分かってくれました。
 今からそこに向かうそうです。

 どうしてそこまで分かってもらえるんでしょうね。
 私は何も話していません。それなのに……

 それだけ、みんな信じていたんですよね?
 それだけで分かってくれると、信じているんですよね?

 それなら、私も……
 信じていいんですよね?

 もう一度『先輩』と呼び、慕える日が来ることを………


〜Fin〜

≪あとがき≫

 何か言い訳ばかりになってしまいますが、時間に追われてたこともあって練りこみ不足ですね。何たって書き上がったのが17日ですからね、今回だけはまじめにやばい!って思いましたよ。
 それにしてもそろそろ「原作に沿ったSS」ってのはネタ切れになってきました。次回はどうするかなぁ……。まあ、今から来年のこと心配しても始まらないんですけどね(苦笑)。
 ちなみにまたしても恒例の……(ry

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