『SSのお部屋』

Preludio

「ねえ、もう……なのかな? それともやっと……なのかな?」

 ポツリと口を吐いて零れる言葉。
 テーブルの上に置かれた一冊の本に視線を落としつつ、小さなため息を交えてそれは、半ば自分に尋ねているようにも聞こえた。

 初夏と言うにはまだ少し早い。
 それでもこれから訪れる、俺たちにとっては特別な想いを内包した季節を予感させる、やや湿り気を含んだ柔らかな風がそっと、吹き抜けて行く。

「……どうかな」
 そこへ続ける言葉が見つからない。何を言ってもそれは『言い訳』の色彩を帯びてしまうように思えたから……。

「ねえ、私たちってこの3年間、一体何をしてたのかな?」
 落としていた視線を少しずつ上げ、答えを求めるかのような上目遣い。
 今度は自分が視線を落とす番となった。
 テーブルの上。
 一冊の本。

『ほんとうのたからもの』
 さく、むらかみはるか………

 はるか………
 そう、……遙のことだろう。
 確証なんてなくても、今の俺たちには確信ができる、いや、できて……しまう。

 特別な響きを秘めたその名。
 ………涼宮、遙のそれを………


想い出とはじまりの集う丘

Atto:1 8月27日は水月の誕生日だから…

「ちょっとヤダ、髪に絡まってるよ?」
 独特のアルトボイスに軽い抗議の音色を帯びさせながら、おぼつかない手付きでアクセサリーをいじくる俺の手に、しなやかに伸びるほっそりとした指。

「うわっ、悪い悪い。しっかし知恵の輪みたいだよなこのチェーン。……自分で選んでおいて何だけどさ」
 高校時代からの友人で今は俺の(毎度のことながら陳腐な言い方だが)彼女、速瀬水月といっしょになって過ごすようになってから巡ってきた、2回目の水月の誕生日。去年よりも伸びた髪の毛に手こずりながら、プレゼントのネックレスを付けてやる。
 ペンダントとネックレスチェーンを自由に組み合わせて購入できたので、水月の好きなイルカに合いそうな水しぶきのようにキラキラ光るチェーンを選んだのだが、どうにも凝ったデザインで付けるにも一苦労。こういうのはもちろん女性の方が手馴れているのだろうが、せっかくのプレゼント。しかもいろいろあった去年とは違って、プレゼントを贈れた初めての誕生日だけに、自分で付けてやりたかったのだ。

「うん、そうそう。そんなカンジで……。うふっ、ありがとう孝之……」
 胸の前で踊っている2匹のイルカを愛でるように指先で弄ぶ、水月。
 その無邪気な笑みと口調に微妙な憂いの影が差し、ペンダントを見つめる視線が憧憬の色を滲ませているのに、俺は気付いていた。

「8月……27日か……」
 ペンダントのイルカの向こうに遠い視線を送りながら、静かにつぶやく。
「ああ、そうさ。オマエの誕生日さ」
 それ以上何も語らず、俺もその言葉に続く。
 そうさ、今日は水月、オマエの誕生日さ………

「うん、そうだよね。……でも、ん」
 その続きを言わせたくなかったから俺は水月の唇を塞いだ。……俺の唇で……。
「いいんだよ、それだけで……」
 ほっそりした腰に手を回し、頬をすり寄せながら俺はそれだけを言葉にして伝えた。それ以上は言わなくても分かっているだろうから……。
「うん………」

 水月も、そして俺も分かってはいたし、忘れることなんてできるはずもない。
 8月27日。
 その日はもちろん、水月の誕生日。
 でもそれ以上に、俺たちにとっては特別な意味を持つ日でもあった。

 速瀬水月。
 俺の陳腐な言い方だけど彼女。
 高校生のころからの腐れ縁というヤツで、俺の親友で今は親父さんの経営する会計事務所に勤める、平慎二といっしょになっていろいろバカもやっていた。
 そんな3人の輪にその水月の紹介で一人の女の子が入ってきたのは、水月と知り合ってからさほどたっていない頃。3人が4人になり、俺たちは面白おかしく高校最後の夏を送れる……はずだった。
 だけどそんな夏の風景が描かれるはずだった思い出のカンバスは赤い色で塗りつぶされ、涙によって溶かされ、絶望と悲しみの中に滲んで行った。
 それが、8月27日。

 ………交通事故。被害者氏名、涼宮遙。
 そのたった一つの冷酷な事実によって………

 その頃、世話好きな水月……いや、その頃の話だから『速瀬』と呼んだ方がいいか……の後押しもあっていわゆる「恋人関係」になっていた俺と遙。だから遙の事故と、その後遺症で眠り続ける遙を前にした俺の落胆と絶望は凄まじいものだったらしい。
 らしい……。
 というのも俺は、その時期の記憶が極めて断片的で希薄なのだ。
 大切な人を(厳密には違うが)失い、半ば自暴自棄になっていたその頃の俺。
 生きる気力すら失くし、抜け殻同然となっていた俺を必死に支え、包みこんでくれたのが速瀬水月、その人だった。

 私が遙の代わりになってあげる………
 速瀬はそう言って俺を支え続けてくれた。
 季節が一巡りし、そしてまた一年、俺は速瀬の優しさに包まれる内にいつしか彼女のことを、水月とその名を呼ぶようになっていった。とは言え、その頃の俺には水月はやはり「遙の代わり」でしかなかった。
 悲劇から3年後、遙が奇蹟的に目を覚ましたときぐらついた心が、そんな中途半端な気持ちの疑いようのない証明だ。

 遙への想いを忘れることはできない。
 支えてくれた水月への想いも、消し去ることなんてできやしない。
 優柔不断。
 そう、余りにも贅沢で身勝手な俺の悩み。俺のことを大切に想ってくれている人を「天秤に掛ける」余りにも非道な行為。俺は水月と遙、どちらも傷つけたくないという想いでいたのだが、そんな中途半端な気持ちそのものが、かえって二人を傷つけていたのだ。

 ………さよなら、しよう。
 もう、終わりにしないと、いけないから………

 結局のところ、この一言を残して遙は俺たちから離れて行った。そこにどんな想いが込められていたのか、情けないことに俺には計り知ることができない。それが本心からのものでないぐらいのこと以外には……。ただ、かつての恋人としての終焉はもとより、友人としてさえも断絶の形となってしまった俺と遙。それは高校1年の頃からの親友同士でもあった、水月とのそれも同様だった。
 最早、後戻りはできないし、許されない。俺に残された道は、水月とともに歩いていくこと、それだけだった。
 ……それが、身を引いてくれた遙の気持ちへの回答と、信じながら……

 だから、8月27日は水月の誕生日。
 今はそれでいい、そう思うのだ。


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Atto:2 想い出に引き寄せられるように…

「全く、エリア部長も無理難題言ってくれるもんだよな。まだ候補でしかない新米社員にエリア的店舗マーケティングの自分なりの構想を発表しろ、だなんて……」

 俺は高校卒業後、全国的にも大手の部類に入るファミリーレストランチェーン『すかいてんぷる』のアルバイトをしていた。そのころ本当にいろいろあったことも手伝って俺はバイトに打ち込んでいた。そのことが認められたと言えば聞こえはいいけど、要するにいつまでもアルバイトのままではいけない、私が口を利いてあげるからこの際正規社員になりなさい、と言う当時の店長の厚意に預かる形で中途採用してもらったのだ。

 確かにアルバイトの期間を含めればベテラン選手の範疇に入る俺だけれど、チーフマネージャー候補の正社員になってからはまだ1年も経っていない。まあそのエリア部長ってのがバイト時代の店長だった崎山さん。直属の上司である以上に、正規社員への口利きをしてもらった恩もあるから逆らうわけにはいかないし、そのことを承知の上でこんな無理難題を吹っかけてきているのだろう。……全く、人をうまく乗せて使う才能だけは天下一品なんだから。

 心の中で精一杯の愚痴を並べつつ、実用書コーナーで経営やマーケティング関係の書籍、雑誌コーナーでレストラングルメ系の本をいくつか買い込む。

「……ん? 児童書、……絵本か」
 目的の買い物も終わり店を出ようと思った俺だったが、どういうわけか普段は見向きもしないコーナーに視線が行き、出口に向かおうとしていた歩みがその方向へと動いた。

「あれ? 何しに来たんだ俺。児童書のコーナーに用なんてないはずなのに……」
 水月と一緒になって早3年。
 今、俺たちには水奈(みな)という名前の新しい家族がいる。6月生まれということもあって、6月の旧名である水無月から取った名前。水月自身はまんま「みなつき」と名付けたかったようだけど、さすがに「みつき」と「みなつき」、ややこしいから「みな」にしようという俺の意見を取り入れての命名となった。もっともまだ1歳になったばかりだから、まだ絵本とかでの情操教育が必要な時期でもないだろうし、必要になれば水月の方から頼み込んでくるはずだ。……第一、俺に絵本の良し悪しが分かるはずもないしな。

「さて、帰るか。水月が待ってるだろうし……ん?」
 新刊本の展示コーナー。
 その一角に視線が釘付けになった。

『ほんとうのたからもの』
 ………さく、むらかみ……はるか?
 はるか?
 心の中で何かが動いた。でも……
 なぜ、気になる?
 単に名前が同じなだけじゃないか。苗字もまるで違う。それに本の作者名となればペンネームの可能性が高い……。偶然さ、偶然の一致さ……。そう自分に言い聞かせつつも、手が伸びて行く。
 絵本を手に取り、かすかに震える指でページを繰る。

 数分後、件の絵本を手に、レジに向かう俺がいた。
 ……プレゼント包装しますか?
 大の男が絵本を買うという珍しさなのか単なるマニュアルなのか、そんな店員の言葉さえ虚ろに耳に届いていた。
 帰路の歩調が無意識の内に高くなって行く。

「ただいま……」
「あっ、おかえり。どしたの、残業か何か? いつもより随分遅かったし、それに何か変な顔してるけど……」
 マズい、顔に出ていたかな。まあ、どちらにせよ話すつもりだったけどな。にしても「変」はないだろうに……。
「え? あ、ああ。ちょっと気になるものを見つけたもんだからさ。とりあえずメシにしよや、待たせちゃったみたいだしな」

 終日営業のファミリーレストランのチーフマネージャー候補という職なだけに、いわゆる夕食時は一番忙しい。それらが一段落したところで後をアルバイトチーフ(正社員になる前の俺みたいなものだ)に任せて上がるという勤務体制のため、帰りは大体いつも夜の9時前後。しかも今日は駅前の本屋に立ち寄ったこともあってさらに遅くなってしまっていた。そんな俺をいつも手料理を作って待ってくれている水月。いつも思うことだけど、本当に俺には過ぎた女性だ。
「で、その気になるものって何なの?」
 夜食に近い夕食を終え、二人で片付け物。これまたいつもの日課通り、二人で水奈を寝かしつけた後、テーブルで向き合う。いろいろあって一緒になった経緯もあり、お互いに隠し事はしないと約束している俺たち。その日にあったことなんかを報告し合う「定例会」みたいな二人の団欒をこうして毎日しているのだが、今日のそれは少々肌合いが違っていた。

「ああ、まあ俺の早とちりならそれに越したことはないんだけどな。これさ……」
 そう前置きをしつつ、カバンの中からラッピングされた袋を取り出しそのまま水月に渡す。
「え? 何これ。………なぁに? 絵本なんて買ってきたの? もう、水奈はまだ1歳にもなってないのよ? まったく、ただでさえ絵本の良し悪しなんて分からないくせに。それに、要るようになったら私から言ってあげ……え?」
 予想された反応をしばらく返していた水月の表情が絵本のある一点を見つめ、煩わしそうに紙袋をまさぐっていた手の動きが止まる。

「さく、むらかみ………はるか?」
 やはり反応したか。それはそうだろう、俺たちにとって特別な響きを持つ名前なのだから。
「……あ、あはは。スゴい偶然よね、はるか……なんて。まあ、確かにあのコは絵本好きだったし、将来は絵本作家になる〜なんて言ってたけど、苗字もまるで違うしそれにコレ、ペンネームでしょ?」
 本屋での俺の反応を鏡に映したかのような水月の反応。軽く笑い飛ばそうとするその顔がわずかに引きつっていた。

「ああ、俺もそう思ったさ。けどな、まあちょっと読んでみなよ」
 絵本を手にしたまま動きが止まっていた水月。俺の言葉に追い立てられるように、ページを繰り出した。
 1ページ、また1ページ………

 ……オコジョのハル。
 丘の上の大きな木。
 友達との出会い。
 楽しい日々。
 ちょっとしたすれ違いといさかい。
 ひとりぼっちになってしまった、ハル。
 でも、いつか………
 そうして知った、ほんとうのたからもの。

「……孝之、これ……これって」
 静かに絵本を閉じると声を震わせつつ顔を上げる。俺を見つめるその瞳が水面のように、揺らめいていた。
「水月も感じたか。そうだよな、偶然の一致と片付けてしまうには余りにも……」
 余りにも似ていた。そう、かつての俺たちと……。

「なあ、これ描いたの……遙なんじゃないか?」
 書店で見つけた一冊の絵本。そこには「新刊」の二文字も踊っていた。仕事帰りの書店でいつもは見向きもしない、いや「絵本、児童書」というキーワードから無意識に逃げていたのかもしれない俺が、何かに引き寄せられるように立ち寄り、そこで見つけた出版されたばかりの絵本。そして、かつての俺たちのことを容易に連想できてしまう、その物語。
 偶然が重なり合えば、それは必然となる。

「……うん、私も……そう思う。これだけいろんなことが一致しちゃえば……ね。でも調べようがないよね。作者プロフィールも見当たらないし」
 そう、件の絵本には本来巻末に記載されているであろう、作者のプロフィールが見当たらない。恐らくは作者の意向で伏せられているのだろう。発刊元の『ひいらぎ書房』と言えば、俺たちにとっての思い出の町、柊町の駅前オフィスビル内にある地域型の出版社だ。規模こそ小さいものの、そうした地域の作家発掘や情報発信、様々な地域イベントの協賛も手掛けており、地元ではかなり名が知られている。だが、いくら出版元が分かっているとは言っても、そうした作者の意向が働いている以上、全くの第三者である俺たちに教えてくれるはずもないだろう。

「ねえ、あれからもう3年になるんだよね」
 視線を遠くへと泳がせながらぽつりと水月がつぶやく。
 あれから。
 水月の視線の先に映っていたものを、恐らくは俺も見ていた。
 俺が遙と別れてから、水月ともその関係を絶ってから、いつの間にか3年も経っていた。その間俺たちは意識してそのことには触れないように、辛い思い出に蓋をするようにして過ごしてきた。
 それを「逃げ」というならば甘んじて受けるしかない。あのときの遙の言葉が本心からのものでないことぐらいは分かる。だけど結果としてあの時の遙の決意、意思を覆すだけの力も、そして資格さえもその時の俺になかった、それも事実なのだ。だから水月の言葉に俺はこう返すしかなかった。
「ああ、3年も経ってしまったんだよな、3年も……」

「……遙、今どうしてるんだろうね」
 どうしてる……か。
 あの日以来、遙とまともに連絡など取れていない。いや、取れるはずもない。水月もそうだと言っていた。携帯の番号もメールアドレスもまだメモリーに残してあるが、こちらからは連絡をする勇気がない。せめて向こうから何か言ってきてくれれば……そう逡巡するうちに時間だけが流れて行った。
 遙の住まいは恐らく変わってないだろう。となれば、俺たちの住む橘町と遙の家のある柊町は隣町同士で、ほとんど目と鼻の先と言っていいほどの距離だ。だけど俺たちはあの日以来、柊町を意識して避けるようにし、どうにも必要なとき以外は足を運んでもいない。

 そんな風に思い出の地を切り捨てるように過ごしてきた俺たちを、今、一冊の絵本がその場所へ引き寄せようとしていた。
 過去を精算したわけではない俺たち。前へと進むために半ば無理矢理、心の奥に仕舞い込んだそんな「思い出」が、物言わぬ絵本を通して訴えかけてきているように思えた。

「ねえ、私たち。この3年間、何やってきてたんだろうね」
 水月の問いに答える言葉が見つからない。
 俺はじっと、テーブルに置かれた絵本に視線を落とすしか、なかった。


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Atto:3 手繰り寄せる糸

「いらっしゃいませ、1名様でよろしいでしょうか?」
「あ、はいそうです……ってまあ立場もあるかもしれないけど、そんな畏まらなくてもいいぜ」
 そうは言われても店長という立場上、きっちりと線を引くところだけはわきまえないといけない。オーダーストップ直前の午後9時半過ぎ。閉店近いこの時間、しかも平日にファミリーレストランに足を運ぶ人はまばらだ。しかも普段はこの時間は上がっているのだが、今日は特別。案の定、大空寺がどんな風の吹き回しだとばかりに、奇異の視線を投げかけてきている。

 客の名は、平慎二。
 高校時代からの友人で、水月と俺、そして遙を加えた「仲間」の一人だった。
 俺が遙から別れを告げられ、水月と一緒に暮らすようになってから、いや正確には遙が交通事故に遭って以来、やや一歩を引いた立場を取ってはいるが、俺とは変わらない友人関係が続いている。俺にとってはいろいろな相談事を持ち掛けられる、貴重な友人だ。
 慎二は大学卒業後、父親の経営する会計事務所に就職し忙しい日々を送っている。かたや客商売の俺という二人だから、なかなか時間を合わせることができない。それもあって今日のように俺の方から「仕事先」に招待し、閉店を待って二人で話し込む機会をこれまでにも何回か作ってきた。もちろんその際の慎二の食事代は俺持ちだ。こちらもムリを通している部分があるだけに、必要経費と割り切ってはいるが。

 平日の閉店時間である夜の10時を回り(ちなみに金曜日から日曜日の3日間と祝日は11時閉店である)、最後の客を見送ってから慎二の待つテーブルへと向かう。もともと残業申請も行わないイレギュラーで残っているだけに、営業終了後の雑事は全てマニュアル通りに任せ切っている。……まあ、たまに文句も飛んではくるが。

 今日、慎二を呼び出したのは他でもない、先日の絵本のことだ。結局あの後、何ら結論に至らず、とりあえず慎二にも話してみるよという俺の提案で、その場を落ち着かせたのだ。テーブルに付いた俺は単刀直入に切り出した。

「……これか。実はな、俺もこの絵本、気になっていたんだ」
「慎二もか? また、どうして」
 意外そうに訝る俺に、慎二が話を続ける。
「うん、接点ってのがさ、意外なところにあるものなんだよな。俺が親父の会計事務所で働いてるのは知ってるだろ? でな、親父の助手の形で仕事してるんだが、ウチの顧客の中に何と、涼宮宗一郎氏がいたのを最近知ったんだよ」
 涼宮……宗一郎?
「お、おい。それって、は、遙の……」
「ああ、涼宮の親父さんだ」
 話を聞くと、大学教授である涼宮宗一郎氏は自身の研究成果をいくつか書籍などで出版している。当然、書籍収入やそれに伴う印税収入も発生しているため、会計事務所を利用してそれら雑事を処理しているという。
 それは慎二が親父さんと一緒に、宗一郎氏の応対をした時のことだそうだ。仕事の話も一段落しちょっとした雑談になり、その中で「最近、娘が絵本を出しましてね」という話題になったそうだ。その場に絵本を持ってきているわけではなかったが、父親としてみれば愛娘の作家デビュー、題名やら断片的な内容をやや得意気にかいつまんで話していたという。

「でな、話を聞く内にどうにも引っかかっててな、一度読んでみたいとは思ってたんだよ」
 そう思いつつも読む機会がなかったらしく(と言っても出版されてからまだ日も浅いが)、俺が持参した絵本を手に取ると、興味深げに見ている。
「読んでみるか?」
 その言葉に無言でうなづき、俺の手から絵本を受け取る慎二。
ページを繰る度にその表情が次第に曇って行くのが、目に見えて分かった。
「どうだ? 慎二」
 慎二の表情を見ていた俺のそれは問いと言うよりは、追認を求めるそれに近いものだった。
「……俺たちのこと、だよな。どう考えても」

「なあ、孝之。もう、いいんじゃないか? あれから3年だろ? 言葉は良くないかもしれないけど、これ以上お互いが意地を張り通しても意味はないと、俺は思う。……言えた義理じゃないけどな、半ば部外者を気取ってる俺が……さ」
 部外者。
 俺たちはかつて4人で「仲間」となったが、もともとが俺と慎二、そして水月という関係に遙が加わったという経緯もあって、慎二と遙はさほど親しげにしていたわけではない。もちろんそれは俺と遙の関係に遠慮していたという側面からなのだが。遙の事故、その後俺と水月がその関係を深めるにつれ、遙からはさらに距離を置くようになっていた。そんな慎二が父親同士の関係とは言え、涼宮の家との関わりを持っていたというのは、ある意味皮肉めいた話だ。

「涼宮の親父さんのことだけどな、どうも俺たちのことをそれなりに気付いているらしいよ。父親だもんな、娘の心情の変化には敏感なんだろう。俺が涼宮の友人だったってことも知ってた。正直、驚いたと言うか、何か自分が情けなく思えて仕方なかったよ。一体、俺は何をやってきてたんだって。よくこれで涼宮の友人だなんて言えたもんだと、な……」

 ………娘は今でも、君のこと、いや君たちのことか。忘れてはいないよ………

 頭に落雷を受けたような衝撃が走った。
 忘れては、いない?
「何てことだよ……、何て……」

「それで、さっき俺が言ったことだ。……もうお互いに意地を張り合う必要はないはずさ。会ってやれよ、涼宮に……」

「けどな、慎二。今の俺に遙に会う資格があると思うか? 遙から別れを告げられたことを口実にして3年間、遙を放っておいた俺にさ……」
 遙を忘れようとしていた俺。
「確かにワンクッションあると事態は進みやすいだろうな。でも、それならもう答えは出てるじゃないか、孝之。俺に親父がいたように、お前にも涼宮本人以外にもう一人いるだろ? ……これ以上言わなくても分かるよな? もう」

 遙との別れを誰よりも悲しんだ人がいた。
 遙から離れていく俺を、誰よりも必死に、繋ぎとめようとしてくれた人がいた。
 俺と水月との関係を認めつつも、遙のことを忘れないで欲しいと、誰よりも訴えた人がいた。
 それは全て、家族のため。
 大好きな「お姉ちゃん」のため。

「………茜、ちゃん」
「ああ……」
 短く答える慎二。
 手繰り寄せる糸の口は、そこにあるのだろうか?


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Atto:4 導くもの、導かれるもの

「さて、ここまで来たはいいけれど、果たして会ってくれるか……」
 目の前の、心理的な抵抗感もあって一際大きな威容で迫る建物に、じっと視線を送る。
『柊町総合スポーツセンター』
 競泳の有力実業団である「フォレックス」が本拠地を構えていることもあり、全国レベルで見ても一流の設備を備えた大型屋内プール施設。他にテニスコートやフットサル、トレーニングジムからリラクゼーション施設、各種遊技場からもちろん人工ではあるが温泉までも兼ね備えている。オープンから2年余り経ち、近々本格的な屋内遊園地まで増設する予定もあるほどの集客力と人気を博している。

 そんな地域でも屈指の集客施設でありながら、実は俺たち(つまりは水月も含めてだ)は一度も足を運んではいない。実は俺の勤める『すかいてんぷる』も支店を出しているのだが、俺は無理を承知の上でここへの転勤だけは拒んでいる。エリア部長の崎山さんに随分と無理を言ってしまっているだけに、ここにも崎山さんに頭が上がらない理由が一つあったりもするのだ。
 その理由はただ一つ。
 ここには競泳選手としてここのところ急速にその名を上げてきている、涼宮茜が所属しているから、というただそれだけである。

 涼宮茜。
 大学教授を務める父とともに両親健在。
 兄弟姉妹に姉を一人持つ。
 姉の名は、涼宮……遙。

 やがて数人の集団の中に一際強い印象を放つ、燃えるような赤髪と白いバンダナ、勝気な瞳を輝かせた女性がその姿を見せた。
 恐らくは友人なのだろう、親しげに話すその姿に躊躇いがちになっていた足が、さらに無意識の拒絶を訴えてきた。やがて、逡巡でに苛まれて立ちすくむ俺の心理を察したかのように、その友人が手を振りつつ涼宮茜の元から去って行く。
 今しかない、そう思いつつ動かした足の方角。それが友人を見送りつつ自身の目的の方角へと向けた涼宮茜の体のベクトルと、交錯した。

 逡巡しつつも無意識に近づいていたのか、二人を隔てるその距離はわずかに5メートル。
 視線が俺の顔を捉えると、その動きが弾かれたように後退した。

「えっ?! あ……、な……鳴海……さん?」
 憶えていてくれていたのか。いや、忘れたくても忘れられないんだろうな、今の俺たちと同じで……。
「あ、ああ……。随分になるね、あ……」
 いけない、思わず『茜ちゃん』の一言が出るところだった。そんな親しげな呼び方をする資格なんて、とうの昔に失くしているというのに……。そう思いつつ、喉元まで出かかった呼びかけを飲み込んだ。
「……涼宮……茜さん」

「ええ、お久しぶりですね、鳴海さん」
 驚きを一呼吸で落ち着かせ、俺の他人行儀な呼びかけに応答するように、挨拶を返してきた。

 どうせ始めからそのつもりだったんでしょ?
 全てを見透かしたようなその言葉に気恥ずかしさを覚えつつも、近くの喫茶店でしばらく時間を使わせてもらえることになった。

「この間さ、本屋でこんなのを見つけたんだよ」
 前置きはいらないだろう。俺はいきなり切り出すことにした。
 カバンから一冊の本を取り出し、彼女の前に置いた。
「え?! そ、それは……」
 やはり、か……。この驚き方、俺は残り1%の疑念を確信のそれに変換した。
「やっぱり、そうなんだね。すまない、いきなり試すような真似をして」

 失敗したとばかりに顔に手を当てながら、ふぅっと小さなため息を吐く。呼吸を整えると、独特の釣り目に優しげな睨みの光を浮かべながら、わずかに口をとがらせた。
「……相変わらず意地悪なんですね、鳴海さん。本当は知ってたんでしょ? これを姉さんが描いたってことを。でなければ久しぶりの相手にいきなり絵本を突き出したりなんて、するわけないですからね」
 そう言いつつ、少しだけ視線を遠くへと逸らしながら話を始める。

 絵本作家としてデビューすることになった、遙。
 処女作に自らの想いを込めた、遙。
 俺に別れを告げたことを悔やんだ、遙。
 あの日に帰りたいと泣いた、遙。

「……あの日に、あの丘の上に、帰りたい……」
「ええ、姉さんはそう言ってましたよ」
 彼女、いや茜ちゃんの言葉は、俺が無理矢理に心の奥に仕舞い込んだそれの、代弁だった。……何てことだ、心の中で自分を糾弾し、嘲笑した。

「さて、と。そろそろ本当の目的を教えてもらえるんでしょうね? まさかこの絵本を見せるためだけなんてことはないんでしょ?」

 見透かされてたか。
「お見通しか。さすがだね」
「それはそうですよ、どうせ平さんあたりの入れ知恵でしょうしね」
「え? 何で慎二のことまで……」
 茜ちゃんと会ってみたらどうか、とのヒントをくれたのは慎二だった。
「あのですね、何年鳴海さんのことを見てきたと思うんです? 鳴海さんがこんな気の利いたことできるわけないじゃないですか。そうなれば頼れるのは平さんだけ、とっても単純な思考回路なんですからね、読み甲斐さえないですよ」
 全く、ひどい言われようだ。

「姉さんを連れ出して欲しいんですね? 水月先輩と引き合わせるために」
 今、何て?
 水月……先輩?
「水月……と呼んでくれたのか? 今」
「え? あ……そういえば、そうですね。何ででしょうね、あんなに名前で呼ぶのを嫌っていたっていうのに」

 お互いに会いたいと思っていた。
 でも、あのときの一言が、お互いの枷となっていた。
 考えていたことは同じ。
 抱いていた想いも、同じ。
 ……きっかけが、欲しかっただけ。

「それじゃあ、また日取りとかは後から連絡します。平さんにもよろしく伝えて下さい」
「ああ、ありがとう。涼宮さん」
 その言葉にわずかに表情に翳りが射した。
「全くもう、ここまできて『涼宮さん』ですか? 仕方ないな。……今回の話、一つだけ条件付けちゃおうかな?」
 そう言いつつ、腰に手を当てて上目遣いに俺を見上げる。
 え? この仕草は……。
「その『涼宮さん』って呼び方、やめて下さい」

 少しばかり躊躇った後、俺は資格がないと封印してきたあの呼称を口にした。
「ああ、分かったよ。……茜ちゃん」
 その言葉に余りにも懐かしい言葉が、返された。
「うん、お兄ちゃん」


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Atto Fine 今ふたたび、はじまりの丘で…

 目的地に近づくにつれ、助手席に座る水月の顔に怪訝の色彩が混じり、記憶の中のそれを映す車窓の風景が、そこに疑念と戸惑いのモザイクが重なっていく。

 白陵大学付属柊学園高等学校。
 その校舎の裏手の大きな樹の聳える小高い丘。

 デートに行くと偽り、水月をここまで連れ出した。
 水月の歩調が明らかに動揺に乱れている。
 木立を抜け、やがて大きな樹がその視界に入った。

 そこに二つの人影が見えた。
 がくん、と繋いだ片手に大きな抵抗が働く。
 耳に激しい抗議と泣き声混じりの訴え。

 なおも抵抗する片手を引きずるように、自分の足を前方に向ける。
 俺の視線がその姿を捉えた。
 柔らかな風を孕みなびく、長い髪。
 白を基調にした涼しげなワンピース風の出で立ち。
 深い色合いを湛えた、その瞳。

 ………遙。
 後ろ手に近づいてきた遙の手が前方へと回り、手にしていたものを俺たちへと向けた。

『ほんとうのたからもの』

 これが正しいことなのかは分からない。
 だけど、ここから始めなければならないのも確かなこと。
 この場所。
 俺たちの想い出と全ての始まり、喜び、悲しみ、絶望と希望、それら全てが集う、この丘で……。


〜Fin〜

≪あとがき≫

 個人的に思い入れの強い「水月エンド後」のお話です。このテーマではすでに4作目になりますから、その思い入れの強さも分かって頂けるんじゃないかと……。
 話の内容としては、2006年茜聖誕祭で書いた「もう一度、はじめるために…」と同じ時間軸を水月側(孝之視点)から描いたものです。二つをまとめていわゆる「神様視点」で書ければいいんでしょうが、情感を出すにはキャラに没入できる、視点を絞る書き方の方がやりやすいんですよね。
 それにしても毎度のことながらギリギリの完成です。詰めの甘さがあちらこちらにありますんで、またしても恒例の加筆&修正の嵐が吹き荒れるかも……(自爆)

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