『SSのお部屋』

Preludio

 薄く開いた扉から漏れるかすかな声に誘われ、気付かれぬよう、静かに中を窺う。
 淡いピンクのシーツにくるまるように、私よりも大きいはずなのに小さく見える影が、凍てついたような空気をわずかに揺らす声に同調するように、小刻みに震えていた。

 覗きと罵られるのを承知の上で扉に近づき、じっと耳をそばだてる。
 私の聴覚が、そのかすかな声を拾った。
 ………き、………きくん………
 胸が痛む。

 ……………
「来てくれなかったね……」
「………うん」
 納得できない私の小さな返事を打ち消すように、少しでも気丈に振舞おうとするかのような言葉が続いた。
「……もういいのよ、もう……。終わってしまったこと、だから……ね」
 本当に……?
 ……………

 そんな昼間に見せた気丈さが、ベクトルが反転するかのように、そのまま夜の慟哭にすり替わっていた。
 ……強がりの反動を、加算して……
 二人の時は見せなかった、本当は諦められない、忘れられない想い………

「誰かいるの?!」
 気付かれた。
 立ち去ったところで人物特定に選択肢などほとんどない自宅。その行動に何の意味もないから、扉に手を掛けて静かに開く。

「………茜」
 分かってたよね、私がここにいたこと。

「……姉さん」
 その一言だけをかけつつ、胸元で交差させた腕が抱える一冊の本に、視線を止める。

『マヤウルのおくりもの』
 そうなんだよね?
 ………やっぱり、そうなんだよね………

もう一度、はじめるために…

Atto:1 絵本作家「むらかみはるか」

「どうも、初めまして。私、『ひいらぎ書房』で児童書部門を担当しております、村上里美と申します」
 そうあいさつをしつつ、軽い会釈とともに姉さんに名刺を手渡す。
「え、あ……はい、よ、よろしくお願い……」
 ごく普通の営業あいさつにあたふたと応対する姉さんの姿に、心の中で思わずため息をつく。全く、キチンとアポイントを取ってわざわざ自宅訪問してくれているっていうのに……。
「うふふ、そんなにかしこまらなくてもいいですよ、今日はちょっとお話をしにきただけですからね」
「え…、あ、はい……」
 ほどなくして、まだあたふたしている姉さんを見かねたような声が、キッチンの方角から聞こえた。
「ちょっと、遙。そんなところで固まってないの。応接間にお通ししなさい」

 早いもので、交通事故で長期入院していた姉さんが退院してから、もう3年。
 しばらくは自宅療養が必要ということもあり、空いた時間を勉強に費やしていた甲斐もあって、姉さんは大学入学検定試験に見事合格。今、高校時代の目標だった白陵大学児童心理学科の2年生、陳腐な言い方をすれば「花の女子大生」だ。
 児童心理学科があるからなのか、白陵大学には絵本サークルがあるみたいで、姉さんももちろんそこに所属。サークル活動の一環で柊町絵本作家展に出品した作品が、件のひいらぎ書房の編集者の目に止まったことで、今回の話となったわけだ。
 ひいらぎ書房はその名前の通り、柊町の駅前オフィスビルの中にある出版社。社員十数名の小さな会社だそうだけど、地元の新人作家発掘や地域の情報発信などを手がけている、いわゆる「地域密着型」の出版社。最近、児童書部門に力を入れているらしく、絵本作家展の協賛スポンサーにもなっていた。

「それで……ですね。私どもの会社は小さな出版社でして、児童書に力を入れてはいても直接担当しているのは私とあと二人だけなんですよ。ですから会議での私の提案が何ともとんとん拍子に運んで行きましてね。……どうでしょう、当社から、絵本を出してみませんか?」

 絵本を出す。
 それって、つまり『作家デビュー』ってこと?
 私でさえ「え?」と思ったくらいだから、姉さんの反応は……。
「……………」
 あはは……、案の定固まっちゃってる。

「ちょっと驚かせてしまってるようですが、絵本作家展に出品されたあなたの作品、私はとても気に入ってるんですよ。……何て表現すれはいいんでしょうね、こう、暖かみとメッセージ性がうまく融合しているというか、もちろんまだ荒削りなところはありますよ? でも絵本作家としての作品の完成度や技術なんていうのは、後からいくらでも教えられます。大切なのはその作家さんの持つ『感性』なんですよ。それが涼宮遙さん? あなたには備わってる、と私は判断したんです。それとですね……」
 こういうことには慣れているのだろう、立て板に水の流暢な口調で今回の姉さんの推薦話に至った経緯を説明していく村上さん。姉さんは相変わらずのカチコチの態度で聞いていた。

「どうでしょうか? もちろん涼宮さんのお気持ち次第ですが、当方ではすぐにでも計画を実行に移せる手はずにはなっております」
「あ……、ありがとうございます。すみません、何か夢見てるみたいで、その……」

 そうだよね、絵本作家になりたいってのは姉さんの小さいころからの夢。それが叶おうとしてるんだもの、気持ちが舞い上がってしまうのもムリないよね。

「では、ご承諾頂いたと受け取らせてもらってよろしいのでしょうか?」
「あ、は……はい。あ、あの……、それでちょっと気が早いかもしれないんですけど、絵本を出版となると、名前は当然出るんですよね? でも、本名はちょっと……。あの、下の名前だけは使いたいと思ってますけど……」
 確かに、まだ絵本の形すらできてないのにそんな心配をするのは気が早い。でも本名を出したくはないからとは、いかにもシャイな姉さんらしい。

「名前? ああ、作家さんの名前ですね。その点は心配しなくてもいいですよ? 中には本名を出したくない、という作家さんもいらっしゃいますから、当社では作家さんの希望で作家名をペンネームにしたり、本来は巻末に掲載するご本人のプロフィールを伏せるなどもしてますから」
 本名を出したくない、というのは別段珍しいことでもないそうで、出版社としてもその辺りのサポートはしてますよ、との村上さんの話に姉さんがほっと胸をなで下ろしていた。……ホント、気が早いんだから。

「……そうですね、下のお名前はそのままにしたいとのことなら、例えば私の苗字をかぶせるとひらがなで『むらかみはるか』みたいに。もちろん涼宮さんが考えてらっしゃる名前があれば、そちらを優先いたしますので」
「あ……はい、でも、まだ考えては……」
 だからまだ気が早いって……。心の中で苦笑するしかなかった。
「あ、まだいいんですよ。この件に関しては後から何とでもできますからね。それでは早速今後の予定ですが、簡単なプロットというか、こんなお話にしたいなどの打ち合わせをしたいと……」
「あ……あの、そのことなんですけど、実は……」
 聞き一辺倒だった姉さんが、珍しくしかも村上さんの話を遮るように話し出した。普段とは少し違う、何やら強い意思めいたものを感じさせるその口調に、村上さんだけではなく私も驚いた。何を言い出すんだろう?

「実は……書いてみたいお話が、あるんです」


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Atto:2 失われた『たからもの』

「お? やってる、やってる。……どーれ、どんなお話書いてるのかな〜、我らが新進気鋭の絵本作家様は……」
「ちょっと、茜! 覗かないでよ。もお、まだ秘密なんだから」
「そんな、家族に秘密も何もないでしょ? いいじゃない」
「とにかく、まだダメなの! んもお、もう少ししたら見せてあげるから……」
 描きかけの原稿を裏返して隠そうとする姉さん。チラリと見えたのは、何だろう? ネコ? ううん、あれってオコジョ……かな? そういえば姉さん、オコジョ好きだもんね。この年でぬいぐるみまで持ってるし……。

 でも隠そうとしていても、どこか無用心に抜けているトコロのある姉さん。見ないで! と言われてるのに覗き見しようとしてる自分に罪悪感を感じつつも、ちょっとだけなら……と姉さんが出かけたスキを狙って部屋に忍び込んでしまう私。

「お? あった、あった。……ゴメンね、姉さん。ちょっとだけだから」
 机の上に置かれた原稿に描かれた、3匹のオコジョの絵に目が止まった。
 書きたいお話があるって言ってたけど、ふ〜ん。オコジョの仲間たちのお話を作ろうとしてるのね。
 大きな樹のある丘の上に3匹が集まってて……でも何か悲しそうだね。ケンカでもしてるのかな? えっと、こっちは……1匹だけ。赤いリボンを着けてるってことはメスのオコジョ、女の子なんだね。う〜ん、3匹と1匹。合わせて4匹のオコジョ。
 ……4匹。
 あ、通し番号が振ってあるね。この樹の下に3匹が集まってるこれが、一番新しいんだ……。
 何か引っかかるものを感じた私は、若い番号が振ってあるページを探した。いくつかは同じ番号が振ってあったけど、ある程度順番に並んだところでざっと目を通してみる。

 ……………
 一匹のオコジョ、名前は『ハル』。
 いつも行く丘の上で、3匹のオコジョと出会う。
 仲良くなった4匹。
 でもちょっとした、いさかい。
 一匹、また一匹とハルの元を去るオコジョたち。
 ひとりぼっちになってしまった、ハル。
 寂しさに涙する、ハル。
 そして、ハルがいなくなってしまったことを悲しむ3匹のかつての『仲間』。
 ……………
 まだお話は続くようだけど、今はまだここまで……。

 え……?
 オコジョのハル?
 3匹が加わり、4匹になった『仲間』?
 丘の上?
 一本の樹?
 そして……
 ひとりぼっち……?

 これ……、これって……!

「あ……茜っ! 何してるの?!」
 驚きと糾弾の入り混じった叫びが背中を突き刺した。
 私を睨み付ける見開いたその瞳。焦点が定まらず、揺らめいているように見えた。
「……勝手に部屋に入って、それに……それ、あれほど見ないでって言ったのに、どういうつもりなの?」
 言い訳は通用しないよね、きっと。
「ご……ごめんなさい、姉さん。勝手に見ちゃって……。でも、これ、これって……」
「もお、返してっ……」
 引ったくるように私の手から原稿を取り上げる。

「………ふぅ、全く油断もスキもあったものじゃないわね。茜のことだから覗き見くらいするんじゃないかって思ってはいたけどね」
 とんとん、と机の上で原稿を揃えながら一呼吸整えると、単に覗き見をしたことをなじるだけの文句をつぶやく姉さん。……その口調がわずかに震えを帯びていたのを、私は感じ取ってしまった。

「……姉さん、そのお話、ひょっとして……」
 カマをかけたところで意味はない。単刀直入に切り出すことにした。
「なぁに? もお、見ての通りよ。オコジョたちのお友達作りの話。これ読んで、少しでも友達を大切にする気持ちを感じ取ってくれれば……と思ってね。友達を、大切に……、ともだちを……」

 友達……
「姉さん、やっぱり……」

「……うん、茜には分かっちゃうよね。そうだよね、だって、一番近くで私たちのこと、見てたんだから……ね」
 そう軽く目を伏せながら、取り上げた原稿の内の一枚を私に向けた。……4匹のオコジョが丘の上に集まってる、私が見た限りではお話の始めの部分だ。
 語り部のように、姉さんが静かに話し出す。

 ……ハルは、もちろんわたしのこと。
 ……ナッツは、水月。
 ……アキは、平くん。
 ……フユユは、……孝之……くん。
 みんなで仲良く過ごしていた。
 でも、たった一つの木の実が、そんな仲良しの輪にひびを入れる。
 ……見つけた自分が食べるんだ。
 ……いや、時間を置いて育てよう。
 ……このままにしておこうよ。
 仲間割れ。
 ひとりぼっちのハル。
 それでも毎日、丘に登るハル。
 ある日いっぱいの木の実をつけているのを見つけるハル。
 ここでまたいつか……。
 そうして知った、本当に大切なもの。
 いつかまた、きっと……。

「私は、もう手遅れになっちゃったけど、なっちゃった……けど、これを読んでくれた人に、大切なものに気付いて欲しいから。……それと」
 何を言いたいのか私には分かった。だから続く言葉を遮るように、私が口を開いた。
「………忘れてしまいたくないから、なんでしょ? 姉さん」
 失くしてしまったけれど、取り戻すことも叶わないけれど、それでも忘れ去ることだけはしたくない。たとえその記憶が、想い出が痛みを伴うものだったとしても……。
「何もかも、茜には分かっちゃうんだね。そうなの、この絵本は私の想い出の一部になるの。忘れよう、忘れたいと思う私の気持ち。大切なものに気付くのが余りにも遅かった私に、あの時間を忘れ去らないようにするため」
 訥々と語る姉さん。
「……だからまだ書いてはいないけど、この絵本の題名はもう決まってるの」
 そうして、何も描いていない真新しい原稿用紙を胸の前に掲げ、これからお話を始めるかのように静かに語りかけるように言った。

「……『ほんとうのたからもの』……それがこの絵本の題名。私はもう失くしてしまったけど、そんな想いをする人が一人でも少なくなってくれれば……、そうなってくれれば……。そう……なって……」
 そのままゆっくりと蹲るように、姉さんは体を沈めて行った。
 震えるその体をそっと抱き起こすと、細い腕が私の背中に回された。
 そのまま私の肩に頭を預けてくる。
 擦りあう頬に、暖かな水滴の感触。
 ……涙。

「ね、茜。どうして私、あんなこと言っちゃったんだろね? 孝之くんに『さよなら……しよう』なんて、どうして言っちゃったんだろね? 『もう、会うのは……やめよう』なんて……。どうして……、どうして……」
「姉さん……」
 あの日、鳴海さんに別れを告げた日。
 そのことは後から私にも話してくれた。
 どうして! と姉さんに詰め寄ったけれど、涙を流しながら『全てがもとに戻ってしまうのがこわいから……』と話す姉さんに、それ以上、かける言葉が出てこなかった。
 でも、それでも、それはあんまりだからと、退院の日に鳴海さんにも来て欲しくて連絡を入れた私。そして『分かってもらえないかな?』と断られた。そうなのだ。鳴海さんもまた、あの人と一緒にやっと動き出したであろう時間が、姉さんと会うことで巻き戻されてしまうのを恐れていたのだろう。もちろんこれは推測に過ぎないけれど、姉さんがそう思っているのだから、恐らくは鳴海さんも、そしてあの人も同じ気持ちだったのだろう。
 その日から3年が過ぎた。

「……やり直したい。もう一度、あの丘の上に戻りたい。孝之くんが私の気持ちに気付いてなくてもいい。それでも私は戻りたい、戻りたいの……」
 もう、戻れないの?
 鳴海さんが姉さんのことを知らない状態でも構わない、そこまで譲ってもやり直すことはできないの?

*          *          *

 2ヵ月後、姉さんの書いた絵本が出版された。
 大きな扱いではなかったけれど、新聞の新進絵本作家の欄にも紹介されていた。
『ほんとうのたからもの』
 さく・むらかみはるか……として。
 たからものを失くしたままで……


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Intermezzo 想い出は、痛いだけだから…

 それは今から3年前のこと。
 そうだ、姉さんが3年間に及ぶ交通事故による入院生活に別れを告げ、やっと退院できた日。本当なら素直に嬉しく、喜ばしい日だった。
 だけど………

*          *          *

「どうして、どうして来てくれないんですか? それは、今の鳴海さんにはあの人……速瀬水月さんがいるからなんでしょうけど、それでも……と、友達じゃないですか? それなのに……」
 あの人。
 まだ、かつてそう呼んでいたように『先輩』とは呼べないでいる私。
 友達。
 恋人だった……。そんな残酷な『過去形』なんて口にしたくないから、そう表現した私。
 分かっていた。
 そんな拘りがあるから今、私は電話口に向かって半ば糾弾めいた懇願をしているってことを。
 それを知っているから、電話の相手は承諾してくれないんだってことも……。

 3年。
 人が変わるには、変わらざるを得ない状況になるのには、十分過ぎる時間。
 鳴海さんも変わって行った。
 その様に憎しみさえ抱いた時期も、あった。
「え? 孝之くんに連絡をしたの? 今日のこと」
「うん、勝手なことしてごめんなさい。でも、いろいろあったけど、友達……だよね? 今でもそうだよね?」
 そう信じたい。
「でも、仕方ないよ。た……、鳴海くんにはみつきがいるんだもの。それに、私からお別れしたんだし……ね」

 その言葉を聞く限りでは姉さんは鳴海さんのことを、もう吹っ切っていると思えるだろう。その言葉だけ、なら……。 でも私は見てしまった。
『たかゆき……くん、みつ……き』
 そうつぶやきながら泣きじゃくる、姉さんの姿を……。

*          *          *

 あの日からもう、3年になる。
 この3年間私は、ううん私だけじゃない。お父さんも、お母さんも、意識して鳴海さんやあの人のことを姉さんの前では口にしないようにしていた。もちろん口を滑らせることもあったけど、分かるよね? 姉さんも皆の前では退院の日に見せた上辺だけの気丈さで話に合わせていた。そんな時に必ず口にする一言。

 ………うん、懐かしいね………

 何て痛い一言。
 本当にそんな『懐かしい過去』にしていいことなの? 姉さん。
 忘れてしまってもいいことなの? ……姉さん。
 でも、そんな私だってこの3年間を、姉さんの言う『過去』に仕舞い込んでいた。
『もう、さよならしたから……』
『もう、終わりにしたから……』
 そんな姉さんの、どう考えたって強がりとしか思えない言葉を、過去から目を逸らすための口実にして……。

 いくらだって連絡は取れただろうと思う。
 高校卒業後、鳴海さんはアルバイト先のファミリーレストランに正社員として就職。あの人は水泳から離れて中堅どころの商社のOLになっていた。二人とも柊町からは出て行ったけど、引越し先はその目と鼻の先の橘町。ともに勤め先に近いこともあってそうしたらしい。
 柊町から橘町までは電車で3区、車なら30分もかからずに町の中心街に到着できる。自転車や中には徒歩で出かける人もいるくらいだ。
 そんなに地理的には近いというのに、心の距離はどうしてこんなにも離れてしまったのだろう。

 思い出すのは辛い。
 でも、忘れ去るなんてこともできないのに………


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Atto:3 抱く想いは、同じだったから…

 私は高校卒業後、柊町に本拠を置く競泳の有力実業団『フォレックス』に入っていた。白陵時代の2度のインターハイ制覇の実績を評価されての推薦で、いわば夢が叶った形。もっとも、上には上がいる。そんな傍目には、ううん私だって誇りに思っている実績を引っさげて入団した私を待っていたのは、勝負の世界の厳しい現実。
 ここではもう先輩、後輩の区別などない。個人を区切るのは、実業団内での地位を決めるのはただ「実績と記録」だけ。白陵時代には高校生スイマーでも五指に入るとまでもてはやされた私も、ここフォレックスではいいとこ中堅クラスなのだ。
 だからもう毎日が練習、練習。スパルタ練習にはすっかり慣れっこの私だけど、高校の部活動と決定的に違うのは「練習を強制されないこと」。そうだ、代わりなどいくらでもいる。向上心がなければ、自分を厳しく鍛え「結果」を残せなければすぐに追い抜かれ、落ちこぼれ、後はもう「自主退団」するしかなくなる。

「ふぅー、さすがに今日は堪えたなぁ。まさか一気にランキングが10も下がるなんてさ……。とんでもない連中よね」
「何言ってるのよ、茜。アンタがそんなこと言ったら、私の立つ瀬がなくなるじゃないの。まあでも、ウワサ以上に厳しいよねココってさ」
 そう横で嘆き節に浸ってるのは高校時代のライバルだった、下原知美。周り中敵だらけみたいな実業団内にあって、やはり高校生のころからの友人でもある知美とは、それなりに心を許せる間柄が続いている。……そういう知美だって私とそう変わらない位置にいるんだけどね。
 フォレックスに入団して早2年余り。当初の中の下からやっと上位20人の中に食い込めそうなトコロだったのに、一気に抜かれてしまってる私。もっともここ数日体調がすぐれなかったってのも理由ではあるんだけどね。それだけ団体内の順位争いは常にしのぎを削り、体力、精神力ともにしっかりしてないといけないってこと。
「じゃあね、茜。また来週!」
 ぶんぶんと手を振りつつ去っていく知美を見送り、私も帰路につこうとした、その時だった。

「……お久しぶり、随分とご無沙汰しちゃってたけど」
 余りに懐かしい声が、私の耳に届いた。
 声の主を確かめようと、体の向きを変えたその視線の先。
 ………3年経っても、変わらないんですね。

「な……、鳴海……さん」
「ああ、随分になるね。あ……いや、涼宮さん」
 涼宮さん……。
 他人行儀なその呼び方に心の中で寂しさを覚えた。
「そう……ですよね。あの日からもう、3年ですもんね」
 それきり言葉を失くしてしまう私。
 でもそれは鳴海さんも同じみたいだった。
「ああ、3年も経ってしまったんだよな、3年も……。そうだ、これから帰るところを捕まえておいてすまないけど、ちょっと時間もらえないかな?」

 駅前の喫茶店。
「こないださ、本屋でこんなものを見つけたんだ」
 そう言いつつ、カバンの中から一冊の本を取り出し、その表紙をこちらに向けた。
『ほんとうのたからもの』
 さく、むらかみはるか。
「それは……!」
 姉さんの描いた絵本。
 でも本名は伏せてあるし、プロフィールとかも姉さんの希望で載せていない。それなのに鳴海さんがそれを持っているってことは……。
「その驚き方、やっぱりそうなんだね。悪い、いきなり試すような真似をして」
 反射的に驚きを見せたことが、鳴海さんの中での推測を確信に変えたようだった。

「偶然、本屋でさこれを見つけて。何でだろうな、普段は足を運ばない児童書コーナーなんかに立ち寄って、そこで出版されたばかりだっていうこれを見つけるなんて、やっぱ何か運命みたいのを感じるよ」
 そう話しながら鳴海さんは、テーブルの上に置いた絵本に視線を落とした。
 そして自虐めいた薄笑いを浮かべながら、話を続けていく。
「……一体、俺達ってさ、この3年間何をやってたんだろうな。近づこうと思えばいつだってできたはずなのに、結局、今日のこの日まで一度も会わずじまい。この絵本がなければそれすらもできなかったしな」
 自嘲めいたその言葉はそのまま姉さんにも、そして私にも当てはまる。

「……うふふ、それは私も同じですよ、姉さんもね。聞きましたよ、あの日のこと。鳴海さんが、姉さんから『お別れしよう』って言われた日のこと。姉さんがどうしてそんなこと言ってしまったのか、私、聞いたとき姉さんに詰め寄りましたよ。でもその後、泣きながら言いました。……全てが戻ってしまうのがこわいからって。だからあんなことを言ってしまったんだって」
 姉さんの描きかけの絵本を覗き見たあの日、私に寄りかかるようにして泣いた姉さん。そのときの言葉を私はそのまま、鳴海さんに伝えた。

「結局のところ、俺たちって考えていたこと、いやキザな言い方をすれば抱いていた想いってヤツかな? 同じだったんだよな」
「多分そうなんでしょうね。私は姉さんじゃないですから確信はないですけど、少なくとも私は姉さんの『別れた』発言を口実にしていたんだと思いますよ」
 互いを求めながらも、それが『今』を壊すきっかけになるのを怖れ、一歩を踏み出すことができない。だから本心からではない、あの時の状況から先に進むためだけに口の端に登った言葉を理由にして、お互いを避け続けていた。

「ふぅ……、もういいですよね? これ以上話し合わなくても。鳴海さん? そろそろ今日、会ってくれた理由を話してもらえませんか? もっとも、訊かなくても何を言い出すかある程度、予想はできますけどね。まさか絵本を見せるためだけ、なんてことはないんでしょ?」
 ちょっと意地悪に質問をする。
 答えはほぼ、予想できていたけれど、鳴海さんの口からその言葉を聞きたかったから。

「ははっ、そりゃ分かってしまうだろうな。3年間まるで音沙汰なかった俺が、遙の描いた絵本を見せてまで話すことなんて、一つしかないんだからな」

「……姉さんを連れ出して欲しいんですね? 水月先輩と引き合わせるために……」
「ああ……。それにしてもやっと呼んでくれたな、『水月』と名前で……」
 あ……。言われなければ気付かなかった。
 何て素直に『水月先輩』って一言が出てきてくれたんだろう。これまでずっと『あの人』って呼んできたというのに。
「あれ? そう言えばそうですね、あの日から3年経ってていろんなことが変わってるのに、何ででしょうね? 鳴海さんの顔見ると戻っちゃうんでしょうか、あの日に……」
 3年の月日。
 すれ違ったまま過ごしてきた二つの時間が、互いを求めるように近づいて行く。

「どうだろうな。……ま、それは置いとくとしてだ、実は水月のヤツを連れ出す算段はできてるんだ。慎二のヤツまでムリ言って引っ張り出したしな。まあ水月についてはだまし討ちするようなものだから後がこわいけど、本当のことを話したらテコでも動きそうにないからな。アイツだって本当は会って話をしたいはずなのにさ、分かるだろう? 意地の張りかただけは一流なんだからな、水月のヤツときたら……。頼めるかな? 涼宮さん」
 慎二? 平さんのことね。姉さんと水月先輩と、鳴海さんに平さん。あのときの4人、姉さんがずっと大事にしている、6年前の丘の上の記念写真に写っていた。その平さんまで引っ張り出したってことは……。

「もう、平さんまで引っ張り出した時点で、私が断るなんてこと考えてなかったんでしょ? 鳴海さんの思考パターンなんて先刻承知済みなんですから」
 片目で軽く睨みつけると、バレてたなとばかりに頭を掻いている。
「いいですよ、姉さんのことは私に任せて下さい。……でも、そうですね。一つ条件出しちゃおうかな?」
 何かな? とちょっと困ったような鳴海さんの顔をじっと見つめてから、腰に手を当て少し前かがみ風の上目遣い。多分、鳴海さんも気付いただろう、私がまだ鳴海さんのことを『お兄ちゃん』と呼んでいた、あの時の仕草だ。

「……その『涼宮さん』って呼び方、やめて下さい」
 その呼び方には心の距離を感じてしまう。
 だから………

「……………茜、ちゃん」
 わずかな躊躇いの後、その余りに懐かしい響きが口から紡がれた。

 だから私は、あのときのままにこう返した。
「うん、………お兄ちゃん」

 時計の針があの頃に戻っていく。
 決して後戻りではなく、原点に立ち返るために……

「じゃあ、頼んだよ? 茜ちゃん。ああ、そうだ。これを遙に渡してもらえないかな?」
 包装紙で綺麗にラッピングされた平たい包みを渡された。
「何です? コレ。本……みたいにも見えるけど」
「いや、その……。余計なことかもしれないけど、遙ならこれの意味を分かってくれるんじゃないかってね」

*          *          *

 帰宅した私は、このことをどう切り出そうかと悩んでいた。
 鳴海さんは「だまし討ち」なんてことを言ってたから、恐らくはデートにでもかこつけて水月先輩を連れ出すつもりなんだろう。どういう理由をつけてあの丘まで連れてくるかは別にしても……。
 でも私は姉さんを「だまして」まで連れ出すのはいけないと思った。全て、ありのままを話して、納得してその場に立ち会ってもらえなければ、単に表面的な再会にしか過ぎなくなってしまうのでは、と考えたからだ。

 夕食後のリビング。
 お母さんは片付けもの、お父さんは大学での資料を整えるからと書斎に引きこもった。……まるで私がこれから姉さんに大切な話をするのを、それを二人には聞かれたくないのを察したかのように都合よく……。
「姉さん、ちょっといい? 話があるんだけど……」
「なぁに、茜?」

「……今日ね、私、鳴海さんに会ったんだ」
「……えっ?! あ、茜。今……何て」
 驚きで見開いた両の目が、私の次の言葉を待っていた。
「うん、鳴海さんに……会ったの。あ、でも私からじゃないよ? 練習終わってから外に出たら、そこで待ってたんだから……」
 これは本当のことだから。

「鳴海さんね、姉さんの描いた絵本、読んだって。……水月先輩もそれ読んで、泣いたって言ってた」
「あ…茜。今、『みつき』って……」
「うん、どうしてなんだろうね。あれだけ名前で呼ぶのを嫌ってたのに、鳴海さんと会ったらホント、自分でも信じられないくらい自然に出てきたんだよ」
 本当はいつでもそう呼びたかったんだろうと思う。
 心の中で、勝手に敷居を作っていただけだから……。

「姉さん、これ……鳴海さんから。中身は見てないけど、大体分かる。何が入ってるのか……ね」
 鳴海さんから渡された包みを姉さんに渡す。
 姉さんが静かに包装を解く。……出てきたのは。
「あ……」
『ほんとうのたからもの』
 やっぱり、ね。
 ぱらぱらとページをめくり、そっと閉じる。裏表紙が上になった。

「あ…茜、ここ……ここ見て」
 驚きの声に誘われるように姉さんの隣に座り、裏表紙を覗きこむ。
 子供向けの絵本に良く見る、名前の記入欄が見えた。

『なるみたかゆき』
『はやせみつき』

「姉さん……」
「……………!」
 胸で絵本を抱きしめながら、姉さんは泣いていた。
 そっと前に回り、涙を拭いてあげながら私は、鳴海さんに頼まれた一言を伝えることにした。

「……鳴海さん、姉さんに会いたいって。水月先輩も来るんだって。平さんも来てくれる……。だから、ね? 一緒に行こうよ、姉さん……」

「……うん、ありがとう、茜」


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Atto Fine オコジョのハルと、仲間たちと……

 一度、視線を大きく上げて、高く聳える木の頂点を見つめる。
 そのまま視線を下げ、幹、根元から土の地面を経て、丘の入口に当たる低めの木立に両脇を囲われた小路にその視点を移す。

 私の横には姉さん。
 少し離れたその隣には、今日の計画を手助けしてくれた、平さんがいる。
 鳴海さんは水月先輩を連れ出すためのいわば「ダシ」に平さんを使ったと言ってたけれど、平さんだってあの頃の『仲間』、再会の舞台に上がるべき俳優の一人なのだ。

 風が吹き抜けて行く。
 小路の奥をじっと見つめる。
 やがて人影が姿を見せた。
 二人。
 背の高い一方にその手を引かれつつ、何やら文句らしいことを言ってるようなもう一つの人影。
 それが正面を向き、私たちをその視界に入れた。

 何かにぶつかったかのように、片方の動きが固まる。
 軽い抵抗にもう片方の人影がわずかによろめく。
 その場に立ち止まった側が、繋がれてないもう片方の手を大きく振りながら、抵抗に振り向いた大きな人影に向けて、激しく訴えかけるように口を動かしていた。

 しばらくその様子を見ていた大きい方の人影が、抵抗に止まったその歩みを再び前へと向ける。
 小さな影が、引かれている手にかかる前へ進む力を拒み、大きくかぶりを振りながらその場に崩れるように座りこんだ。

 姉さんの顔を見た。
 同調するように、姉さんもこちらを向き、そして軽く微笑む。
 そして丘の入口で止まってしまった二人の下へ、歩き出す。
 私も続く。
 平さんも片手の指で頬の辺りを掻きながら、私たちの歩みにその歩調を合わせた。

 これが正しい選択なのかは分からない。
 もっと傷を広げてしまうかもしれない。
 でも互いにすれ違ったままで、癒されることのない傷を抱え過ごして行くよりは……

 オコジョのハルはそれに気付いた。
 そしていつまでもその日が来るのを信じて、待っている。

 そして、絵本はそこで終わっている。
 仲間たちは応えてくれるのだろうか?
 応えてくれたのだろうか?
 その続きは、結末は読者にううん、私たちに委ねられている。

 失われた3年間。
 その時間を埋めるように……

 すれ違いを続けた3年間。
 その時間を互いに寄り添わせるように……

 今、この場所で。

 ………もう一度、はじめるために………


〜Fin〜

≪あとがき≫

 いや、本当に文章が書けなくなってきてますね私。メインキャラの聖誕祭でやっとこさってなカンジですからね。
 今回のは個人的に思いいれの強い「水月エンド後」のお話でして、視点が入り乱れてしまった2作目の反省点もふまえ、あのエンド後の世界で公平に物を見れたのは、実は茜ちゃんではなかったか?という発想のもとに書いてみました。
 相変わらず時間に追われていたこともあり、詰めが甘いですが、まあ推敲の余地ありということで……。

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