『SSのお部屋』

Preludio

 その時私は、一歩も動けなかった。
 ぬけがらのように、アスファルトの上に座り込んだ「あの人」を見つめたまま。
 傘にあたる雨の音。
 夏だというのに、それは冷たく……重かった。

 道路の向こうには潰れた、車。
 飴細工のようにねじまがった、街灯とベンチ。
 路面を濡らす雨粒に反射するのは、砕けたフロントガラスの欠片。
 それに混じるのは、赤い色。……哀しみの、そして悲劇の……証。

 一瞬、全ての時が止まった後、私はそこから……逃げ出した。
 その時の私には何も出来ないことを、思い知らされたから……
 何の力にもなれないと、分かってしまったから……

 だから……逃げたの。

 悲しみに沈んでいる人。
 絶望している人。
 希望を失っている人。

 ……そんな人たちのために、『他人』である私ができることって……



ひとのためにできること

Atto:1 日記

 8月28日。
 朝刊の社会面。

『8月27日の午後2時15分頃、柊町駅前ロータリー広場にて走行してきた乗用車が歩道に乗り上げ通行人をはねる事故が発生した。 被害者は近隣の白陵大学付属柊学園高等学校3年生、涼宮遙さん(17)で頭を強く打ち意識不明の重体。乗用車を運転していた会社員、荻野寛(33)も重傷を負った模様。
 現場は見通しの良い駅前の広場で、警察は乗用車のわき見運転が原因と見て、運転手の回復を待って業務上過失致傷の疑いで取り調べを行う方針』

 たった、これだけ。
 片隅の囲みにさえならない、一事故記事。
 昨日の夕方以降のニュースでも、始まってから3つか4つ後の5分ほどの報道。
 あれほどの事故なのに?
 あれほどに悲しみの底に沈んでいる人がいるというのに?
 ……でも、それが現実。
 事故の当事者と、それを伝える「傍観者」との、残酷なまでの……温度差。
 そして、今の私は気持ちの上では前者であっても、立場的には後者に属する一人でしかない。

 だから、今の私にできることは何も……ない。
 そう、悲しいまでに……何も。

 *          *          *

 9月1日。
 今日は2学期の始業式。
 私はどうにも気になったので、親しい先輩を通じて鳴海さんのことを訊いてみた。
 答えは予想通り。……悪い方の。
 鳴海さんは学校に出てきていないそうだ。あの事故のことは、3年生の間でもかなりの噂になっているらしい。 鳴海さんと涼宮さんが付き合いだしたのは夏休み前だそうで、それもあって休みが明けるころには、と話題にもなっていたそうだから、あのような事故。……噂になっていて当然だろう。
 鳴海さんは病院に行ってるかもしれない。
 そう考えた私は、部外者なのを承知の上でその涼宮さんの搬送された病院へ行ってみた。運ばれたのが欅町の総合病院だということは飛び交う噂話の中で自然、耳に入ってきていたから。
 けれども涼宮さんは未だに集中治療室の中。家族でさえ面会に制限がかかる中、傍から見れば完全に部外者の私に面会が許されるはずもなかった。
 でも、嘘も方便とはよく言ったもの。私は「涼宮さんの友人」と偽って、担当をしている女医さんから容態を聞かせてもらうことができた。
 右側頭部を強打したことによる頭蓋の亀裂骨折と、硬膜下の血腫。おそらく跳ね飛ばされ地面に叩き付けられたことによるものだろう、右上腕部の骨折と各部位の打撲と擦過傷。 搬送されてきたとき意識はなかったが、現場が駅前の繁華街で事故後の対応が速かったことと、幸いなことに出血が少なかったのが、重体には違いないが命を取り留めた要因だそうだ。
 冷静に、淡々と話す女医さん(香月モトコ先生という名だそうだ)の言葉を聞きながら、どうしてそんなに平静に話せるんだろう、とも思ったけれど、 考えてみれば涼宮さんの友人と偽っているとは言え、私は家族でも親戚でもない。それに外科の先生にしてみれば、日常茶飯事とまでは言えないにしても、それなりに遭遇する交通事故による外傷患者の一人でしかない。……そういうことなのだろう。
 その話の中で私は、鳴海さんのことについて訊いてみた。……気になっていたから。
 先生は少々困ったような表情をすると、こう言った。
 ……毎日のように来ている、と。

 *          *          *

 9月10日。
 友達や親しい先輩の話を聞く限りでは、あの人は今日も学校に来ていない。
 あの人。
 鳴海…孝之さん。
 いいえ、鳴海先輩って呼ばないと。
 でも、心配ではあったけれど、今の私に出来ることなんて何も、ない。
 そう、私は鳴海先輩のことを知っていたけれど、先輩は私のことを恐らくは知らない、たとえ知っていたとしても単なる下級生の女生徒の一人でしかないだろうから。
 早く元気になって欲しい。
 事情を知らない他人の勝手な期待だけど、そう願いたいの。

 *          *          *

「……そうよね、このときの私は単に下級生の一人。鳴海さんとのつながりなんて何もなかったんだもの。私からは気になる先輩の一人ではあったけどね」
 鳴海さん、鳴海先輩……か。
 日記のページを繰りながら、私はそのころのことを思い浮かべてみた。

 初めて鳴海さんのことを知ったのはいつだったろう? 確か、高校に入学してしばらくした7月のある日のことだったと思う。
 その日、保健委員をしていた私は、校医の先生から昼休みの間、保健室の留守番を頼まれていた。

「……いいかっこしようとしてムリするからだよ、しゃあねえなお前も」
「やかましいやい! いたたたっソコ触んなって」
 何やらにぎやかな話し声と一緒に、二人の男子生徒が保健室に入ってきた。女子と違って制服の色で見分けることが出来ないから、3年生の先輩と気付くのに少し時間がかかったっけ。
 平先輩という、友達だろうか? その人に肩をかつがれるように入ってきたのが鳴海先輩だった。事情は知らないけれど平先輩の物言いと、それに少々バツの悪そうな鳴海先輩の表情から何となく想像はついた。
「あ、じゃあコイツお願いしてもいいかな?」
 私が保健委員で少しばかりの応急処置くらいはできるからと言うと、ぶつぶつ文句を言ってる鳴海先輩一人を残して平先輩はそそくさと保健室を後にしてしまった。

 その後、簡単な処置を済ませると、鳴海先輩も保健室を後にした。
 ……考えてみれば、私と鳴海先輩との関わりってこれくらいのもの。
 だから、不幸な事故だったけど、それがなければ再び鳴海さんのことを気にする機会なんて、なかったのかもしれない。
 そして、その時の私の無力さを知ることさえも……。

 *          *          *

 12月24日
 今日は2学期の終業式。
 鳴海さんは来ていないそうだ。
 話によると結局、2学期中に鳴海さんが学校に姿を見せたのは、ほんの数日に過ぎないそうだ。 3年生はこの時期、ある程度自由登校が認められてるそうだけど、ここまでだと正直卒業にも響くんじゃないのかな?
 だけど、大して面識のない私がそこまで心配するのはお節介を通り越している。
 でもそれなら、私には何もできないの? 何もしてはいけないの?

 *          *          *

 あの頃、私は鳴海さんのことをそれなりに心配していたように思っていたけれど、日記を読み返してみると自分でも驚くくらい、鳴海さんについて書いた内容がないことに気付く。 ……そう、結局その時点では私も「傍観者」の一人でしかなかった、それだけなのだ。
 でも、例えそうではあっても、私の心の中のベクトルを加速させてくれた要因の一つであることに、違いはない。
 そう、あの事故がなければ、あの現場を目の当たりにしていなかったら、もしかすると今の私は存在してなかったかもしれないのだから……。

「まもなく欅町、けやきちょう〜」
 車内アナウンスが私の目的の駅名を告げた。
 静かに日記帳を閉じ、下車の準備をする。
 欅町。
 電車を降りホームに立った私の目に、白い建物が映った。
『欅総合病院』
 目標に向けてその本格的な一歩を踏み出す、場所。

 ……今日から、始まるんだよね。


Atto:2 回想

 私が看護師になりたい、と考え始めたのは小学生の時。
 父を癌で失い、その看病疲れと父の死のショックから、もともと体の弱かった母までも後を追うように病気で亡くした私。
 祖母の家に引き取られることになった私は、そこで優しかった祖母から、幼かったこともあってよく知らなかった父と母についていろいろと聞かせてもらえた。 そして、そんな父と母に献身的に尽くしてくれたであろうお医者さんや看護師さん(そのころはまだ看護婦と呼ばれていたけど)の話を聞くうちに、 自分もそんな「ひとのために尽くせるひと」になりたい、と思うようになっていった。

 祖母の家は柊町にあり、同じ町内には県下有数の進学校である、白陵大学付属柊学園高等学校がある。
 私は看護師になりたいという幼い頃の夢に向けて、自分なりに勉強を重ねてきており、そんな白陵柊にも合格できるくらいの学力は身についていた。
 ただ私自身としては看護の専門学校に進み、一日でも早く看護師の資格を取りたかったのだけど、 看護師になるための本格的な勉強は高卒後でもできる、だから高校は普通科に進みなさい「急がば回れ」ですよ、という祖母の意見から高校は白陵の普通科にしたのだ。
 それでも少しでも将来のためになるかなと、自ら保健委員に志願した私は、鳴海さんのことを知る機会を得た。
 思えばそんな小さな選択が、あの運命的な現場に遭遇するきっかけだったのだ。

 忘れもしない、8月の27日。
 その日橘町で買い物をしてきた帰り、柊町に到着して改札から外に出ると、駅前には黒山のひとだかり。
 ……ねえねえ、スゴい事故だったよね。
 ……あの女の子、助かるのかな?
 ……誰かを待ってたんだよね、きっと。可哀想に。
 え? 交通事故なの?
 ……そう言えばさ、後からきた男の人。何か様子がおかしかったよね。
 ……まさか、あの事故に遭ったのが彼女とか? うわっ、想像したくないよな。

 予感。……いやな方の。
 事故の処理が片付いてきたのか、人だかりが次第に小さくなっていった。
 そしてその中心に、その人はいた。
「……鳴海、先輩?」
 支えを失った人形のように、降り始めた雨に濡れる路面に力なく座り込み、呆然と事故現場を見つめていた。
 そして私は……一歩も動けなかった。
 決して、知らない人ではない。
 その人が悲しんでいる、絶望に沈んでいる。その姿に、駆け寄って声をかけたい、わずかでもいいからその悲しみをやわらげてあげたい。……そう考えていたのに。

 何も出来なかった私は、その場から……逃げ去った。逃げ去ることしか、出来なかった。
 今の私は、何の力にもなれない『無力な人間』なのだ。

 看護師になるための本格的な勉強は高校卒業後でもできる。
 祖母にそう諭され、高校は普通科を選んだ私。
 でも、そんな『無力さ』を思い知らされた私の気持ちは、揺らいでいた。
 ……このままでいいのか、と。

 そして、決定的な転機が訪れる。
 高校2年の冬。
 3年生への進級を目前に控えた2月のある日。
 ……祖母が、亡くなった。
 両親を失った私を引き取り、包み込むような暖かさで育ててくれた、優しい祖母。
 でも高齢であったとは言え、その死因は病気。

 また、大切な人が消えてしまった。
 また、何も出来なかった。
 ……もう、いや。
 これ以上、無力感に苛まれるのなんて……絶対にイヤ。
 こんな気持ちのまま、あと1年を無為に過ごすなんて、出来ない。

 私が白陵柊学園を中退し、看護の専門学校に進もうと決めたのは、この時だった。
 学校での成績は上位ランク。そのままなら白陵大学への推薦も確実だったし、看護系の進学先でも国立の有力大学か短大を十分狙えた私。進路の先生はもちろん猛反対したけど、私の決心は揺るがなかった。
 2月の半ばだったから本当にギリギリのタイミングだったけど、私は港陽短期大学付属の看護専門学校に願書を提出。学力的には全く問題なく合格することができた。
 看護実習先となる病院は何と『欅総合病院』
 そう、鳴海さんが悲しみに沈んだあの事故の被害者、涼宮遙さんが搬送された病院。
 もちろんあの事故からは既に1年半余りが経っているのだから、今、涼宮さんがどうしてるのかなんてことは私は知らない。事故から半年後、そのまま卒業していった鳴海さんのことも同じだ。

 でも私は、何か運命めいたものを感じずには、いられなかった。


Atto:3 今

「え〜と、穂村さん、穂村愛美さんね。私が今日からの実習の指導を担当させてもらう星乃文緒です。それと、こっちのちっこいのが天川蛍。よろしくね」
「もう、ふみおっちぃ、何て紹介のしかたするのよ。……あ、天川蛍です。改めてよろしく」

 港陽短大の看護科はもちろん2年制。そのためか机の上の勉強と現場での看護実習が平行して行われる。医療技術・水準の高度化に比例するように、看護師にも医師と同レベルの看護知識・技術が求められる時代。 ある程度は覚悟していたけれど、実際に学科と実習で埋め尽くされたカリキュラムを見ると、本当に自分にやっていけるのだろうか? と不安になってしまう。

「ふぅ〜……」
 病院実習の初日。午後からの半日だけだったというのに、もうくたくた。
 とは言え、全くの新人である私だから何も出来るはずもなく、先生の回診の後ろに付いて行きながら先輩看護師の星乃さんと天川さんの口から矢継ぎ早に繰り出される、説明というか話を必死にノートに書き留めているだけなんだけど。
 ……ふと見ると、ノートはもう3分の1くらいが埋まっている。たった半日で……? 先が思いやられるわね。

「あらぁ〜、随分とお疲れのようね? まあ、初日から回診のお供なんだからしょうがないんだけどね。でもすぐに慣れるから、安心しなって」
「そ……そういうものですか?」
 申し送りの後、スタッフルームで休んでいた私に星乃さんが声を掛けてきてくれた。
「まあ、この上勉強もあるんだから大変なのは分かるけど、でも看護師になる人はみんな通ってきてる道だからね。私だってそうだったんだから、大丈夫!」
 そう言って私の肩をバシバシと叩く星乃さん。
「そうそう、それに、今時ここまで必死にノート取ってる新人さんって、結構、珍しいんじゃないですか? これだけ熱心なんですから、前途有望ですよ」
 となりに座った天川さんが続いて話し出す。天川さんは、星乃さんがわりと背が高いということもあるけれど、それでもその星乃さんの胸あたりまでしかない小さな体なのに、すごくテキパキとしている。その上頭の回転も速く、看護知識も恐らくは星乃さん以上。……すごいなぁ。
 そんな風に、私の疲れと不安を敏感に察して、優しく気遣ってくれる星乃さんと天川さんの言葉が、本当に嬉しい。こうした他者へのさりげない気遣いができるように、私もいずれはなれるのだろうか?

「あ……あの」
「ん? なにかな」
 私は先ほどの回診中にちょっと気になったことを訊いてみることにした。
「いえ、大したことではないと思うんですけど、今日の回診のとき個室を一つ飛ばされたように思ったんです。確か『今は満床だから大変だよ』という話を聞いてましたし、何より空き部屋は通常、開放されてますよね? それでちょっと気になってしまって……」
「へぇ〜、すっごい! あれだけの状況の中でよくそんなことまで気が付くよね。ふ〜ん、こりゃ確かに前途有望だ……」
「ちょっとちょっと、ふみおっち。質問の答えになってないですよ?」
 阿吽の呼吸と言っていいくらいの絶妙さで入った天川さんのツッコミに、あはは…と頭を掻きながら星乃さんが話しを始める。
「あはは…、ごめん、ごめん。……うん、まあいずれ分かることだし何よりこの病棟で実習する以上、知っておかなければいけないことなんだけどね。その一つ飛ばした病室ね、交通事故で長期入院してる患者さんの部屋なんだ。そうね……う〜ん、もう2年近くになるのかな?」

 え? 交通事故?
 長期入院?
 ……2年近く?
「……ひどい事故でね、柊町の駅前で車に跳ねられて。外傷ももちろんだったけど、それ以上に頭を強く打っていたらしくて、ずーっと意識が戻らないんだって」
 柊町駅前の、事故?
 意識不明?

「それでね、この外科病棟に入院はしてるけれど、私たちが直接担当してるわけじゃないの。その患者さんだけは2年前から、香月先生が付きっきりなんだ」
 え? 香月……先生、香月…モトコ先生? ……私が、涼宮さんの友人と偽って話を聞いた、担当の女医さんの名前。その先生がずっと担当ということは……。
「今でも覚えてるけど、ホント可哀想だよね。高校生の女の子でね、私なんてその頃新人だったものだから半泣きでおろおろしちゃって、香月センセに怒鳴られまくってたっけ……」
 高校生の……女の子!
 まさか……? ううん、間違いない…よね?
「それがあの部屋の患者さん、……涼宮…遙…さん、なんですね」
「そう、涼宮さん……って何で名前知って……ああ、病室の名札見たのね? はぁ、よくそこまで見れるよね〜。私の初日なんてもう……」
「いえ、違うんです。名札を見たわけじゃ……」
「え? どういうこと? もしかして知ってる人、とか? ……あ」
 実は……と言いかけた私だったけど、星乃さんの視線は何故か私の頭の上。
 あれ? と思ったその時……
「な〜るほど、そういうことだったのね〜。どおりで、どっかで聞き覚えのある苗字だと思ってたら、いつだったか涼宮さんの友人だ、と言って私に彼女の容態を訊いてきたあの子だったのね。ほ・む・らさん?」
「わあっ!!」
 香月先生だった。
 それにしてもいきなり背後から声をかけられ、おまけに少々乱暴に頭に手を置かれたものだから、驚いて椅子から少し体が浮いてしまった。 多分、相当びっくりした顔をしていたのだろう、星乃さんと天川さんも肩を小刻みに震わせて笑っていた。……もう。
「……こ、香月先生? あ…あ…あの時は、す…すみませんでした!」
 穴があったら入りたい、とはこういうこと。
「あっはは〜! いいのよ、もうそんな昔のことは。でも、それでわざわざ白陵柊を中退してまでここが実習先になってる港陽短大を?」
「い、いえそういうわけではないんです。それに、涼宮さんが今も意識不明のままだってことも、さっきの話の中で知ったことですし……」

 香月先生も話の輪に加わったことで、私は気になっていたことについていろいろと聞かせてもらえた。
 あの事故の後、自分のことなど顧みず毎日のようにお見舞いに来ていた、鳴海さん。
 だけど事故から1年ほど経ったころ、このままではいけない、と涼宮さんのお父さんと相談の上、もうこれ以上はいいと鳴海さんにお見舞いをやめてもらったそうだ。
 涼宮さんのことを訊くと、先生の顔がふっと曇り何かにすがりたいような遠い視線になる。
 容態はこの2年近く全く変わりないそうで、今後の見通しも全く分からない。
 外傷はもちろん完治していて、身体的には何ら異常は認められない。
 ただ、意識だけが……戻らない。……それだけ。
 これだけ医学が進歩していても所詮はこの程度なのよ。そう話す香月先生の口調は、少しばかり自嘲と諦念を帯びていた。……それでも医者なんだもの、やれることはやらないと。

 やれること……か。
 私にも、できるようになるのかな? ううん、出来るようにならなくちゃ、ね。
 そのためにこの道を、選んだのだから……。

「さ、こんなところでしんみりしていても仕方ないわね。穂村さんは今日はもう上がりかしら?」
「は、はい。基本的に午前中が学校、午後が実習という形ですから。でも明日は土曜日で学校がありませんから、一日こちらでお世話になるかと思います。よろしくお願いします」
 普通、看護師見習いは患者さんの身の回りの世話から入るものらしいけれど、港陽の場合はそうした形だから今日みたいにいきなり午後の回診のお供をさせられる、ということも多いのだろう。
「そう、なら明日は朝からみっちりいけそうね。星乃さん、ビシビシやってあげてね」
「ら〜じゃぁ〜」
 香月先生のあおりを涼しい顔で受け流す星乃さん。天川さんも口に手を当てて笑っている。
 ああ……何だか、目を付けられたって感じなのかしら、私。


Atto Fine ひとのために…

「そう、そうやって肩全体で支えるように。意識のない人ってのは見かけの倍の重さと負荷がかかってくると思っていいわ」

 今日は朝からの病院実習。
 星乃さんに付いてもらって、検温や清拭、シーツ交換などをしている。
 意識がない人。……涼宮さんだ。
 診察(この場合は回診と言うべきかもしれないけれど)は香月先生が専門に受け持っているけど、外科病棟の入院患者さんの一人であることに変わりはないので、こうした身の回りの世話などはもちろん病棟看護師の役割だ。
 星乃さんに言われた通り、意識のない患者さんは見かけ以上に重く感じる。

 初めて入院している涼宮さんを見たとき、本当に意識がないの? と私は疑ってしまった。見た目にはただ眠っているとしか思えないからだ。
 体を起こし、清拭のためにパジャマを脱がすと、とても二十歳の女性とは思えないやせ細った体に思わず身震いする。 点滴による最低限の栄養補給しか受けられないと、人間はこうなってしまうのだろうか?
 でも、その体は暖かい。
 とくんとくん、と規則正しい鼓動が伝わってくる。すう、すうと呼吸する音も聞こえる。
 涼宮さんは確かに『生きている』のだ。
 意識はないけれど、やせ細ってもいるけれど……。

「……意識はもちろんないし、こんなにやせ細っちゃってるけどね。女の子だもんね、せめて毎日キレイにしてあげないと、ね」
 星乃さんの手を借りながら、腕…胸…背中と丁寧に清拭をかける。
「チューブ類に気をつけて、そう、ゆっくりとね」
 点滴のチューブ類はしっかりと固定されてはいるけど、その周囲を拭くときは細心の注意が必要だ。万が一ずれたりでもしたらそれは即、患者さんの容態・生命に直結するからだ。

「は〜い、お疲れ様。じゃあ、次の部屋に行くよ。……ん? どしたの? 早く!」
「……え? あ、すみません。すぐ行きます」
 清拭が終わった涼宮さんの顔に思わず見入っていた私。
 星乃さんにせかされ、あわてて涼宮さんの病室を後にする。
「……ま、気持ちは分からないでもないけどね。でもね、これだけは言っておくわ。一人の患者さんのことしか見えないうちは、絶対に看護師になんてなれないし、なって欲しくもない。 ……厳しい言い方だけど、私たちの仕事ってのはそういうものなの。……いい?」
「……は、はい」
 星乃さんの一言に、私は思わずうなだれてしまっていた。
「……ふふっ、いいのよ、今はまだそれで。一人から二人へ、そしてみんなへ。みんなを見られるようになる頃には、一人を見る目も今よりずっとしっかりしたものになっているはずだから、ね」
「星乃さん……」
「さ、行くよ。今度ぐずぐずしてたら、お尻蹴飛ばしちゃうからね」
 清拭の道具一式を載せたカートを押しながら歩く私に、星乃さんは私もそうだったよ。みんなそうやって一人前になって行くんだから、と励ましてくれた。
「あ、そうそう。さっき言ったこと、ぜぇ〜んぶ香月センセの受け売り。……あはっ」
 照れくさそうにいたずらっぽく笑う、星乃さん。
 その笑顔に、ずっと気張っていた心が、少しだけ軽くなった気がした。

 うん、頑張ろう。
 ひとのためにできることをしたい。
 悲しんでいる人の力になりたい。
 そう思い志した、看護師への道。

 その想いを心に芽生えさせてくれた、父と母。
 芽生えた想いを優しく育んでくれた、祖母。
 想いだけでは何も出来ないと気付かせてくれた、鳴海さんと涼宮さん。

 そんな想いとともに、私は今日も、遠く長い道のりを歩いて行く。


〜Fin〜

≪あとがき≫

 初めてとなる「サブキャラ」物の「君のぞSS」(と言えますよね?一応…)です。
 愛美が題材ということで、期待(笑)された方もひょっとしたらいらっしゃったかもしれませんが、倒錯する前の健全なころ?の愛美です。
 彼女が看護師になったいきさつなどは、原作の設定をもと自分なりの解釈を入れてあります。
 メインキャラが登場しない(遙は一応、出てますが)SSというのも書いてて結構、面白かったのでまた機会があれば書いてみたいですね。

「SSのお部屋」へ戻る