

身体均整協会の全国講習会は、第10回前後の頃は1年に3回ぐらい各地方に持ち回って開催されていた。1回の講習会は3日間行われ、講師は亀井師範が連続して理論と実技の指導に奮闘されていた。
協会では亀井師範の講義の始終を録音テープに収めて、その概略をテキストにしたのが以後29号に及ぶ均整講座集となったのである。協会発行の講座集は会員必携の教科書となって、私も講座集を頼りに臨床に当たっていたのであるが、難問にぶつかって録音テープを聞いてみると、講座集から洩れた亀井師範の言葉が随分あることを知った。
講義の録音は個人でも収録することが許可されていたので、後年土井先生からそれを譲渡してもらったテープを根本から聞き直して、自分用の研究ノートを作ろうと思い立ったのが「野村均整ノート」として積み上げられていったわけである。
亀井師範の話される言葉をそのまま文字にしては読み辛いものになる。講義された言葉は一応そのままノートに書き取って、それから分かり易い文章に仕立てるのが次ぎの作業になる。枝や葉を切り取って格好の良い文章に仕上げるときは生け花をする心持ちである。
手を使ってやる手技治療は言葉だけでは良く理解できない。そこにイラストを添えて説明すると一層会得が容易になる。そのイラストを描くというのが絵心の乏しい私にはあたかも身を削る思いがしたものである。
「野村ノート」のはじめは「眼・耳・鼻・口」のように講座集の中から項目別にまとめたものだった。或いは「療術臨床必携」のように埋没寸前の貴重な古典を挿絵や用語を一新して再び陽の目に当てたものもある。
多くは録音テープによって根本から掘り起こして、亀井師範の口癖や松山訛りも取り入れて今日まで「野村ノート」を進めてきた。亀井師範の講義は昭和49年5月、第44回全国講習会までで終わっている。講座集の第29号までを全部とすると「野村ノート」は前半分まで来ている。思えば日すでに暮れて道なお遠しの感である。

「野村均整ノート」がここまで積み上げられてきた成り立ちの中には均整師会の元役員:天内 登さんのことを忘れてはならない。
天内さんは「野村ノート」がまだ手書きで作成されていた頃、東京から西の果ての佐賀県まで訪ねてきた。均整法の資料を新しく編集し直している者がどんな顔をしているのかという心持ちだったかもしれない。お互いに心の響き合うのを感じて、それから20年に垂んとする交遊の中で、天内さんに対しては一点の不信も不満も感じたことがない。
ともすれば易きに就こうとする私を、折に触れてはお尻を叩くようにして筆を進めさせ、出来上がった均整資料を各方面に推薦してくれて、「野村ノート」を全国に広めてくれたのは天内さんの功に負うところが多いと思っている。


考えてみれば「野村ノート」は私一人で作ったわけではないのである。まず第一には亀井先生が均整法を説いてくれた。土井先生がテープを残して手に手を取って教えてくれた。それから矢野暉雄先生、黒川瀧雄先生、加藤春樹先生から再三にわたって貴重な資料とともに書簡をいただいた。その他各地方に均整法研究の中核になって活動されている人々からお賞めの言葉や励ましを頂いて、幾たび均整資料の作成に生甲斐を感じたことか、神に祈るような気持ちで感謝している次第である。