Keith Jarrett
ARTIST Keith Jarrett
TITLE Köln Concert
LABEL / AGE ECM / 1975
Introduction

 Part T
 思い入れは、ある。もっと正確に言うと、条件反射ってヤツである。CDを再生して聴こえてくる、最初の5つの音によるフレイズ。もう、これである。 いつ聴いても、ここのイントロだけで僕は引きずり込まれる。そして、陶酔感に浸る。ピアノという楽器、キースジャレットという音楽家。ある日の、ソロコンサートの記録。 断片、である。限りなく美しい世界が、そこにある。


 Part Ua
 「キースジャレット = ソロピアノコンサート = ケルンコンサート」、という図式は、確かに存在し、キースといえばケルンコンサートって思われる方も多い。 実際このアルバムが一番売れている。そして、初めて聴いた人は、この演奏が全くの即興演奏であることに驚き、ピアノに触れたことがある方は、その表現力の豊かさに感嘆する。

 即興演奏というのは、その日その場所その瞬間で表現される音の連続体である。 同じ演奏をもう一度演ろうとしても、それは不可能であるし、それを望むこと自体が見当違いである。 ピアノを弾かれる方は経験があると思うが、何も考えないでピアノの前に座り、「自分」の音楽を奏でてみる。 それはその瞬間の自分の音楽であって、次の日に同じように弾いても、絶対に同じ音楽にはならないはずだ。 これを何度も演っていると気付くと思われるのだが、ある時は自分の演奏とは思えないようないいフレイズが思い浮かぶこともあれば、全然音楽にならない時もある。 つまり、即興演奏の出来不出来は、演奏する人のその時の体調とか、精神状態とかに強く依存するってことである。もちろん、即興演奏に限らず言えることなんであるが。即興の場合、その依存度は、譜面を見ながら演奏する場合に比べて強いと思われる。


 では、この名アルバム「ケルン・コンサート」でのキースジャレットは、どのような状況でこのコンサートに臨んだのだろうか。以下に、それを紹介していこう。



 Part Ub
 以下の文で、『・・・』で囲まれたものは、『キース・ジャレット 人と音楽』 【イアン・カー 著 : 蓑田洋子 訳 : 出版 音楽之友社】からの引用である。また『・・・・』は本文、キースの言葉は『・・・・』としてある。 

 
『ジャレットの最も親しまれている2枚組LP、1975年1月24日に録音された『ケルン・コンサート』にも、また信じられないような経緯が隠されている。あるソロ・ツアーの途中の出来事であった。またもや、マンフレート・アイヒャー(注1)がジャレットを乗せて車を運転していた。彼らは前日の晩はローザンヌにいたのだが、ジャレットに言わせるとまったく眠っていなかったということである。彼らは、ローザンヌからケルンまでの長い道程を車で行くために、コンサート当日の朝、非常に朝早い時間に起きなければならなかった。アイヒャーもジャレットもすっかり疲れきっていた。』
 (注1:キースのCDの発売元であるECMのプロデューサー)

 
『会場ではピアノ以外はすべてが準備万端整っていた。ピアノはスタインウェイにいいのはないということであったが、ベーゼンドルファーなら市内に2台使えるのがあり、そのうちの1台はきわめていいということであった。運搬チームが悪いほうのピアノを運び込んでいたが、(中略)ジャレットは、そのピアノを運び出して、かわりに良いほうのピアノを持ってきて欲しいと頼んだが、運搬用のトラックはすでに返されたあとであった。(中略)そのコンサートを録音することは、すでに以前から決まっており、そのピアノ事件が生じたときには、レコーディング・エンジニアたちはすでに機材の据え付けにかかっていた。』

 
『ジャレットは、それから、ホテルに戻って仮眠を取ろうとしたが、うまく眠ることができず、いっそう気分が悪くなった。それから、アイヒャーと食事に出かけたが、ジャレットによると、
  
『それまで出くわしたこともないほど暑いイタリアン・レストランで、(中略)あんまりおいしくもない料理を、その灼熱地獄のようなレストランで急いでかき込んだ。おまけに24時間、眠っていなかった。(中略)ぼくはステージに出て行ったときのことを覚えている。そしてこれがおそらく重要な点なのだが、ぼくは「本当に」眠りかけていた。腰をおろすだけでよかった。ぼくは、「本当に」寝てしまわないまでも、うとうとし始め、意識がぼんやりし始めた。(中略)ついに、演奏しにステージに出なければならなくなったときには、ほっとした。というのは、もう、この状態がやっと終りになったからだ。つまりこういうことだ。ぼくはもう、ピアノの前に行って演奏するんだ。ほかのことなんか、もうどうにでもなれ!』 

 そう、ピアノは、いつものスタインウェイではないのである。しかも、丸一日まともに眠っていないというコンディション。ジャケットの写真をもう一度見て頂きたい。もし、鍵盤に指がかかっていなかったら、キースはそのまま眠ってしまっていたかもしれないのだ。まさしく『信じられない経緯』である。そして、その演奏がどのようなものだったか、それは、僕よりもはるかに雄弁な著者とキース本人の言葉を聞いてもらおう。

 
『 『ケルンコンサート』はジャレットの芸術的感性がいかに繊細なものであるかということを示している。彼は本当に良いピアノなら備えているはずの音の可能性を奪われ、バー・ルームのピアノのいくらかましなのみたいな音がするピアノでなんとかまにあわせなければならなかった・・・・・中音域と低音域はまずまずだが、高音域はしばしば安っぽい音がした。それでジャレットは、きわめて長い時間、ピアノの中音域だけで演奏し、多くの反復するリズムを演奏しようと努めている。というのはそのようなリズムが「語りかけ」、最もいい響きで鳴るのは中低音域であるからである。ソノリティはリズムのためにいくぶん犠牲にされている。この厳しい制約の中で、いつもの神の恩寵を授かった状態に、つまり、霊感が満たされた状態に到達するのである。(中略)このような厳しい条件の中にありながら、ジャレットは聴く者を夢うつつにするような、まったくそれ自身の独自性を持つ、美しい音楽を創造している。』

 
『そのアルバムがそれほど人気があるのはなぜだと思うかと尋ねられたジャレットは次のように答えた。
   
『その理由は、あるロジックがあるからだと思う。(中略)あれは自由に鳴っているように聞えるが、また、一つの考えから別の考えへと、切れ目なく、飛躍することなく動いているようにも聞こえる。しかし、リアリティはきわめてスムーズな確固たる思考の流れというよりも、一連の飛躍なのだ・・・・ぼくはあのアルバムは本当に豊かな着想に満ちていると思うが、実際にぼくが表現したいと思うほど、「プロセス」を表現しているものではない・・・・他のライヴ・ソロ・レコーディングにくらべるとプロセスの表現はずっと少ない。』 

 
『 『ザ・ケルン・コンサート』は他のアルバムに見られるような、畏敬の念を呼び起こすような華々しさはないが、実に素晴らしいぬくもりと親しみがある。穏やかなアルバムで、ジャレットの最もすぐれたいくつかのソロ・アルバムにある、浮き立たせ、かき乱すような苦闘や緊迫感はまったく感じられない』


 Part Uc
 キースのソロピアノコンサートのアルバムを何枚も聴いている方ならおわかりだと思うが、基本的にその演奏は一度聴いただけでは難解な作品が多い。音楽的に高い評価を受けた「ローザンヌ・ブレーメン」のソロアルバムでさえ、そう思われる。
 つまり、この「ケルン・コンサート」は、キースが別の意味で心身ともに極限状態であり、それを自らが「癒す」作業の結果として形成されたひとつの「ロジック」だったのではなかろうか。とはいえ、その演奏から生まれ出でた音楽は、数々の魅力的な美しい「shape」を持って我々を陶酔させてくれる。
 最近パナソニックのCMでこのアルバムの「shape」を聴くことができる。でも、全部聴いてみてほしい。CDを買いに行ったら、とりあえず探してみてもらいたい。僕は、このアルバムを決して「癒し系」の音楽とは思わない。でも、そういう先入観でもって、このアルバムを聴く人が増えるのであれば、それでもいい。実際、僕もこのアルバムを何人かに紹介しているが、皆に気に入ってもらっている。そして、長々と引用してきた文章の意味は、このアルバムを愛聴している方には、ちょっとした驚きを持って、その美しい音楽と共に理解されていくと思う。

 ピアノ−即興−キースジャレット。
 50年間ピアノと対峙するキースジャレットが、ある日に行ったひとつの演奏。
 「ザ・ケルン・コンサート」。
 それは、本当に、ほんの一つの断片である。でもそれは、永遠の演奏の記録である。

                                   (最後まで読んでくれた方に感謝します。 2000/1/8)