桃李成蹊




 天気よし、景色よし、懐具合よし。

 久々に休暇をとった浄正は、江戸を離れてひとりぶらぶらと京の都へやってきていた。ぶらぶらといっても遠距離移動に慣れている現役隠密衆御頭の足。徒歩でも移動距離は常人の数倍に及ぶ。

「つーかさ。御頭様が様子見に来てやったぞー」
「様子見ではなくただ遊びにいらしたのでしょう」
「うわめっちゃ冷たっ」
 煙狼隊隊長の本条司が滞在している屋敷へ勝手に上がりこむと、「お疲れ様です」だのというねぎらいの言葉はなく、いきなり冷ややかな無表情が出迎えた。

「さっきぶらっと見てきた感じじゃ、だいぶ治安はよくなってきてるみたいだな」
「昼夜問わず、隊士が見回り兼取り締まりをしていますから。しかし幕府に逆らおうとするとどういう目にあうかを叩き込むにはもう少し時間が必要です」

 確かに今司を筆頭とする隠密衆の隊士がここから江戸へ戻ったらまた反乱分子は活動を始めるだろう。毎度のことだが、どんな任務でも司は涼しい顔でこなしてしまう。どうせならばこんな優秀な息子が欲しかったと浄正が思うこと数知れず。しかし鳶から鷹は生まれない。

 ねぎらいの言葉はない、しかし丁寧な動作で茶を用意してくれている司の横顔を何の気はなしに見ていた浄正は、江戸を発つ前の司と目の前にいる司に僅かな差異を感じて首を傾げた。

「お前、表情が柔らかくなったな。何かあったのか?」

 仏頂面は相変わらず。だがしかし、以前ほどとっつきづらい雰囲気がなくなったとでもいおうか。

「いえ、別に何もありません」

 そう答えた時の司には、全く微塵も動揺した様子は見られなかった。動きも声音も落ち着いたまま。しかし浄正は自分の直感には自信がある。何せこういった対人関係で直感が外れたことは今まで一度もないのだ。

「どうぞ。抹茶はお嫌いでしょうから、普通の緑茶です」
「ま、いいことなら構わんけど」
 隠密衆の任務に関係ないことなら、司は絶対口を割らないだろう。差し出された茶をズズズと啜りながら、煙狼隊隊士に聞いてみるかと思案する。しかし彼ほどの男を揺るがしたとなると、物や金ではないことは確かだ。

 どんな方向であれ、人を変えるのも、また人である。

 この地で惚れた女でもできたのだろうか。いやしかし、やんわりとした言葉遣いで嫌味たらたらな傾向にある京女が司の好みの範囲に入るとは到底思えない。
「俺はここの空き部屋借りて勝手に遊び歩くから。あんま夜帰ってこないと思うけどよろしくな。久々に祇園で遊び倒してくるわー」


 荷物を置きに部屋へと去っていった浄正の背を見つめた司は、僅かに溜息を漏らした。

「………祇園、か…」

 浄正がやってくると知って、まず最初に司が抱いた感情は、負の色だった。浄正が前に京へ遊びに行ったのは三年ほど前だという。となれば、最近台頭してきた新米遊女のことは噂でしか知らないだろう。
(御頭なら間違いなく、気にいるだろう)
 浄正の好む女は、すらりとした体型で頭がよく口も達者な気丈美女。性欲の捌け口にするだけならばある程度の見た目をしているだけでよく、その程度の女は一夜で終り。だが、まれに好みに一致する美女を見つけると落とすまでとことん通うというから、その執念たるや天晴れだ。
 今の祇園には、その要素を十分過ぎるほどに満たした遊女がひとりだけいる。それを目の肥えた浄正が見逃すわけもない。
(俺のものじゃないんだからお門違いだが、やはりいい気はしないな…)
 もう一度溜息をついて、やや冷めてしまった茶を啜った。