颯 焔

一.

 淡い青が、うっすら朱を帯びていく。
 
 紫へ  藍へ 
  
 そして 青を帯びた漆黒へ。

 漆黒は、ふたたびまばゆい光と共に淡い青へ。

 変わらぬ、巡り。


 花見客でにぎわう、隅田川のほとり。見上げても薄紅色の桜が覆い尽くし、空はほとんど見えない。それでもかすかな隙間から見え隠れする薄青は、薄紅と調和して穏やかな彩りとなって見るものの心を潤してくれる。
 何もかもを多い尽くし、陽光を弾き銀白にきらめく雪景色もいい。それでもやはり、春の景色の柔らかさの方が好きだ。
 ゆっくりと歩いていると、瞬く間に日が傾いて夕暮れがやってくる。
 あまり色の主張のない昼の空に比べ、夕暮れの空は僅かな時とはいえ朱色の光ですべてを染める。まるで朱でいられるその短い時間に、己の存在を主張するかのように。
 
 視界の先に、反り橋が見える。色は朱赤。夕暮れでもひときわ鮮やかな朱赤は、光を反射しているわけではない。もとよりの、朱塗りの反り橋。

 橋には程遠い今の位置で、隆は歩を止めた。

「…………」

 空も橋も桜も、何も変わっていない。残酷なほどに、美しいままで。
 美しい季節だからこそ、時に残酷さを際立たせる。

 自分はそれをこの場所で、骨の髄…否、魂の核にまで思い知らされた。

             ◆ ◆ ◆

 江戸城下一の大店として名の知れた呉服屋、瑠璃屋。もとは京で開業した老舗であったが、江戸幕府開幕時に徳川家御用達として任命され、それを機に江戸へ移転してきた。とはいうもののいまだ京にも多くの職人とつながりを残し、それゆえ江戸・京どちらの個性も取り入れられる反物と仕上がりで常に高い評価を得る店だ。
 瑠璃屋が長い間大店でいられる理由は良質な商品だけではなく、それを扱う人柄もあった。創始者から今に至るまで、旦那を務める寒河江家当主は商才豊かでありながら奢ることなく、朗らかな仕種と話術で客を微笑ませる。
 決してこびへつらうようなことはせず、あくまで凛と、穏やかに。

 隆が店先で空になった箱を片付けていると、コロン、と下駄を転がす音が背後から聞こえた。男物の無骨な下駄ではない、女物の丸みを帯びた音。

「ねぇ、お兄ちゃん」

 振り向く前に、低い位置から声が聞こえる。

「何だい?ほのか」

 呼ばれずとも誰かはわかっていたが、振り向くと淡い桃色の着物を纏った妹――ほのかがちょこんと立っていた。
 隆は寒河江家の長男だったが、三歳上に姉、七歳下に妹がいる。両親は商いに忙しく、ほとんど一番下のほのかの面倒はみられないのが現実。ほのかが生まれた頃から、姉と兄が親同然のように接し、教育してきた。姉が礼儀作法や家事を、兄が勉学を。遊び相手になるような歳の近い子供は近所にあまりおらず、ほのかにとって遊んでくれる唯一の相手は兄である隆だけだった。

「お仕事が終わってからでいいの。お花見に…連れて行って」
 
 ほのかは、滅多に自分から要望は言わない。そんなほのかが遠慮がちにでも言い出してくる時は、相当それに対する要望が強い時だ。
 
 いわゆる大人から見ればとても“いい子”、で。
 甘えたいだろうに、もっと幼い頃から一度も駄々をこねることがなかった。姉の厳しい指導にも黙って応え、習得していく。隆が教える勉学も、じっと耳を傾けて嫌な顔ひとつ見せない。
 ほのかは、家に居るとほとんど笑わない。
 それに気づいたのは、おそらく自分だけ。隆はそれが不憫でならなかった。せめて自分の手が空く時くらいはほのかを外へ連れ出して遊んでやろうと常々気に留めている。
 一緒に手を繋いで、色んなものを見せて、時には美味しい和菓子を茶屋でほおばって。そうするうちに硬い表情が次第に解れ、まばゆいばかりの笑顔を見せてくれる。
 
「いいよ。でも今は無理だから、夕暮れくらいにね。終わったらちゃんと呼びに行くから待ってるんだよ?」
「うん」

 遠慮がちだったほのかの顔が、ぱっと輝いた。こんな子供が何をいうにも遠慮するなんて、あってはならないことだろうに――。 

 十七歳の隆にとって、小さくとも大事な大事な、宝物。
 ほのか。

 この先、ほのかが成長したらどうなるのだろうか。外見は、兄の贔屓目を抜いても相当の美少女だから、もう十年もしたらとびきりの美女になる筈だ。その頃には、二月前に他家へ嫁した姉と同じような道をたどるのだろうか。姉の結婚した相手は幼馴染で、昔から恋仲だった。だから姉はとても嬉しそうに白無垢を纏い、最高に輝く笑顔で花嫁となれたのだ。
 良家と婚姻を結ぶのが良しとされてはいるが、そうであるべき必要はどこにもないと思う。
 ほのかが望まないのならば、隆は婚姻など断固反対するつもりだ。何か別の道を歩みたいと言うのなら、それを出来る限り支えたい。

 親が、世間が反対しようとも、自分だけは妹の望みを――幸せを守る。

 その覚悟をそっと抱き、ほのかが話す言葉、しぐさ、全てを見つめてきた。どんな僅かな訴えをも見逃さないように。
 嬉しそうに家へ戻っていったほのかの後姿を見て、隆は微笑んだ。