ある日の重箱




 ゆらゆらと心地よく揺れる意識の中に、鳥のさえずりが混ざってきた。

 ああ、夜明けか。

 すぐ沈み込もうとする意識が、ふと引き上げられたのは遠慮がちに動いた枕のせい。
 普通の枕が勝手に逃げ出すわけもない。俺が枕にしていたのは隣で寝ていた、玄武の腕だ。

 目をうっすら開ければ枕は既に普通のものに挿し代えられて、腕枕の持ち主である玄武は少し離れたところで着物を羽織っている最中だった。
 そうしている間もほとんど音がしない。わずかな衣擦れの音だけしかしないのは、寝ている俺を気遣ってくれてるんだろう。
 
「……も、起きんの…?」
 ねぼけまなこで障子を見ても、まだ外は薄暗い。
 もうちょっと寝てればいいのに。
 というか、俺がもうちょっと玄武にくっついていたいのに。

 声をかけると玄武は振り向き、こっちへ戻ってきた。

「まだ早い、紅耀はまだ寝ていろ」

 くよう。クヨウ。紅耀。

 ああそうだ、それが俺の名前。
 玄武しか呼ばない、俺の本当の名前。
 俺が知っている誰のものよりも、低く優しい響きのある玄武の声で呼ばれるのがとても幸せだ。

「おやすみ」

 頭をそっと撫でてくれる優しさに再び目を閉じて、俺は眠りの波にゆったりと身を任せた。



 夢を見た。

 玄武に抱かれている―――なんだか随分生々しい夢。

 あれ、なんだろう。

 昨夜は久々に玄武が抱いてくれて、そんで心地よく眠りに就いたのに、なんで翌朝にこんな夢を見るんだ?

 俺はまだ足りないってのか?いや、いくらなんでもそんなはずは―――。


   ……ぴちゃっ

「ん…」

 あまりにはっきりした音と、体に走った刺激と脳内ではなく耳に聞こえた自分の声。

 ―――はい?

 ちょっと待て。これは夢じゃない。

 ようやく脳がそう認識した瞬間、また胸元に刺激が走って身をよじった。同時に、完全に意識が覚醒する。何事かと仰向けで寝ている自分の胸元に目線をやれば、そこには朝日を浴びて憎たらしいほどキラキラ輝く金髪頭。
 俺の上にのしかかるような性格の金髪頭といえば、ひとりしかいない。

「……―――!! エル!!てめぇ何して…!」
 どかすべくエルの頭を掴んだ瞬間、俺は違うところを掴まれて不本意にも息を呑んだ。
 どうやら俺のそこは意識より先に起こされていたようで、まるでエルを押しのけるだけの力が腕に入らない。
「ここもそこも、相当玄武に吸われたんだろ。熟れたチェリーみたいに超やらしい色になってる」
 俺がろくに抵抗できないのをいいことに、エルは足を掴んで思い切り開かせやがった。その動きにすら腰に鈍痛が走る。ただでさえ玄武に抱かれた翌朝は体のあちこちが痛くて基本的に思うように動かないってのに。

「痕残りまくりのエロい身体で、無防備に寝てる朱雀が悪い」

 堂々と俺の両足を担ぎ上げたエルが、にたりと凶悪な顔で哂う。

 
 ―――ああもう。安心して寝てたのに、なんでこんな目に遭わなきゃなんねえんだ。


  
「……」

 朝風呂に入っていると、やっと混乱していた意識が正常に戻ってきた。
 柑橘系の香りがする湯に、顎まで浸かって―――ちょっと反省する。

 結局、寝起きだというのに容赦なく襲われていた俺を助けてくれたのは飯だと呼びにやってきた玄武だった。
 昨夜からの全身疲労も相まって弱っていた俺は、エルのいいように食い散らかされていたことだろう。正直、途中から意識が朦朧としていて何をされているのかさえはっきり認識できていなかった。自分が泣いていることに気付いたのは、玄武に目元を拭われた時。


「……殴っちまった…」

 そりゃ、寝込みを襲ってきたエルがどう考えても一番悪い。悪いのだ。でも、確かに同じ屋根の下にあのエルがいることを考えず、素っ裸で寝こけていた俺も悪かったかもしれない。それを見てたお盛んな年頃のあいつが我慢できず襲い掛かってきた、というわけで。

 玄武が助けてくれた直後、俺は全身の痛みから激昂してエルの顔を殴ってしまった。
 度を過ぎた悪戯をされたとはいえ、たかが十九歳の人間の子供に、人間が地上を歩き始める前から生きているカミサマである俺が激昂。

 自己嫌悪。大人げなくて情けない。

 玄武は殴られたエルに「自業自得だ」と言いながら氷袋を差し出していたが、エル自身は俺に殴られたことに随分驚いたようで―――呆然として何も言葉を発さなかった。
 玄武の機転か、とりあえず風呂に入ってこいと背中を押されて俺は今に至る。

 口まで湯に沈んで息を水中で吐くと、ぶくぶくと泡が上ってくる。

(……謝ろう)

 こんなに悶々と後悔するくらいならさっさと謝ってしまおう。
 玄武に言えばお人よしだと呆れるかもしれないが、やっぱりこのままでいるのは自分的に気分が悪い。


 だが、俺が居間に入ると、もうエルの姿はなかった。

「え、もう仕事行っちまったのか?」
「ついさっきな。いつもと同じ時刻だぞ」

 しまった。そういえばもうエルが出勤する時間は過ぎている。

 エルの様子を聞くと、別段変わった様子はなかったという即答が返ってきた。
 玄武は相手の表情やしぐさを見て感情を読み取ることに長けている。そのこいつが言うなら本当にいつもどおりだったんだろう。
「殴ったことを気にする必要はない」
「え……」
「全面的にエルが悪いうえ、奴の精神強度は悪魔級だからな」
 言えばお人よしだと呆れるかもしれないどころか――まだ何も喋っていないのに、すっかり見透かされている。 
「大体、お前が本気で殴れば人間は即死だろう。骨に損傷が出ない程度まで咄嗟に手加減しただけでも釣りが出る」
「そりゃ、そうなんだけどさ」

 並べられた朝餉はいつもどおりとても美味しいのに、俺の箸はあまり進まない。

「それにお前が殴らなければ、俺が殴った」
「…………そうなの?」
「本気でお前が拒絶しているかどうかくらい、俺には分かる。だがそれがエルには分からんのだろうな」
 今頃気付いた。玄武、珍しく怒ってる。そういえば、エルを俺から引き剥がした時、かなり問答無用かつ手荒だった。あれはそのせいか。

 となると俺が先に殴っておいて正解と言えば正解だったのかも。
 
「でもやっぱ、すっきりしねえや。あのさ、昼前に台所借りていい?」
「甘やかしも極まれり」
「…異論ありません」