おもかげ


盛夏のある夜。
憧れていたあるひとが、還らぬひととなってしまった。
広い背中と深い海のような眼差しと、無限とも思える許容量の器。
見た目でも腕前でもなく、存在そのものに憧れた。
「あんなふうになれたら」
何回そう思っただろう。
何かいきづまると、さりげなく背中を押してくれた。

憧れて、大好きだった。

そう思っていたのは、きっと僕だけじゃなかったはずだ。




 衛明館から離れた所にある、ひっそりとした墓所。僕がここを訪れるのは初めてだった。墓所だというのに、綺麗な場所。
 あのひとの墓はどこだろう。新しい墓を見渡して探すと、ちょうど中央あたりの黒曜石の墓石に目が留まる。
 黒曜石、というだけで、すぐにあのひとの墓だろうと思う。
 ちょうど、そんな雰囲気のひとだったから。
 墓石に刻まれている文字を見ると、やっぱりそう。
 お線香と菖蒲の花束と、愛用していた刀が添えてある。
 と。
 柄に螺鈿細工のされている刀の上に、まばゆく光るものがそっと重ねられている。
「…これって……」
 思わず独り言をいってしまうほど、驚きだった。
 きらきら光る、銀糸の束。そっと触れてみると、するりとした滑らかな手触りだった。
 この銀色が、ここにあるのが意外だった。
 持ち主が、ここに供えたんだろうか。もっとも、それ以外考えられないけど。
 自分の手であのひとの心臓を貫き、憐憫のかけらも見せなかった綺麗な女性。
 別にあの女性を恨んではいないけど、何を考えているのか分からないひとだと思う。
 人見知りしない僕だけど、うまくやっていけるかちょっと自信がない。



「下谷。ちょっといいか?」
 部屋に戻って洗濯からもどってきた着物類を箪笥にしまい終えたとこで、開け放ってある襖から声をかけられる。
 振り向くと、銀髪の美青年――もとい、美女が立っていた。ふっくらとした胸元と華奢な体躯なのに、どうも髪が短くなったせいか中性的に見えてしまう。
「貴嶺様。どうぞ」
 座布団を出そうとすると、いらない、と一言返事で拒否されてしまった。畳にあぐらをかいて座る挙動がものすごく似合う。
「着物を一着貸してくれないか?数持ってこなかったから、これを洗濯にだすと替えがないんだ」
 なんだか、とても意外なことを言われたような。
「僕の着物でいいんですか?」
「ああ。というか、他に借りれそうな相手がいない」
 納得した。なるほど、身体つきで判断したんだろう。確かに僕以外に体格が近い隊士はいない。たとえ身長が同じくらいでも、身幅が彼女とはちがう。
「じゃあ、貴嶺様に似合いそうなの探しますね」
 とはいったものの、けっこう難しい。僕の着物は淡い色がほとんどだ。でも彼女は誰がどう見たって似合うのは黒寄りの色。
 探しながら、普通逆だよなあ…、とちょっと虚しくなる。
 ちらっと彼女を見てみると、縁台に置いてある金魚鉢の前に座って眺めていた。
 細い鼻筋に、銀髪がすこし掛かっている。
 ほんとに、綺麗なひとだと思った。少し気を抜くと見つめて放心しそうになってしまう。
 あわてて着物探しに戻り、箪笥を漁っていくと、一度しか袖を通していなかった一着を見つけた。
 青磁色をした、綸子地の無地の着物。
 確かこっくりとした質の布地が気にいって仕立てたものの、どうも僕には似合わない気がして一度しか着ていない。しかも、ちゃんと採寸してもらったはずなのに、袖がかなり長かった。
 合わせた帯は確か濃い灰色に白銀色の唐草模様が少しだけ入った……ああ、これだっけ。
 彼女なら、似合うんじゃないかと思った。
「貴嶺様。こういうのはどうですか?」
 くるりと、無表情な美貌がこちらを振り向いた。
「それ、高かっただろう。借りていいのか?」
 そういえば、彼女はもと上級遊女だ。将軍家の姫君顔負けの最高級の着物を着ているはず。今きている着物も、一目でそうとうな値段のするものだろうと分かる。
 ええ、と答えてから、彼女の肩に着物をかけてみる。
 ああ、やっぱり。
「凄い、お似合いですよ」
 僕が着たときとはまるで別の着物のように見えた。冷徹優美、とでも言えばいいんだろうか。隙のない彼女に、とてもしっくり合っている。
 きちんと袖を通して帯を締めて着たら、もうこの着物は彼女以外に着られたくないと言ってるようにすら見えた。
 僕では余ってしまっていた袖も、ちょうどいいらしい。脚だけじゃなく、腕も長いなんて羨ましい限りだった。
「ちょうどいいな。ありがとう」
「僕には似合わなかったんです。差し上げますよ」
 そろいの羽織をばさりと羽織る仕草が、綺麗で……格好いい。
「これから着物を仕立てに行こうと思うんだが、この近くでお薦めという店はあるか?」
 僕はお薦めの呉服屋といわれたら即座に返事がでる。
「瑠璃屋、っていう呉服屋さんがお薦めです。殿下のご実家なんですけど」
「寒河江殿のご実家は呉服屋か。どうりでいい着物を着てると思ったよ」
 そういえば数日前、殿下がぽつりと『綺麗なひとだねぇ。うちの着物を着て欲しいなあ』と言っていたのを思い出した。
 今日は朝から殿下は実家に戻っているから、今行けばいるだろう。
「歩いていける距離か?」
「ええ。宜しければご案内しますよ」
 うまく道を説明できそうにないので、一緒に行ったほうがいいんじゃないかと思ってのことだった。