花 狩



 とくん。

 とくん。


「…………」

 自分の心臓の動く音がこんなによく聞こえるのは初めてかもしれない。

 一度動くごとに手足から痛みが走り、力が奪われていく。


 うっすら目を開けても、暗い森と無機質な檻があるだけで。

 手足から奪われていく力。そしてこの重く淀んだ空気を吸うたびに喉が痛くなり、今は息苦しくて声がまともに出なくなっていた。

 
 早く、帰りたい。

 こんな暗いところは嫌だ。早く明るいあの家に帰りたい。

「……ッ…」

 少し足を動かしたら、両膝下に絡みついた茨の棘が深く刺さった―――いや、茨の方からきつく巻きついてきた。逃がすものかといわんばかりに、蠢いて棘をめり込ませてくる。
 足の茨を緩めようと腕を動かしたら、今度は手首の茨が同様に俺の動きを戒めた。

「あぁ、起きたんだ、カミサマ」

 鈍くなった聴覚に、少年の声が届いてくる。人間ならばせいぜい13・14歳、多分白虎と同じくらいの歳だろう。ただし見た目からして人間でも神族でもない。造形は人間に近いが、見るからに色が禍々しい―――悪魔そのもの。
 それもそのはず、こいつはエルの配下の悪魔のひとり。名前は名乗ったが覚えてない。
「少し動くだけでもそいつ食いついてくるから。しっかしあんた、神力までほんと綺麗なんだなあ。ほら、これ見える?」
 檻の外から、悪魔が何かを差し入れてきた。大輪の赤い花……見た目は牡丹に近いが、何故か金色にうっすら輝いている。細かい金粉でもまぶしたみたいだ。
「こいつがあんたの血と力を吸い取って咲かせた花だよ。餌によって花の形や色が変わる品種でね。この花の後にできた実がこれ。小ぶりだけど金色の林檎みたいだろ?」
 林檎かどうか、細かいところまではぼやけた視界では見えなかった。ただ、花も実も暗い空間でキラキラと輝いて見えるのは確か。
「俺らから見れば、あんた自身も同じようにキラキラしてる。魔界の空気だけで声がほとんど出なくなる点からしても、相当清浄な力を持ってる一族なんだね、あんた。苦しいでしょ?」
 茨が邪魔することもあるが、ほとんど身体が動かなかった。たとえ声が出せたとしても、言葉にするだけの気力がもうない。
 それでも、規則的に俺の心臓は動いている。動いたところで、ほとんど手足にからんだ茨に吸い取られるだけなのに。

  早く、帰りたい。



 それは、ある日の夕方だった。

 装飾品を作るための材料を天界でたんまり仕入れ、ぼちぼち人間界へ帰って来たあとのこと。いつもの商店沿いを過ぎ、家路への途中にある寂れた林の中から、俺を呼ぶエルの声が聞こえた。
(? あいつ今仕事中だし、それにこんな風に呼ぶことなんてねえはず)
 無視してもよかったが、なんだか気になって林に一歩踏み入れた。その瞬間、妙な膜を破ったような感覚。ざらりとしたものが肌を撫でる。
(何だ、これ。結界……?)

「ようこそ、カミサマ」
 前方の木の枝に、子供が座って俺を見ていた。全体的には人型ではあるが黒い蝙蝠のような翼と尻尾がついていて――西洋の鬼、つまり悪魔だろう。
「エルがこんなところにいるわけないってのは分かってるだろうに、気になっちゃったんだろ?」
「誰だ、お前」
「相手に尋ねる時はまず自分から名乗ったら?」
「誰でもいいか。こんな結界まで張って、俺に何の用だよ」
 子供の姿をしていても相手は悪魔。気遣ってやる必要はない。エルの配下だろうというのは分かるが、そいつが何故俺に単身で接触してくるのか意図が分からなかった。
 俺がにこりともせず質問を変えると、悪魔は明らかにむっとした顔で胡坐を解き、足をぶらぶらと下に揺らす。
「あのさあ、前からすっごーくあんたの力が食いたくって」
「は?」
「でもあんた桁外れに強いしー、例え俺より弱かったとしてもエルのお気に入りだから食い殺すなんてできねえし。だからこうして直接お願いしにきたの。ね、ちょっとでいいからさ、頂戴?」
 なんだこのガキは。俺が力を食わせてやる義理なんかどこにもないぞ。
「何でお前におすそ分けしてやらなきゃならねえんだよ」
「怖いなあ。でも、俺にくれないと結界ほどいてあげないよ」
「馬鹿にすんなよガキ。この程度の結界で俺を拘束したつもりか?」
 大した結界でないのはすぐ分かる。人間であるエルが片手で張ったものにすら劣る稚拙な結界だ。
「内側から破るの?そんなことしたら、俺の契約主にも被害が及ぶんだけどなあ?」

 ―――なんだって?

「俺が傷を負えばエルも傷を負うし、その逆もしかり。あんたが結界を破るために神力を解放したら、人間の身体しかないエルはどんだけ傷を負うんだろうね」
「……てめぇ…」
 結界であれなんであれ、術の類であることに代わりはない。それを破られればその術の大きさに比例した衝撃波が術師の心身に跳ね返る。それが結界を張っているこいつだけでなく、契約主にまで及ぶというのか。この悪魔にとっては擦り傷を負う程度のものであっても、もろい人間の身体であるエルには致命傷になりかねない。

「大丈夫、勿論命までは奪わないよ。そんなことしたら俺がジェイとエルにに怒られちゃうからね」
 悪魔がつと腕を上げると、回りの景色が徐々に黒く淀み始めた。極普通の夕暮れの林だったそこが、暗く重い、禍々しい林に変わっていく。
 景色が完全に変わったと同時に、喉に刺さるような空気に気付いた。咄嗟に自分の身体を守るための結界を張ろうとして―――腕に走った激痛に動きを止められる。

「な……」

 藪の中から、茨のような棘をもった蔓が伸びて、俺の腕に絡み付いていた。

「駄目だよ、結界なんか張られたら食べられないでしょ?ちょっと息苦しいかもしれないけど、そのままで我慢して」
 茨が絡みつき、棘が俺の皮膚を食い破って突き刺さる。皮膚と棘の間からにじみ出る血が、茨の茎部分に吸い込まれていくのが見えた。この茨、俺の血を吸ってやがる。
「それは俺の配下の植物型下等悪魔だよ。俺くらいのレベルじゃ、あんたの血や力は強すぎて直接食べられない。でもそいつは特殊でね、そいつが吸って花や実にしたものなら俺も食べられるんだ。さて、もうちょい追加させてもらおうかな」
 言うが早いか、俺の両手首と、両足ふくらはぎあたりから下に茨が巻きついた。足元の痛みに耐えかね、その場に膝をつく。これはただ棘に刺されているだけの痛みじゃない。まるで傷口から毒を流し込まれているような激痛が脈打つたびに継続して襲い掛かってくる。悪魔の瘴気が血管から入り込んできているんだろうか。そうとしか考えられない。
(くそ…!)
 こんな茨、俺が持っている神力を解放させればすぐ消し炭に出来るのに。
 でもそれじゃ、エルの命まで消し炭にしてしまいかねない。

「抵抗しないんだね。流石エルに優しいカミサマ。それにすごく甘ぁ〜い、いい香り。肌もぷりぷりだし、直接食べられたら美味しいだろうなあ」
 そばまで来た悪魔が、俺の髪をひと房つまんでくんくんと鼻を鳴らした。
「2・3日もあんたが家に戻ってこないと周りの奴らが騒ぐだろうから、1日くらいで帰してあげる。でもここと人間界は時間の流れが少し違うから、あっちの1日はこっちのひと月くらいかな。その間、ここでくつろいでてよ」

 悪魔が木の枝で周囲に四角い線を引くと――地面から檻のようなものがせり上がって俺の四方を囲んだ。
「ふふ、綺麗な鳥さん捕まえた。お腹減ったら言って、人間界から食べ物持ってきてあげる」
 死なれちゃ困るから、と言って、悪魔は笑いながら結界の外へ出て行った。

(ひと月もこの状態でいろってのか……?趣味悪すぎだあのガキ!)

 手足の茨を見れば、うねうねと蛇のように蠢きながらどんどん俺の血を吸っていく。僅かに動くだけで一気に頭から血の気が引いていく感覚があった。でかい蛭に張り付かれているのと同じ状態だろう。