一.

場所は箱根――山中。
 そこは関所からかなり離れた地点だった。つまり、喧騒を起こしても関所の役人の耳には届かない。故に、もはや危険区域に入っている。旅人は夜、このような場所を通ろうとはしないし、してはならない。通ろうとするのは、山賊や野犬に襲ってくださいと言っているのと同じである。
 しかし、どこにでも勘違い人間はいるもので、生半可な力を持っている男ほど山の怖さを軽んじて掛かってくる。そして、それが格好の餌食となることを山賊たちは知っていた。

「く、くそおッ!」
 若い男が二人、山賊に取り囲まれて息を切らしていた。どちらも浪人という風体で、刀を帯びている。山賊数名の死体が地面に転がっていることからして、彼らはそれなりの使い手なのだろう。だが、何といっても山賊は二十人以上の数で一斉に攻めてくる。多少腕が立つ程度では到底倒しきれないのだ。
 事実、二人はそうとう疲労していた。疲労しきってしまえば、どんなに腕の悪い男でも一発で斬り殺せる。山賊たちはそれを狙っていた。
「へへへ、こっちゃぁまだ疲れてないぜ。諦めんだな、おにいさんがたよ」
「そうそう、無駄なんだよ。この人数に二人で対抗しようなんざ」
 勝利を確信した山賊たちは余裕で笑っている。もはや時間の問題だ。
「……ん?おい、またカモが来たぜ」
 数人が男二人とやりあっているのを横目で見ていた他の山賊たちは、自分達の背後から近づいて来る足音を聞きつけ、振り向いた。
 さく、さく、と地面の草を踏みつける音が近づいてきていた。
「しかも一人か。こりゃまた命知らずな奴だ」
 この位置は、頭上の木々の隙間が広く、空が良く見える。故に今は満月が煌々と地面を照らしていた。
 足音の主はまだ月光が照らし出す位置まで来ていない。

 さく、さく・・・・さく。

 山賊の目に人影が見えてきたと思った時、足音が止まった。どうやら足音の主も山賊たちに気づいたらしい。
 まだ顔までははっきり見える位置に来ていなかったが、細い体の線は把握できた。身長は普通の男より少し高いほど。とはいえ、大柄な男ばかりの山賊たちから見ればなんということはなかった。
 服装は全身黒一色らしく、まるで色らしい色は山賊に見えていない。ただ――時折きらきらと光る糸のようなものがあった。
 たったひとりの足音の主は、その場に立ち止まったまま動かなかった。
「こんばんわー。飛んで火に入る夏の虫さんよ」
 頭を含めた5人が、出迎え役といわんばかりに立ち塞がる。全員、抜き身の刀を持ったままだ。
 と――立ち止まっていた足音の主は、無言のまま数歩進んで山賊たちに近づいて来た。前に進んだことで、その足元は月光が照らし出す位置になる。
 山賊たちはおもむろにその足元から上に向かって目線を上げた。どんな貧弱な男かと思いながら。
 しかし、彼らの思惑は大きく外れた。
 そこにいたのは――女、だったのだ。
「な・・・・」
 普通、この状況で女だったと分かれば、山賊たちは真っ先に喜ぶ。しかしこのときばかりは違っていた。
 もののけかと思うほど、その女は美しかったから。
 真珠色の肌は蒼い月光を浴びてうっすらと艶を帯び、気品のある美貌には何の感情も出ていない。まるで人形のようだった。
 そして何より、異国人を見たことのない山賊を驚かせたのは、その女の髪と目の色。
 女は、銀の髪と翠の眼をしていた。
 ほっそりとした長身を黒い着物で包み、腰に長い太刀を佩いている。
「…山賊か」
 女は、絶句している山賊をあざ笑うかのように静かな声でそれだけ言った。本当に、感情の存在そのものを感じさせない声。
 女が喋ったことで我に返った山賊たちは、ようやくもとのペースを取り戻して薄ら笑いを浮かべた。
「驚いたぜ。まさか女がひとりで夜山越えしようとやってくるなんざ」
「ねーさん、あんたどこのお姫さんだ?山の怖さを知らねえとしか思えねえぞ」
「そんなに捕まって遊郭に売られたいのかねぇ」
 げらげらと山賊たちは哄笑した。思いもよらぬ上等な獲物を捕獲できるであろう状況に高揚を抑え切れないようだ。
「そこをどけ。回り道していられるほどのんびり旅じゃないんでな」
 女は、山賊の言葉など耳にも入らないといわんばかりに、余裕の風体で眼を細めた。
「あのなぁ、頭だいじょぶかよ姐さん」
「状況把握できてねぇな」
「俺らがどくわけねぇって…」
 彼らの横を、かすかな風が通り抜けたと思った瞬間、女は消えていた。
 驚いた彼らが周りを見回すと、まだ続いている先ほどの男との乱闘現場の少し横を通過しようとしている女の後姿が見えた。
 いったい、どうやってあそこまで進んだのか。
「な…どうなってんだ!?」
「いやそんなことよりあれを逃がしたらとんでもねぇ損失だ!」
「おうお前ら!その女を逃がすなッ!捕まえろ!!」
 頭が配下全員に命じると、男二人と戦っているメンツ以外全員が女目がけて走り出した。
「おらぁ!逃がさねぇぜ!」
「観念しな!」
 真っ先に女のいる場所に駆け寄った数名が、その細い腕を掴もうとした瞬間、動きを止めた。
 一拍遅れて数本の血柱が立った。血柱の出所は女の腕を掴もうとした面子の首。そして今、首から離れた頭部は地面に転がる。
 女の手には、いつのまにか腰に佩いていた長刀が握られていた。
 神社に奉納される儀式用の刀を彷彿とさせる、白木の柄の美しい刀。
「そんなに喰い殺されたいのか」
 斬りおとされた首から、なにやら靄のようなものが出てきて、女の刀に吸い込まれていった。そして後に残った首は、まるで萎んだようにミイラ化する。
「なッ…なんだこりゃあ!」
 ついさきほどまで自分達と同じように動き回っていた仲間が干からびていく姿を目の当たりにした山賊たちは、混乱して女とミイラを見比べていた。
 女の刀が、ゆらりと月光を灯したように光る。その理由を、彼等が知る由もない。いや――知る必要もなかった。
 数秒後には、全員仲良く地面に枯れ木と並んで転がることになったのだから。


 ――チィン。
 涼やかな音がして、月光色の刃は鞘へと戻った。女は何もなかったように荷物を持ち直すと、再びさくさくと草を踏みながら歩みだす。
「あんた…一体なにもんだ…?」
「どう、やってあいつらを…」
 女が山賊全員を一掃してくれたお陰で命拾いした若者二人は、呆然として座り込み、女を見上げた。
「話す気力があるならさっさと山を降りたらどうだ。山賊がこいつらだけとは限らない」
 ぽい、と何かを女が投げてよこした。竹筒に入った、冷たい水。
 二人が礼をいおうとした時には、もう女の姿は消えていた。暗闇と木々に紛れて立ち去ってしまったらしい。
 虫の鳴き声だけがする木の根元で、二人は顔を見合わせていた。