月下美人



 そのまま、銀色の翅でひらりと夜空に翔んでいってしまいそうだった。
 恐い。
 翔んでいってしまったら、二度と触れられなくなってしまう。
 二度と触れられなくなってしまったら、俺は死んでしまう。
 渇いた樹のような俺にとっての唯一の水。
 蝶のかたちをした綺麗な水。
 
 水を奪うくらいならいっそ、月下美人の香りのする鱗粉で俺を殺してくれ。


                  ◆     ◆     ◆

「待て司!かような勝手が許されると思うてか!」
「お主は本条家の長男であり跡取りじゃろう!血を絶やさせる気か!」
「そうじゃ!」
 思ったとおり、長老達の罵声が俺の背に投げつけられた。
 それに反して、静かな外では鈴虫が鳴いているのが聞こえる。
 俺の家―― 一族は、代々決して余所者を受け入れずに隠遁して生きていた。
 鬼とも言い伝えられる、呪術師の一族。呪術師といっても安倍晴明のように堂々と活躍できるような種ではなかった。呪術の粋ともいえる、陰惨に呪い、相手を死に至らしめるのが生業。それゆえ、必ず時代の権力者の背後に俺達の一族が暗躍している。
 世に影にしか存在できない、してはならないというのが代々の掟。
 それが、うんざりだった。
「俺は俺の生きたいように生きる。あんたたちも好きにすればいい」
 頭が化石のように固まりきった人間を相手にする気はなかった。説得しようとも思わない。彼らはそうして自分達を自分で縛り付けることが正しいと思っている。
 それならばこの先もずっと、そうしていればいい。
 だが俺は一族など関係なく自由に生きたい。
 何年か前、好いた男と一緒になるために里をでていった姉と同じ選択だった。 
 俺ひとりが、姉を見送った。里の人間に悟られないように。俺にしかできないことだった。
 今度は、俺がここを出る番。
「どうしても俺が許せないなら殺せばいい」
 口々にまくしたてる人間ほどその実、能力はない。俺から見れば、なんて口先だけの一族だろうと思う。 師匠だのと偉そうな顔をしている奴でさえ、たいした腕の持ち主ではなかった。
 こんな奴等に、俺は絶対殺されない。
 まだがなりたてる声を無視して、俺は外界への扉を潜った。
 ひとりの人間として生きるために。


 里から出て一年も経たずに、俺は俺自身を必要としてくれる場所を見つけた。
 名前だけは聞いていた徳川隠密衆。
 どんなものだろうかと興味本位で入隊試験を受け、入った早々参謀格に任命された。それなりに面白い職場だと思いながら年月が過ぎていった。遠征や討伐、様々な任務をこなすせいもあり、日本全国を巡ることが多い。
 京の乱れきった治安をなんとかしろ、という御頭命令を受けて俺は京に入った。京は江戸から離れている都市の分、役人の意識も緩く治安が悪かったのだ。
 京といえば華やかで穏やかな地だと思っていた俺は、目の当たりにした治安の悪さに絶句した。
 御頭が三年という長い期間を設けた理由が厭というほど分かる。

「三ツ谷、お前はここの生まれだったよな。前から京はこんな荒れていたのか?」
 班長二人と蕎麦屋で夕食をとりながら、俺はふと聞いてみた。俺と同期の班長二人。同期だから敬語は別にいらないと言っても、やはりやりづらいのか敬語で喋られる。
「ええ。優雅なのは貴族だけですよ。たとえ金を持っていてもいつ夜盗に入られるかびくびくしているくらいです。特に、ここで生きるのが苦難なのが――」
 言いながら、三ツ谷が格子窓から見える外を指差した。
 通りの向こうは祇園。下級の遊女たちが通る男の袖を引き、客を獲得しようと媚びを売っている。
 よく彼女たちを見れば、中には濃い化粧でごまかしているもののまだ幼い遊女もいた。
「身寄りや金づるのない女とってここは地獄ですよ。遊女の数も多い分、競争率も生はんかじゃない。ずっと客が取れない遊女は雑用にこき使われ、動けなくなったら路上に捨てられる。遊女になっただけでは食っていけないんですよ。壮絶なものです」
 華やかな笑みを振りまき、綺麗な着物を着ている遊女たち。いったい内側の苦しみはどれほどのものなんだろうか。
 男の俺には、言葉では理解できても実感は沸かない。
「そういえば、隊長は花町に行かれませんね」
 もうひとりの班長・羽黒がぽつりと俺に聞いてきた。
 俺は遊女を買ったことがなかった。買いたいとも思わない。
「隊長は金なんか払わなくたって美女がよりどりみどりだ。必要もないだろ、羽黒」
「それもそうだな。隊長、いつも休みの時は別嬪を連れてますもんね」
 勝手に女たちは俺に言い寄ってくる。別に来なければ来ないで構わないが、逐一跳ね除けるのも面倒だから放っておくのが俺のやりかただった。それで勘違いした女が泣こうと知ったことじゃない。

「祇園で今、未曾有の嵐が巻き起こってるの御存知ですか?」
「嵐?」
 治安が悪くなっているということだろうか。俺は思わず眉間に皺を入れた。
「異色な新人遊女が台頭してきたんですよ、松己屋に」
「松己屋…確か祇園最大の大店だよな。あの店に遊女として入るのは相当いい女でないと無理だという」
「強烈な阿片のような遊女だってもの凄い評判なんですよ。たった十三歳なのに大物顧客を次々獲得しているらしいです。噂じゃ先輩遊女の客も乗り換えはじめてるとか」
「十三歳じゃ、まだ子供みたいなものじゃないのか?」
「一度遠目見たことありますけど、とても十三には見えませんよ。壮絶な美人で、どう見ても十八〜九歳です」
 俺が知っている十三歳といえば、色気づく年頃だがまだまだ子供。少女趣味は全くない。
 だが、どうもその遊女の話には興味がわいた。
「初日から物凄い勢いで買値が高騰してますよ。今じゃ確か一晩三十両だかするとか何とか。これからもっと値上がりするでしょうね」
 確かに高い。後少し値上がりすれば、普通の店の太夫なみだ。
「何でもその遊女、父親が異国人らしいですよ。銀色の髪と翠色の目をしていました。肌なんか真珠みたいでしてね、遠目でも見とれるくらいです」
「源氏名は?」
「“みさき”です。魅了の“魅”に花が咲くの“咲”という字で」