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三田 (旧佐土原藩上屋敷長屋、薩摩藩邸跡、無血開城会見地) 麻布十番

せっかく東京に住んでいるんだから、東京はじめ、関東にある鹿児島に纏わるところをまわってみましょうというシリーズ。 その第一弾は、かつて薩摩藩邸のあった三田近辺。かつて薩摩っ原と呼ばれていたところです。


スタートは麻布十番(地図)。
駅を南下して古川(新堀川)に架かる二之橋を渡り、日向坂を上ります。 この日向坂の名はかつて毛利日向守の屋敷があったことに由来するという説が有力なのだとか。
さて、首都高を潜り、オーストラリア大使館の前を横切ると右手に見えてくるのが 「佐土原藩長屋(地図)」(綱町三井倶楽部敷地内)です。



旧佐土原藩上屋敷長屋
いきなり佐土原(宮崎)ですが、島津家支藩ということで今回取り上げることにしました。

佐土原島津家の初代以久(もちひさ)は島津貴久の弟忠将の子にあたります。つまり、島津四兄弟の従兄弟に当たるわけです。
元々、佐土原の地は伊東氏が治めていましたが、元亀3(1572)年の木崎原の戦いで島津氏が破って以後義弘の統治下に置かれます。 秀吉に敗れた後はその弟家久、その死後はこの豊久が継ぎますが、 関ヶ原の合戦において退却の際に軍の殿を務めて義弘(惟新斎)の身代わりとなって戦死。 その後しばらく幕府の直轄地とされますが、1603年に以久が佐土原藩主に任ぜられ、以後明治まで続くわけです。

長屋とは、家中のものたちの居住スペースで、江戸時代には大名や大身の家臣はその住居の周囲に長屋を巡らせて防備としていたそうです。

長屋前あたりを頂点に、坂は日向坂から綱の手引坂に変わります。
同じく慶應大学のほうへ下る坂を綱坂というようですが、これらはともに源頼光四天王の一人、渡辺綱に因んだものなのだそうです。 とは書いてみましたが、源頼光というのがよく分からなかったので調べてみたところ、平安中期の人物なんですね。 てっきり平安後期の源平時代の人かと思ってました。

この近辺、慶應をはじめとして学校が多いだけあってなかなか静かないい雰囲気です。
そのまま直進し、綱の手引坂を下っていくと、やがて国道1号(桜田通り)にぶつかります。 左手には東京タワーも見えます。
薩摩藩邸跡
桜田通りを横切ると、住所は芝に変わります。 これまでの学校・大使館ゾーンとは打って変わって、このあたりからオフィスビルが目立ち始めます。
かつて薩摩藩邸のあった場所は、現在の住所で言うと、
芝二丁目16〜22、32、三丁目21〜24、32〜34、四丁目1、五丁目7に当たるようです。
幕末の名君、島津斉彬が生まれたのもここでした。

薩摩藩邸、そしてその支藩の佐土原藩邸は、後の戊辰戦争の引き金となる幕末の藩邸焼き討ち事件でその殆どを消失してしまいます。 そこで残ったのが先程の佐土原藩上屋敷の長屋ということになるのでしょうか。

薩摩藩邸跡の石碑は、NEC本社ビル北側の植込みの中にありました(地図)。 芝さつまの道


芝三丁目、屋敷跡石碑の北方部分は、三井不動産などの再開発によって「芝さつまの道」として整備されていました。 何でも2002年度のグッドデザイン賞を受賞したんだそうで。 敷地内には当時に因んだオブジェなんかもありました。

日比谷通りを横断し、芝二丁目に入ります。
「芝商店会」という商店街があるように、これまでのオフィス街とはまた違った雰囲気です。 町並みの中には、1961(昭和39)年に住居表示される以前の住所の書かれた表札なんかが飾ってあるところがあったりして。

戸板女子短大の正門横にはかつて焼き討ちの犠牲者を供養した「無縁供養塔」なるものがあったらしいのですが、 移設されたという話も…?

無血開城会見地
日比谷通りを南下し、国道15号(旧東海道)を越えたところにあるのが、無血開城会見の地の石碑です (地図)。
ここはかつて薩摩藩の蔵屋敷があったところで、その当時、蔵屋敷のすぐ裏手は海だったそうです。
1868年4月6日(旧暦明治元年3月15日)、この蔵屋敷で勝海舟と西郷隆盛の会談は行われ、 歴史的な江戸無血開城がなされ、江戸の地は戦火から免れることになるわけです。



さて、第1回はこれでおしまい。次回は多分「九段」です。
気が変わるかもしれませんが…。