麹町(紀尾井町) (紀尾井坂、清水谷公園) 長く間を空けてしまいました。 仕事が忙しかったというのもあるのですが、 この企画はあくまで何かの用事で近くへ行ったときに、 そのついでにまわるくらいのスタンスでやっているので、遅くなってしまったというのもあります。 とある9月の昼下がり。 9月に入って幾分涼しくなってきたとは言え、それでもなお暑い日々は続いております。 この日の天気は曇り。比較的涼しい一日でしたが、ときに雲の間から顔を見せる太陽の日差しは暑いです。 今回の舞台は麹町。永田町で有楽町線に乗り換えて一駅です。(地図)。 考えてみれば前回行ったのが「東郷坂」で、ここから歩いてすぐのところだったりします。 何で纏めて行かなかったかなぁ、なんて今さらになって思ってみたり…。 さて、麹町駅から出て「いちょう坂通り」を下り、「清水谷坂」を進むと見えてくるのが「紀尾井坂(地図)」です。 この辺りは坂名に同じく「紀尾井町」と呼ばれるところにあたりますが、 これは江戸時代に紀伊和歌山・徳川家、尾張名古屋・徳川家、近江彦根・井伊家の屋敷が周辺にあったことに因んだものです (ほかに伊勢鳥羽・稲垣氏の屋敷もあったらしいです)。 今の赤坂プリンスホテルの辺りに紀伊徳川家の中屋敷、上智大学の辺りに尾張徳川家の上屋敷、 ホテルニューオータニの辺りに彦根井伊家の中屋敷があったようです。 ここ紀尾井坂と言えば、大久保利通が暗殺されたところでもあります。 坂の上にはかつて、「喰違見附」が置かれていました。 「見附」という名称は、はじめ城門の警備のことを指していまたが、 後に城門も見附と呼ばれるようになったんだそうです。 坂の上の植え込みの中には、ここにはかつて「喰違見附」があったという碑がありました。 明治7年1月14日、ここ喰違門付近では、征韓論が敗れたことに不満を持つ武市熊吉ら土佐士族から右大臣岩倉具視が襲撃を受けています(赤坂喰違の変)。 その前年には皇居炎上に伴い、皇居が赤坂離宮(迎賓館)に移されており、 この場所が歴史的な大きな意味を持つ場所になったのです。 結局、岩倉は四ツ谷濠へ逃げ、一命は食い止めています。 時は下り、明治11年5月14日。 前年には西南の役があり、維新の盟友、西郷隆盛が自刃。 維新の三傑のもう一人木戸孝允も同年に病死しています。 国内最大規模の反乱、西南の役を最後に士族の反乱は終息に向かうわけですが、 その最後の事件となるのが、この大久保の暗殺と言えるのでしょう。 大久保は当時内務卿、現在で言うところの内閣総理大臣のような職にありました。 何といっても維新後の混迷の時期ですから、その時代に国を作るとしたら強いリーダーシップが必要なわけです。 理想としては、日本人らしく(?)話し合いで皆が納得した上で…なんでしょうが、そんなことしていたら何も決まりませんからね。 そんな変革の時代のリーダー大久保の死の後、彼の意志は伊藤博文らによって引き継がれることになります。 紀尾井坂近くの清水谷公園大久保の遺徳を偲んだ追悼碑があります(地図)には、。 大久保の死の10年後に作られたもので、高さは台座を含めると6メートル近くもある巨大なものです。 本当はこの夏、遠出をしようと考えていたのですが、どうも時間的にも難しいようです。 そういったわけで、次回も恐らく近場から…。 |