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姶良と吾平
都道府県地区町村・落書き帳」投稿[30011]を一部加筆・訂正
鹿児島には姶良町と吾平町の2つの「アイラ」自治体があります。 この2つの「アイラ」には何か関連性があるのでしょうか。
姶良町の名称の由来は姶良郡、吾平町は吾平山陵だそうです。
山陵とは、天皇・皇后の塚墓のことで、 吾平山稜は、神武天皇の御父君・鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、 御母君・玉依姫(タマヨリヒメノカミ)のものとされています。 この吾平山稜の脇を流れているのが姶良川、吾平町中心を北流し、肝属川に合流しています。

吾平町は町制施行前は姶良村という自治体名でした。

古代、姶羅郡(文献によって吾平、姶良などもあり)は現吾平町近辺にあったと推定されています。
713(和銅6)年の大隅国建国の際、贈於、大隅、姶羅、肝属の4郡(字には揺れがあります)が 日向国から分離されたころのことです。 後に桑原郡、菱刈郡が分離して大隅国は6郡となりますが、 その時代(10世紀)に書かれた『和名抄』によると、 そのころの姶羅郡には、野裏(現大崎?)、串伎(現串良)、鹿屋(現鹿屋中心部)、 岐刀(現鹿屋市高隈?)の4郷が置かれていることが分かります。 そして、姶臈(あいら)郷(現吾平町)は姶羅郡ではなく大隅郡にあります。 これらのことから、郡の移動があったことが推定されています。
現在の姶良郡ですが、古代の姶羅郡とはまったくの別物です。 姶羅郡は荘園の発達によって早々に消滅しています。

姶羅郡が復活するのは近世になってからのことです。 桑原郡の帖佐(答西)郷が一郡として分離したことが始まりとされています。
姶良郡は元は始羅(しら)郡と呼ばれていました。 それが次第に「姶羅郡」と混同されるようになり、近代以降姶良郡に統一されたようです。 「始」と「姶」、確かに字は似ています。ちょっと見ただけでは判別がつきませんね。 何しろ今でも姶良郡を始良郡で間違えている例が多いですから。 (試しに検索 してみるととんでもない数ヒットします。)

さて、明治期町村制施行以降の「アイラ」自治体の変遷
1889(明治22)年
・市制町村制施行。姶良郡内には加治木、重富、蒲生、山田、帖佐、溝邊の6村が誕生
・姶良郷の麓、上名、下名の3村が合併して姶良村が成立
・大姶良郷の大姶良、南、獅子目、西俣、野里、濱田、横山の7村が合併して大姶良村が成立
1896(明治29)年
・郡区画改正より桑原郡の横川、栗野、吉松、牧園、西襲山の5村、 西囎唹郡の敷根、清水、東襲山、福山、国分、東国分、西国分の7村を姶良郡に編入
1941(昭和16)年05月27日
・大姶良村が花岡村と共に鹿屋町と合併し鹿屋市に。大姶良は大字となる
1942(昭和17)年04月01日
・姶良郡帖佐村に町制施行、帖佐町に
1947(昭和22)年10月15日
・姶良村が町制施行と同時に吾平町と名称変更
1955(昭和30)年01月01日
・帖佐町、重富村、山田村の一部が合併して姶良町となる
2005(平成17)年03月22日
・吉松町と栗野町が合併して湧水町となる

吾平町は鹿屋市、輝北町、串良町と合併して、2006年1月1日をもって新・鹿屋市の一部となります。 対する姶良町の合併協議は不調に終わりました。 2つのアイラも今年いっぱい、あと僅かです。