詩感  





詩が「見る」という行為のみならず「生きる」ことを目的とするために、単なるリアリズムの域を時として超えることがあるのは、やむをえないであろう。

当然「見て」認識し統合されるリアリズムを、「生」そのものだと考える人工的な思想は、逆に「生」のダイナミズムに直面し見事に崩壊する。現実の沿革だけを把握することに成功したリアリズムが、「意味の病」に侵される非現実のパラドクスを、どれだけ予想していたのかはなはだ疑問を持たざるを得ない。

ロブ=グリエは、この問題をカフカを例にとって次のように述べている。



     彼(カフカ)の小説の中の目に見える世界は、確かに彼にとって現実的な

世界だったのであり、その背後に存在するものなど(何かが存在するとして

も)、物体、動作、会話等々の明証性と比べるとき何の価値もないように思

われる。幻視的効果は、それらの輪郭の異常な明確さに依頼するのであって

浮動やぼかしに由来するものではない。結局のところ、精確さ以上にファン

タスティックなものはないのである。     

(ロブ=グリエ『写実主義から現実へ』)



 ロブ=グリエが言うところの〈精確さ〉は、生を無視することのできない現実の赤裸々な姿であり、詩がこの手法を用いたときには、現実から「死」が湧出するのではなく、紛れもない「生」が直立する。ある意味でのこの「生の直立」こそ、形骸化した宗教から逃れ、モダニズムを放棄し、獲得しようとしている現前性といえるであろう。

 また、小林秀雄は『ぺスト』の中で次のように述べている。

     


      観察とはすべて事後の観察である。観察によって知る代わりに、生きて知

るといふ心掛けで眺めるなら、人生には在りさうにもない事だけが起こって

ゐる。



 F.ベーコンの観察を喝破したとも、深化したともとれるこの小林の発言は、的を射たというよりも、ひとつの発見とみることができよう。

 TS.エリオットの「新たなる認識」の秩序は、科学的・宗教的死の側面に向かうのではなく、あくまでも生を直撃するものでなくてはなるまい。よって仮に、生に舵をとったとき、その舳先に、文化的非現実の霧を突き破り立ち現れる大陸は、「在りさうもない」事象の圧倒感であろう。

 だが、この「在りさうもない事」が現実において不明確であるがために、現実性を欠くと未熟な速断を下す近代科学の客観性は、確かにポピュレートされている。

 しかし、これをポピュレーションやニッチェの問題に置換した場合、大きな錯視を招くことになりかねない。



つまり長い進化の歴史を通じて、種は固有のニッチェをもってすみ分け、

調和のある社会を構築してきたところへ、文化環境という異質な環境を設定

し、他種の社会やニッチェを侵害するという結果になるからである。そのこ

とは、いわば、反自然的な進化を持ち込んだと言ってよいだろう。自然は、

その中で何が起こり何が消滅しようと善悪の彼岸にあるものである。しかし

文化過程は、その存在そのものが反自然的である限り、自然の中での価値が

問われなければならない。文化はプラスとマイナスの価値を含んでいる。あ

るいは、文化は善と悪とを包摂した両義的体系である。文化を創造すること

は、すなわちまた生物界に悪の要素を持ち込むことに他ならない。

(河合雅雄『森がサルを生んだ』)




河合が言うところの“悪”の概念は、吉本隆明の『マチル書試論』における“悪”の認識を左証することにもなる。が、ここではもっと掘り下げ、ポジティブに捉えていかなければならないだろう。
 文化には二側面がある。科学とそれに対置する宗教である。二者ともに善悪の概念は存在し、社会的価値を形成する。善悪の彼岸である自然とそれらを有する文化とが弁証化されたとき、自然への悪の導入は防がれる。
 しかし、科学(近代)は、まだその途上にあり、それらは乖離したままで当面二者の一致はあり得ない。
 また宗教においても、仮にアウフヘーベンされた存在があったとしても、未だ社会的に承認される段階には至っていない。

だが、現在、詩の大多数は反文化にある。これらは科学と宗教の善悪の圏外にあって、特別区を形成しているといってよい。このことですなわち、詩が自然と同一磁場を共有していると判断するのは危険であるが、文化の中ではより“自然の生”を獲得する可能性を持つと言えよう。(ただしここで言う「自然」とは文化的日常性や科学性にいっさい侵されていない本来の自然、すなわち「原自然」とも言えるものである。)確かに詩の文言は、善悪の文化から見れば混乱と錯誤に満ちている。また、時には小林が述べた「在りさうもない事」と判断される。しかし、前掲の河合の言葉を借りれば、「自然悪としての文化的ポピュレーション」からの批判は、詩の原自然への接近を反証することにもなる。古代において、未成熟な宗教に汚染され、近代において、科学の冷徹さに仮死化された詩。今その仮面が剥がれかかろうとしている。やっと側面的人間から解放され、詩の内的な輝き“人間”への超越が開始されはじめた。詩が渇望してやまなかった“原自然の沃野”、モダニズムの側面から見れば“荒地”に今一歩足を踏み入れている。実際、全ての現代詩人が意識しているかどうかは別として、彼らの文化破壊が時には混沌と神秘性に満ちた原自然を顕在化する。後にも掲出するが、秀れた現代詩人たちは、もうこの作業を意識的に行っていると言っても過言ではない。

 ただここで詩が開かなければならない閉ざされた門がある。




      そして地域集団によって文化形態が異なる――つまり様々な文化的ニッチ

ェがあり、そのニッチェに適応したポピュレーションがすみ分けている、と

いう状態が現出した。エリクソンが、人間はいくつかの擬種を持つといった

のは的を射た見方である。

(河合雅雄/著書名・同上)



 詩が文化を乗り越え、非文化の文化たり得るためには、それに必然的に具わる擬種の問題を解決しなければならない。

つまり詩の難解さは、擬種を誘発する極めて文化的な行為と位置づけられるということである。柄谷行人は以下のように述べている。



       たとえば夢の中で、仮にわれわれが樹木を見ているようにみえても事実

     はそうではない。樹木は見られるべき対象として存在するのではなく、ただ

圧倒的にそこに存在する。なぜ樹木がそこに存在するかは問題ではなく、ま

たそれを見ないで済ますこともできないというふうに、絶対的に現前してい

る。われわれはそれに抗うことも対象化することもできない。

                       (柄谷行人『意味の病』)



 擬種を瞬時に破壊するのは、この存在の圧倒性であろう。その意味においては、知覚における勝利を意味するかのように思われる。しかしこれは、世界における知覚の体系的日常性に依拠するものではなく、その背後にある〈非−抒情〉の衝撃(和合亮一『瀧口修造に鮮やかな紅梅を充填してみたいのだが』)とも言えるものである。感受性(日常性)の背後に包摂される非−抒情と、認識(科学性)の背後に君臨する非−認識の衝撃。圧倒的現前性を捉えることのできるものは、どこかで感じていながらしかし従来の合理性や宗教性では絶対に表出できぬ背面。いやむしろ、それらのもので隠蔽され続けた原自然=個の現前的意識に他ならない。文化に塩漬けになった世界観こそ、潜在化されなければならないだろう。吉本はこの背面の延長上の影を捕らえた。



      フランスの象徴派の詩人たちが「象徴」という概念にどんな自覚的な意味を

与えていたかわたしもつまびらかにしない。だが結果的な作品をみれば、かれ

らが言葉の〈意味〉〈価値〉〈イメージ〉という既成概念の上に新しく〈影〉

(レプリカ)という概念を付け加えているのではないかと見える。言葉の〈意

味内容〉の流れに沿いながら本当は〈意味内容〉の流れが物象の〈イメージ〉

とかかわりない〈影〉(レプリカ)の流れを醸造すること。

(吉本隆明『詩学叙説・続』)



 

 影は柄谷の言葉を用いれば「見られるべき対象として存在するのではなく、ただ圧倒的にそこに存在する」ということになる。しかし影を、「見られるべき対象として存在」させないとしたのは原自然ではない。むしろそれは文化である。意識においてもこの影を覚知する〈背面〉があり、吉本も指摘しているとおり、象徴主義の段階では単なるレプリカ的存在でしかなかった。つまり結果的存在に他ならなかったのである。まだ象徴主義において〈意識の背後〉は感得されておらず、よって影は直視されず、ゆえに文字どおり影になりさがっていた。ところがアンチモダンの時代に入ると、背後がむしろ詩の前面に押し出される。意識の裏から表層を押し上げ解放に向かう。あるがままの原自然が、あるがままであるための運動をするように…。

 ここに以上の背面の顕在化を具現した詩を三篇掲出しよう。



   T   長い回廊をさまよいながら ぼんやりとではあるが

       聖なる戦慄をもってしばしば感じたものだ

       わたしは同じ日々に 同じ歩みを

       行っている死者、他者であると。

       

       複数の〈わたし〉の そしてただ一つの影を有する

       この両者のいずれがこの詩をかきつけているのか。

       分割不可能 しかも一方がアナテマであるならば

       わたしを何と名ざそうといいではないか。

               (ホルヘ・ルイス・ボルヘス『恵のうた』より)




   U   まみよ おもってごらん ぼくと一緒に――パリの空

       秋のおおらかな 時を知らぬ女よ・・・

       ぼくらは心臓を花売り娘たちから買った

       心臓は青く水中で花とひらいた

       ぼくらの部屋に雨が降りはじめた

       するとぼくらの隣人〈夢〉氏が やせこけた小人がやってきた

       ぼくらはカルタ遊びをした ぼくは瞳孔をとられた 

       きみは髪をかしてくれた ぼくはそれもとられた

       かれはぼくらをうちのめした

       かれは戸口から出ていった  

       すると雨も かれのあとから出ていった

       ぼくらは死んでいた でも息をすることだけはできたのだった

       

                   (パウル・ツェラン『フランスの思い出』)



   V   ぼくの掌から秋はむさぼる、秋の木の葉を――ぼくらは友だち

       ぼくらは時を胡桃から剥ぎだして教える――歩みさることを

       時は殻の中へ舞戻る 

       鏡の中には日曜日

       夢の中にまどろむ眠り

       口は真実を語る

       ぼくの目は愛するひとの性器へくだる

       ぼくらは見つめあう

       ぼくらは暗いところを言いあう

       ぼくらは愛しあう 罌粟と記憶のように

       ぼくらは眠る 貝のなかの葡萄酒のように

       月の血潮の光線を浴びた海のように

       ぼくらは抱きあったまま窓のなかに立っている、
       
       みんなは通りからぼくらをみまも
る――
       
       知るべき時!

       石がやおら咲きほころぶべき時

       心がそぞろに高鳴るべき時

       時となるべき時

       いまがその時

                          (パウル・ツェラン『光冠』)




 Tのボルヘスの詩は、シニファントとしての背後、つまり〈裏面の対象化〉を実現している。そしてその圧倒的な現前性は「聖なる戦慄」の語句をもって語られる。

 表(わたし)と裏(死者・他者)を主体が移動するのか、表裏が転倒するのかつまびらかではないが、無意化されていた非存在が、意識の地平に立ち現れることは確かである。テキスト中で二者の「不分割」を明記していることから表裏関係の一体感がこの詩の核の一つとして不可欠であることがわかる。またテキストに記されている「影」も一体化のキーワードとしてあげられ、意味を超えた〈意義〉をもつ。実体の無い影に、意識の統合軸として実体以上の存在感、現前的圧倒性が発生する。

 だが、統合されたTの詩の安定性に較べUは実に不安定である。Uの詩の特徴は表裏の分裂にある。換言すれば二者の人格化といえよう。仮にテキストの〈夢〉氏をシュールレアリストと捉えて、この詩を単なる寓意として処理するのもよいだろう。だがここで明らかにしたいのは、その寓意の奥にある〈意識の表裏の問題〉なのである。つまり、〈ぼくら〉(表層)に隣接する隣人の〈夢〉氏(裏)が〈ぼくらの部屋〉を訪れたとき、裏は表に押し上がる。表(日常的文化)に裏(非文化的原自然)が挑み、前者は潰滅的状況を呈する。覚醒しながら無意識に支配されるという快事が起きる。ぼくらの主体は、〈文化〉に位置するために、非文化から詩人の命(眼)と女の命(髪)が奪われる。実は原自然の生には瞳孔と髪のカテゴリーは存在しない。そこはモードと化した脆弱な知性と美を破壊する、多次元的秩序の美がある。そして、それを捉えた裏面の感得性を直覚しないがために、〈ぼくら〉は生ける屍と化す。モダニズムの終焉と位置づけられる詩である。

 Tのボルヘスの詩が表裏の一体感において認識的であったのに対し、Vのツェランの詩はそれが詩的イメージとして結晶している。Tのような説得力を持たずとも、ここでは象徴的な一瞬として生々と立ち枯れている。それを最もよく表しているのがVにおける次の詩言である。


〈ぼくらは抱きあったまま窓のなかに立っている、みんなは通りからぼくらを見まもる〉

 

 ただこの語句から言えることは、上下の表裏感覚は倒立して内外の領域性に変容しているというかとだ。

 「自然との一致を目指し日本文化には領域を曖昧にする空間認識がある」と原広司はその著書『空間〈機能から様相〉へ』のなかで説いているが、詩言の「抱きあったまま窓のなかに立っている」は外と内の中間に主体を設置し、そこに主体を設定するがゆえに境界としての領域が破壊される。つまり内と外の境界となる窓に主体が存在するということは、その境界自身が内となり、それ以外の空間は全て外となる。従来の内と外は共に〈外〉と認識されざるを得ない。しかし〈窓〉という限りにおいては、そこを境としての客観的な内外は存在するのだから、いったいどこが内で、どこが外なのか、識別不能となる。境界の曖昧さはここに発生する。一方、文化人類学者のフロベニウスは「西洋の文化形態は外に向かう空間意識をもつ」と述べた。その点から考え、ツェランは西洋的文化形態の志向性から逸脱しているといえよう。むしろ日本的志向性つまり自然回帰的な側面を持つ。



      フロベニウスの言う西洋的な空間がもっぱら外に向かう空間であり、それ

に対して砂漠の空間が内に向かう空間だとすれば、日本人の空間は山なみを

境界にして内と外とを均等にもつ空間だと言える。 

                        (山崎正和『文化と環境と芸術と』) 


 

山崎は日本人の空間意識を内と外を均等に持つと考えるが、その境界に関しては次のように記している。



個々の(日本の)建築を見ればその構造がはるかに柔らかであるのは明ら

かである。柱や壁の基礎構造がきゃしゃであるのはいうまでもなく、縁めぐ

らし、開口部を大きくした設計は、建築を外の空間に向かって開いている。

                          (山崎正和/著書名・同上)



以上の山崎の見解は原広司と同様で境界に関しての脆弱性を述べている。これらの山崎の説を総合すると日本的空間意識は「内と外を均等にもつがその境界に関しては弱くあいまい」であるということになる。ツェランのVの詩も、この空間意識と類似性をもつ。〈窓〉という内外の空間認識がありながらもそこに主体を位置させることで境界をあえて曖昧にする。自然に帰一しようとした日本人の意識構造と構造単位でみれば、同一の形態をVの詩は具していると言えよう。ただこの詩が特徴的であるのは、〈夢〉を詩中で語ることによって表裏の二次元性をベースにし、そこに内外の領域的三次元性を導入して多次元空間を形成しているところにある。ツェランの詩的宇宙である。

 今、詩は初めて“荒地”に足を踏み入れ、文化との闘争を開始した。難解、または無理解のもとに抹殺される詩群は、世界のみならず人間の本質まで革命する手法を手に入れようとしている。果たしてそれが、意図されたものか否かは別として…。文化悪に侵された人間に原自然を呼び醒まし、あるいはそれを失わぬために。

 そこで重要なことは、幾度となく繰り返しているが、表に密接する背後の存在である。日常生活のなか「どこかで感じていながら、常に意識化されないもの」。当然それは表層と完全に乖離している深層ではない。詩が、ここに位置したばあい、社会性を喪失し〈失われた原自然〉を啓発し得なくなる。よって深みに納まることなく、最短距離の「背後」すなわち、表と一体化したスタンスをとらねばならない。したがって―まったく見たことも聞いたこともないが、しかしどこかで認知している―という〈詩感〉が必要となる。これは、新感覚派のような文化的了解を容易に得られるものでは決してない。

 〈ただ純粋に感じきるもの。〉

 これに形象を与え、意識世界に開示する。もちろん、非存在の形象化であるがために、直線的理解は得られない。だが逆に無理解のなかで〈どこかで感じ、見ていたもの〉という感得がなされ、意識の〈背後〉との交信が開始される。かろうじて意識で知覚される、まだ未開拓の〈主体=原自然〉である。

 詩人は、この感覚をもとに定型化した〈外界の死〉のなかから、プロト‐ナチュラルを捉え、あるいは逆に〈背後(実はこれこそ表なのだが)の生〉を共感し詩を形成する。詩における必然が、顕在化する決定的瞬間である。











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