うたかたの記 下

定まらない空模様だったが雨は止んで、学校の木立が揺らぐのだけが、曇った窓ガラスを通して見えた。少女の話を聴いているあいだ巨勢(こせ)の 胸に中では、さまざまな感情が湧き上がってきた。あるときは昔別れた妹に逢った兄の心となり、また廃園に倒れ伏したヴィーナスの像にひとり悩む芸術家の心 となり、またある時は、艶女に心を動かされても堕ちないように戒めている修行僧の心にもなった。聴き終わった時には、心の動揺が体にも伝わり、少女の前に(ひざまず)こうとした。少女はつと立ち上がると「この部屋は暑いわ。もう学校の門も閉まるし、雨も()み晴れてきたわ。あなたとなら怖いこともないし、一緒にスタルンベルヒに行きましょう。」そう言うとそばにあった帽子を取り(かぶ)った。その様子(ようす)は、巨勢が一緒に行くことを少しも疑ってはいないようだった。巨勢はまるで母親に引かれていく子どものように従って出かけた。

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眠れるヴィーナス(1510)

ルネサンス期のイタリアの画家ジョルジオーネ作。

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学校の門前で馬車に捕まえて停車場にたどり着いた。今日は日曜日だが天気が悪く、近郷(きんごう)から帰る人も多いがここは静かであった。新聞の号外を売る女性がいた。買って見てみると「国王はベルヒ城に(うつ)ってからは容体(ようだい)もよくなり、侍医(じい)グッデンも護衛を(ゆる)くした」とあった。湖水の(ほとり)に避暑に来て、中心街で買い物を済ませてから帰る多くの人は、国王の噂でざわついていた。

「まだホオヘンシュワンガウ城にいた頃と違い、精神的にも静まったようです。ベルヒ城に遷る途中、ゼエスハウプトでは(のど)の渇きを(うるお)しながら休息を取り、近くの漁師たちを優しく(うなず)きながら見ていた。」と買い物(かご)を下げた老女が(なま)りの強い言葉で読み上げていた。

馬車で一時間ほど走り、スタルンベルヒに着い たのは夕方の五時になっていた。歩いていけばゆうに一日はかかる場所であるが、ただアルペンの山なみが近くなったことだけを感じ、天候も良くなかったが、 胸元を開けて息をしていた。馬車から見える景色は、丘陵がたちまち開け、ひろびろとした湖水が見えてきた。停車場は湖水の西南にあり、東岸は林で、漁村は 夕霧に包まれてうっすら見える程度であったが、山に近い南の方角は一望できた。この辺りの道に詳しい少女に引かれて、巨勢は右手にある石段を登った。 ここはバワリアの庭というホテルの前で、屋根のない場所に石のテーブル、椅子などが並んでいた。今日は雨上がりの後のせいか、人気もなかった。 ウェイターは黒い上着に白の前掛けをして、何かつぶやきながら、テーブルに倒しかけていた椅子を起こして、それを拭った。ふと見ると、片側の軒先に沿ってつた蔓をからませた架(たな)があり、その下に丸テーブルを囲む一群の客がいた。それはこのホテルに宿泊している人たちであろう。男女混じりの中には、先日の夜、ミネルバで見た者もいたので、巨勢は挨拶をしようとしたら少女に押し留められた。「彼らは、あなたが近づく人たちなどではないわ。私はあなたと二人でここに来たけど、恥ずべきなのは、むこうであって、私たちではないわ。見てて、そのうちテーブルから離れて、カップルでホテルに入って行くわ。」しばらくすると美術学生たちは女性を連れ添ってホテルへと入っていった。少女は巨勢に、船は出るかしらと聞いた。流れの速い雲を指して、この天候の悪さでは船は出ないだろうと答え、車でレオニに行こうと言い添えた。

二人は来た馬車に乗り、停車場から東の岸辺を走っていった。この時、アルペンからの風が吹き、湖の上に霧が立ちこめ、今出てきた方を振り返ると次第にネズミ色になって、家や木立の頂だけがひときわ黒く見えた。御者が振り向いて、
「雨が降ってきましたね。幌(ほろ)を掛けましょうか。」
と聞いてきた。
「いいえ、結構よ。」
と答えて少女は巨勢に顔を向けた。
「気持ちいいでしょ。むかしここの湖の中で命を失いかけ、そしてここで命拾いをしたの。それだから、あなたに本当のことを打ち明けるのもここがいいと思って誘ったのよ。幼いころ『カッフェ・ロリアン』で受けた辱(はずかし)めから救ってくれたあなたに、必ずまた会えると信じてから、もう何年経ったのかしら。『ミネルバ』であなたの話を聞いたときの私の喜び。普段興味も持てない美術学生にあのような振る舞いを馬鹿げていると思ったでしょうね。だけど人生、長くはないのよ。うれしいと思ったその一瞬の間に、大きく口をあけて笑っておかないと後悔するもの。」
話しながら帽子を脱ぎ捨て、こちらを振り向いた少女の顔は、大理石に熱い血潮が跳(おど)っているようで、また風に吹かれた金色のその髪は、頭を打ち振って長く嘶(いなな)く駿(しゅん)馬(め)の鬣(たてがみ)のようであった。
「今日なの、今日なのよ。昨日ではしかたないわ。明日やあさってでは意味がないのよ」
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御者(ぎょしゃ):馬車に乗り、馬をあやつって走らせる者。
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この時、二、三粒の雨が車上の二人の衣服に落ちてきたが、瞬(またた)く間に大降(おおぶ)りになり、湖上からは横しぶきが荒々しく打ち付けてきた。薄化粧をした少女の片頬に打ち付けるのを見ていた巨勢の心は、だんだんと空っぽになっていった。少女は伸びあがると御者(ぎょしゃ)に
「一杯奢(おご)るからもっととばして!馬にもっと鞭を加えて!」
と叫び、右手で巨勢の頸(くび)を抱き寄せ項(うなじ)をそらせて見つめあげた。巨勢は綿のような少女の肩に頭を軽くのせた。その彼女の姿から、またあのバヴァリア像が胸に浮かんできた。
国王が暮らしているベルヒ城の下に着いた頃には、雨はいよいよ激しくなり、湖を見渡せば、吹き寄せる風雨で濃淡の縦縞(たてじま)を織りなしていた。濃いところは雨で白く、淡いところは風で黒く見えた。御者は馬車を停めて、
「もうしばらくかかる。あまりにびしょ濡れだと、お客さんたちも風邪を引く。それに古びた馬車だが濡(ぬ)らしすぎると、馬車の主に怒られるからな。」
と言って、手早く幌(ほろ)をかけ、乗り込むと馬に鞭(むち)をあてて急いで走り出した。
雨は降り続け、雷(かみなり)も鳴り始めた。道は林の中へと続き、夏の太陽は、まだ高い時間であったが、林の中の道は暗かった。夏の日に蒸された草木の雨に湿った香りが馬車の中に吹き入り、喉(のど)が渇(かわ)いた人間が水を飲むように、二人は吸い込んだ。雷(かみなり)の絶え間に、臆すことなくナイチンゲールが鳴く美しい声は、寂しい道を一人行く人が、気を紛らわすために歌を歌っているようであった。
この時、マリーは両手を巨勢(こせ)の首にまわし、体ごと持たれ掛けて、木陰(こかげ)から漏れる稲妻に照らされた顔を見合わせて微笑んでいた。二人は我を忘れ、乗っている馬車を忘れ、外の世界を忘れた。

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ナイチンゲール:ウグイスに似た、ひたき科の渡り鳥。
和名はサヨナキドリ (小夜啼鳥)。鳴く声が美しい。
ナイチンゲール
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林の道を抜け出た。坂道を下ると、群(むら)雲(くも)もなくなり、雨も止んだ。
湖の上の霧(きり)は、重ねた布を一重(ひとえ)、二重(ふたえ)と剥(は)ぐように、瞬(またた)く間に晴れて、向こう岸の人家も手に取るように見えた。
木陰(こかげ)の下を通り過ぎるときに、梢(こずえ)に残った露(つゆ)が、風に払(はら)われて落ちるのが見えた。
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このあたりの地図
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レオニで馬車を降りた。左に高くロットマンが丘があり、「湖上第一勝」と題した石碑が建っている。右には、音楽家レオニが開いたという湖面を望む酒場がある。巨勢が両手で支え、すがるように歩いてきた少女は、この店の前に来て、丘を振り返った。
「わたしの雇い主だったイギリス人が住んでいたのは、この山の中腹の家です。老いたハンスル夫婦の漁師小屋もすぐ近くです。わたしはあなたを連れて、すぐにでも行きたいけれど胸騒ぎがしてなりません。この店で少し休ませてください。」しかし、巨勢が店に入り、夕食が取れるか尋ねると「店は7時からです。30分お待ちください」と言われた。
ここは夏の間だけ客があり、給仕の者もその年ごとに雇うので、マリーのことは知らなかった。

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ロットマンが丘:
下記のURLに「ロットマンが丘」が詳しいです。
ここの左の絵にあるのが「湖上第一勝」の石碑でしょうか。
http://hw001.gate01.com/ta1hanai/rottman/rottman.htm

ハイデルベルク出身の画家ロットマンが 「この丘こそ湖の眺望の一番素晴らしい場所」 と褒めたらしいのですが、これが石碑「湖上第一勝」になっているということでしょうか?実際に行って見たいですね。
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音楽家レオニ:
原文では「伶人レオニ」
伶人とは、雅楽の演奏家、音楽を演奏する人、楽師、役者、俳優。
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少女は立ち上がり、桟橋(さんばし)につないだ船を指した。
「舟を漕いだことある?」
「ドレスデンにいた頃、カロラ池で漕いだことがある。うまいとは言えないけども、君ひとりくらいなら平気さ。」
「庭の椅子は濡れてるし、屋根の下では暑すぎるわ。少しのあいだ、私を乗せて漕いでくれない?」
 巨勢は脱いだ上着を少女に被せると小船に乗せ、漕ぎ出した。
雨は止んだが、空は曇っていて、暮色は岸のところまで迫っていた。
少し前まで吹いていた風のせいで、波は高かった。
岸に沿ってベルヒ方面に漕ぎ戻り、レオニの町の端あたりまで来た。
岸辺の木立のはしに、砂地が次第に浅くなり、波打ち際(ぎわ)に長椅子があるのが見えた。
葦の草むらに舟が触れるほど近づくと、人声や足音がして、
木々の間を出て行く者がいた。
身長は180cm近く、黒い外套を着て、手に雨傘を持っていた。
その左側に少し距離を置いて、ひげも髪も雪のように真っ白な老人がいた。
前にいる人物は、俯(うつむ)いて歩みより、縁の広い帽子で顔はよく見えないが、今この木立の間から出てきて、湖水に向かい、しばらく立ち止まった。
そして、片手で帽子を脱ぎ取り、長い髪を後にかき上げ、広い額(ひたい)をあらわにした。
顔の色は、灰のように蒼く、窪んだ目の光は、人を射抜くようだった。
小船の上で巨勢は、上着をはおり、蹲(うずくま)っていたマリーも岸にいる人物を見ていた。
マリーは驚いて、「あのかたは、国王よ!」と叫びながら立ち上がった。
背に掛けていた外套(がいとう)が落ちた。帽子はさきの店に置いたままだったので、
乱れた金色の髪は夏服の肩のあたりにかかっていた。
岸に立っていたのは、侍医(じい)グッデンを引き連れて、散歩をしていた国王であった。
国王は、あやしい幻を見るように恍惚(こうこつ)として少女の姿を見ていたが、持っていた傘を投げ捨て、「マリー」と叫びながら岸の浅瀬を渡り近づいて来た。
少女は、「あっ」と叫び気を失い、傾く小舟から巨勢が助ける間もなく湖に堕ちてしまった。
湖水は、ゆるやかな勾配で、次第々々に深くなり、小舟のあたりで1.5メートル程の深さである。
しかし、岸辺の砂は、粘土混じりの泥状態で、王の足は深く沈み、自由に歩くことはできなかった。
後ろにいた侍医グッデンは、傘を投げ捨て王に追いすがり、王の外套の襟首(えりくび)を摑(つか)まえて、
無理やり引き戻どそうとした。
しかし、王はこれを振り切ろうとして外套の脱ぎ捨てた。
グッデンはその外套を投げ捨てると、なおも王を引き寄せようとした。
すると王は振り返りとグッデンに組み付き、声もださずに揉(も)み合いになった。
本当に一瞬のことだった。巨勢は少女が堕ちるとき上着のすそを握ったのだが、少女は湖水に堕ち、蘆(あし)の間に隠れていた杭に胸を打った。
気絶して沈みかけた少女を小舟に引き上げると岸辺で争っている国王たちをあとにして、もと来た方に舟を漕ぎ返した。
巨勢は少女を助けようと思う気持ちのみで、他のことにかまってはいられなかったのだ。
レオニの店の前まで来たが、ここへは寄らず、すぐ先にある漁師夫婦の自宅へと漕ぎ出した。
日も暮れ岸には木々の枝が生い茂り、入り江には葦のあいだに白い花が咲いているのが、夕闇の中にほのかに見えた。
舟には泥水にまみれの髪がほどけ、藻屑がかかった少女の姿はあまりにも哀れに見えた。
舟を進めると蛍が驚いて岸に高く飛び去って行っくのが見えたとき、マリーの魂が抜け出たのではないかと心痛の思いがした。

しばらく行くと木陰に隠れた漁師の家の灯火が見えた。
近づいて「ハンスルさんのお宅ですか。」と声をかけると傾いた小窓が開き、白髪の老婆が舟を覗き込み
「また水の事故かい。主人はベルヒの城へ昨日から呼ばれてまま帰ってこないが、手当てをしましょう、中へ。」
と落ち着いた声で答え窓を閉めようとした。
巨勢は声を振りたてた。
「水に落ちたのはマリーだ!あなたの娘のマリーだ!。」
老女は聞き終える前に窓を開け放したままで、桟橋のほとりまで走り出て、泣きながら老女と巨勢はマリーを家の中に抱きいれた。
中に入ると板敷きがひと間あるだけで、灯したばかりの小さいランプが釜土の上で微かな光っていた。
壁の粗末なキリスト画は煤につつまれていた。暖を取るため藁を焚き、介抱したが、少女はついに目を覚ますことはなかった。
消えると跡形もなくなる泡のような悲しいこの世をマリーの亡骸の傍らで巨勢と老女は夜を通して語り合った。
西暦1886年6月13日の夕方7時、バワリア王ルードウィッヒ二世は湖で溺れ、年老いた侍医グッテンはこれを助けようとして共に命をおとした。
顔には王の爪あとが残っていたという恐ろしい知らせに、翌日14日のミュンヘンではひと騒動だった。
街の角々では、黒縁の張り紙にこの訃音が書かれ、そのまわりは人山ができていた。
新聞の号外は王の死にさまざまな億節を付けて売られていて人々は争って買い求めていた。

点呼用の制服を身につけ、黒い毛並みのバワリア像を戴く警察官用の馬に乗り、また徒歩での往き来で雑踏はすごい混雑だった。
しばらく人民に顔を見せなかった国王であったが、さすがに痛ましさで憂いの表情の者もいた。

美術学校でもこの騒ぎのせいで、巨勢の行方を心に掛けるものは、エキステル以外には気づかうものはいなかった。
6月15日の朝、国王の棺がベルヒ城から真夜中ミュンヘンに移されたのを迎え、その帰り美術学校の学生が「カフェ・ミネルバ」に引き上げる時、エキステルはもしかしたらと思い、巨勢のアトリエに入ってみた。

すると巨勢はこの三日ほどに相貌が変わり、著しく痩せており、ローレライの絵の下に跪いていた。
国王の死のせいで、レオニの漁師ハンスルの娘が、同じときに溺れて死んだことを、問いかけてくる者もいなかった。