うたかたの記 中

少女が店を出て行くと、ほどなく学生たちは散りだした。帰り道、エキステルに少女のことを(たず)ねてみた。
「彼女は、美術学校でモデルをしている少女の一人で、名前は、フロイライン・ハンスルという。見たとおり
奇怪な振る舞いをするから、気がおかしいという者もいる。また他のモデルと違って裸体にならないのは、身体
に障害があるからだと(うわさ)する者もいる。彼女の経歴を知るものはいない。博学だが性格は常識外れ、しかし(けが)れた
ことはしないので、学生たちには人気があり、友人も多い。そして見たとおり美人だ。」
とエキステルは答えた。巨勢(こせ)は、
「彼女をモデルとして使いたい。アトリエが整ったら来て欲しいと伝えてくれ。」
とエキステルにいうと
「わかった。しかし、もう彼女は十三歳の少女ではない。ローレライの裸体画のモデルとしては使えないぞ。」
と答えた。
「ヌードのモデルはしない、と君もいったではないか。」
「そうはいったが、男とキスをするのを、今日はじめて見た。」
エキステルのこのことばに、巨勢は赤くなった。しかし街灯が暗い「シルレル・モヌメント」のあたりだったので、
エキステルはその巨勢の変化には気づいていないだろう。
ホテルの前で二人はわかれた。

 

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「シルレル・モヌメント」
シラーの銅像のことだと思います。

フリードリヒ・フォン・シラー
(Johann Christoph Friedrich von Schiller, 1759年11月10日 - 1805年5月9日)
ゲーテと並ぶドイツの文豪。詩人、歴史学者、劇作家、思想家。
古くは、シルレルとも表記されていた。
太宰治の小説『走れメロス』のモティーフは、
シラー『人質(die Buergschaft)』だそうです。



ゲーテとシラーの銅像
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一週間ほど過ぎた。エキステルは美術学校のアトリエを用意し、巨勢はそれを借りることができた。
南面に廊下があり、北面の壁にはガラスの大きな窓が半分を占め、隣の部屋とは木綿のカーテンで仕切
られているだけであった。六月の半ばではあったが、旅行などに出かけている学生が多く、隣の部屋は
空いていた。そのおかげで創作活動を邪魔(じゃま)されずにすむことを喜んだ。
巨勢(こせ)はキャンバスの前に立つと、今入ってきたばかりの少女に「ローレライ」の画を指差して語り始めた。
「君に話した絵はこれです。君が楽しげに笑っているときは、それほど思わないのだが、時々示す君の面影(おもかげ)が、
この未完成の人物にイメージが一致するときがあるだ。」そういうと少女は高笑いをした。
「忘れてしまったのかしら。あなたの「ローレライ」のモデル、つまりすみれを売っていた少女は紛れもなく私
なのよ。この前の夜もいったけど。」こういうと少女は、まじめな顔をした。「あなたは私のことを信じていな
いようね。それも無理はないわ。世の中の人が、私は気が狂っているといえば、そう思われてもしかたがないも
のね。」少女の声は(たわむ)れとは聞こえなかった。
巨勢(こせ)は半信半疑であったが、あえて少女にきいた。
 「そんなに自分を()めるな。今でも額に君の唇が触れた感覚が熱く残っている。単なる悪戯(いたずら)だと思い、何度も
忘れようとしたが、気分は晴れなかった。もし(つら)くなければ君の本当の身の上を聞かせてくれないか。」窓の下に
ある小さな机に、カバンから出した新聞、使いかけの油絵の具の筒、粗末な巻きタバコの端が残ったままの煙管(きせる)など
を乗せていた。
その机の片隅に巨勢は(ほお)(つえ)をついた。少女は前にある籐の椅子に腰掛けて話だした。

「何から話そうかしら。ここの学校でモデルをするときも、ハンスルという名前で通したけれど、本名ではないわ。
父はスタインバッハといって、今の国王に評価されて、一時的にも名前の売れた画家をしていました。私が12歳の時、
王宮のウインターガーデンで夜会があり、両親が招待されたの。宴闌(えんたけなわ)という時に、国王が見当たらなく
なり、みんな驚き、移植した熱帯樹が茂るガラス屋根の下、探し回ったわ。タンダルヂニスが彫った
ファウストと少女の有名な石造があり、父がそのあたりに来たとき、「助けて、助けて」という叫び声を聞いたの。声の
する方に向かって走り、金色の丸天井の小さな小屋の戸口に近寄った。すると棕櫚(しゅろ)の葉陰からガス灯の光が、五色
で描かれた窓ガラスを通して、薄暗く妖しげな影をつくりだすその部屋で、一人の女が逃げようとし、それを引きとどめよ
うとしていた王がいた。その女の顔が見えたときの、父の心の動揺はどれほどのことだったでしょう。

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ウインターガーデン:
冬でも植物が育成されている屋外、あるいは温室の中の庭
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それは母でした。
父はあまりのことに、少しの間呆然としたが、「許したまえ、陛下」と叫んで、王を押し倒しました。その瞬間、
母は走り避けたが、不意を打たれて倒れた王は、起き上がると父に襲いかかってきました。体も大きく体力もある
国王に、父は組み敷かれ、そばにあった如雨露でしたたかに打ち叩かれました。
この事を知って忠告した内閣秘書官チイグレルは、ノイシュワンスタインの塔に投獄されそうになりましたが、なん
とかその難を逃れました。私はその夜家にいて、両親が帰るのを待っていた。女中が両親の帰宅を伝えにきました。
喜んで出迎えると、父は担がれて帰り、母は私を抱きしめて泣きだしました。」
少女は黙ってしまった。今朝からの曇り空は雨にかわり、時折(ときおり)窓を打つ(しずく)の音が聞こえた。巨勢(こせ)が話だした。
「王は狂人となり、スタルンベルヒの湖の近く、ベルヒという城に(うつ)されたと、昨日の新聞に載っていたが、その頃
から兆候があったのだろうか。」
 少女が言葉を継いだ。「国王は国の中心部から離れ、辺境の地に住み、昼間は寝て、夜起きるというのが習慣になっ
ています。ドイツとフランスの戦いの時、カトリック派が国会で勝ち、プロシア方につき、王が年を取るにつれて、
暴政(ぼうせい)の噂が広まり、陸軍大臣メルリンゲル、大蔵大臣リイデルなど、理由なく死刑にされたのは、誰もが知っているこ
とです。王が昼寝をしているときは、誰もその場から退けられるのですがが、うわごとで「マリー」と何度も言うのを
聞いた者がいるそうです。私の母はマリーといいます。望みのない恋は、王の心の病を更に悪化させたのかもしれません。
母は私に似ているそうですが、その母の美しさは宮廷内でも及ぶものがいなかったと聞きます。」
「父はそれから間もなくして、病気で亡くなりました。友人も多く、気前も良く、そして世間には極めて(うと)かったので
財産は呼べるものは全くありませんでした。その後ダハハウエル街の北部に移り、屋根裏の二階を借りて住んでいました
が、母も病に倒れました。このような時に、人の心は移り変わっていくのですね。苦しいことばかりが続き、幼かった
私は世の中の人を憎むようになりました。年が明けた一月、謝肉祭の頃です。家財衣類も売りつくして、食べてことも
ままならない状況でした。貧しい子どもの群れに()じって、私もスミレの花を売ることを覚えました。母が亡くなる直前の
三・四日程を無難に過ごせたのも、あなたの恵みのお陰です。」
「母が亡くなった後は、上の階に住んでいた裁縫師が世話をしてくれました。哀れな孤児(みなしご)を一人にしてはおけないと迎えられ、
その時は喜びました。しかし、今思い出すと悔しいことです。裁縫師の二人の娘は、好奇心が強く、何かと自分を誇らしげに
振る舞いました。迎えられてから様子を(うかが)っていると、夜によく来客がありました。酒を飲み、笑い、(ののし)り、そして歌を
歌ったりしていました。客は外国からの人が多く、あなたの国の学生もいました。ある日、そこの主人が私にも新しい服を着ろ
と言いました。そのとき、私を見て笑っている主人の顔は、なんとなく恐ろしく、子ども心にも嬉しいとは思いませんでした。
昼過ぎ頃、四十くらいの見知らぬ人が来て、スタンベルク湖へ一緒に行こうといい、裁縫師の主人もそれを勧めました。生前、
父に伴われて行った嬉しさを忘れられず、しぶしぶ承諾すると、「ほんとにいい子だ。」と皆が誉めてくれました。行く途中、
その男は優しくしてくれました。『バワリア』という船に乗り、レストランで食事をしました。そこでお酒をすすめられましたが、
飲み慣れてもいなかったので、断りました。ゼエスハウプトに船で着いたとき、その人はまた小船を借り、これに乗って遊ぼう
と言いました。暮れはじめた空に心細くなった私が、もう帰りましょうと言っても、聴かずに漕ぎ出し、岸辺沿いに進み、
人気(ひとけ)のない(あし)の茂ったところに着いたとき、男は舟を停めました。私はまだ十三でしたから、初めは何事もわからず、男の顔色
も変わりだして恐ろしく、私は湖に飛び込みました。(しばら)くして、気がつくと湖の(ほとり)の漁師の家で、貧しげな夫婦に
介抱されていました。私は、帰る家がありません、と言い張って、一日、二日と過ごすうちに漁師夫婦の純真で飾気(かざりけ)
ない人柄(ひとがら)に馴染み、自分の身の上を打ち明けました。哀れに思った漁師夫婦は私を娘として育ててくれることになりました。
ハンスルという名は、その漁師の名前です。」

「このようにして漁師の娘となりました。しかし、私には舟の(かじ)を取るほどの体力はなかったので、レオニに住む裕福な
イギリス人に雇われて家政婦をしていました。カトリックだった養父母は、イギリス人に使われることを嫌いましたが、
私が読み書きができるようになったのは、そこにいた女性教師のお陰です。四十過ぎの未婚の女性で、高慢(こうまん)なイギリス人の
娘より、私を愛してくれて、三年ほどで女性教師の書物を全て読んでしまいました。でも読み間違えも多かったと思います。
また、書籍の種類もまちまちでした。クニッゲの交際法もあれば、フンボルトの長生術もありました。ゲーテやシラーの詩を
唱えたり、ケーニッヒの文学史を読んだり、ルーブルやドレスデンの美術館の写真をひろげて見たり、テーヌの美術論の翻訳書を
あさったりしました。」

「去年、イギリス人の一家が帰国した後、どこかの貴族のもとで働こうと思ったのですが、身分不相応で雇い入れてはもらえま
せんでした。ふとしたことで、この美術学校の教師に見出され、モデルをするようになり、許可証も取れたけど、私をスタインバハ
の娘だと知る人はいません。今は芸術家たちに混じって、ただ面白くその日その日を暮らしています。グスタアフ・フライタハは、
さすがに嘘はつきませんでした。芸術家ほど行儀の悪い者はいません。独り立ちして芸術家たちと仕事をするということは、一瞬の
油断もできません。なるべく彼らを避けようとして、あのような不思議な振る舞いをしているのです。時には自分でも気が狂っている
のではと疑うときがあります。レオニにいた時に読んだ本の影響かと思いますが、世の中で博士と呼ばれる人は、いかなる狂人な
のでしょう。私を狂人と(ののし)る芸術家は、自分たちが狂人になれないことを憂うべきね。英雄豪傑、名匠大家となるには、
多少の狂気が必要なことは、ゼネカやシェイクスピアを持ち出す必要もないわ。博学でしょ。狂人に見て欲しい人が、狂人ではない
ことを見る、その悲しさ。

狂人にならなくてもよかった国王は、狂人になったと聞きます。それも悲しいことです。悲しいことのみが多ければ、昼は蝉と共に泣き、
夜は蛙と共に泣き、けれど(あわ)れに思ってくれる人は、誰もいない。あなただけは、無情に嘲笑することもないと思い、素直に話しを
しているのです。(とが)めるようなことは言わないで。これも狂気なのでしょうか。」