歴 史 今 昔



参道と本堂  慈眼寺は正しくは普門山 慈眼寺(ふもんざん じげんじ)といい、福井県の曹洞宗のお寺です。

 嘉慶元年(1387年)に天真自性禅師(てんしんじしょうぜんじ)によって開創されました。

 ご本尊は十一面観世音菩薩です。

 盛時は七堂伽藍を備え、寺内に塔頭十七ヶ寺を従えており、諸国に千二百ヶ寺の末寺を有していましたが、

 長い歴史の中で、たび重なる火災や寺領没収など様々な難に遭遇し、姿を変えて今日に至りました。

 緑深い杉木立の参道が、往時の幽玄な寺の様子を偲ばせます。

 歴史と、数多くの伝説を残し、雪深い山の古寺は信仰ある人々に支えられ、今日に至っています。



額の左に消された跡が

寺の歴史の中で

アラッと思うエピソード「その1」

現在、福井市郊外の一乗谷には立派に復元された朝倉氏遺跡があります。朝倉氏一門と慈眼寺がかかわった事件が二つ。相続争いの中で、側室の子、次男孝景が、正室の生んだ三男教景を投げ殺し、御家騒動が起こりました。追っ手から逃れてきた朝倉孝景がこの寺でかくまわれていた史実が、慈眼寺の山門に掲げられた額の左に刻まれています。でもそれは後から黒く塗りつぶされ、消された跡が有り、興味をそそります。二つ目の事件は次回に。

あさがお

寺の歴史の中で

アラッと思うエピソード「その2」

織田信長が越前朝倉攻めの際、福井県敦賀の天筒城・金ヶ崎城を陥れた話がドラマ「功名が辻」で平成18年3月に放送されました。福井の一乗ヶ谷への道案内を約して一命を助けられる敦賀郡司、朝倉景恒が今回の主人公です。
景恒はもともと僧籍に入っていたところ、兄たちの死によって還俗させられ、にわかに家督を継いだ人物です。敦賀落城した日、親しんできた城下の民衆が、織田軍に対し、喜んで先導する様を見た景恒は、人心の離心軽薄を感じたようです。
その直後、浅井長政の裏切りを知った織田軍が、慌てて撤退しますが、景恒は報告のために福井の朝倉宗家へ向うことをしませんでした。途中から道筋を変え、慈眼寺の門を叩き、禅僧にもどりたいと願い出たそうです。
それから数年後、栄華を誇った越前の名門朝倉氏は、信長軍に滅ぼされます。僧侶に戻っていた彼は慈眼寺僧堂の中で、一族滅亡を知らされます。
もしも、景恒があと二日も金ヶ崎で籠城を続け、信長軍に抵抗していたら、日本の歴史はどうなっていたでしょう。あの信長や秀吉や一豊等は挟み撃ちにあい、滅ぶ可能性が生じてきます。
その後、ひそかに景恒は禅僧として一族の霊を慰め続けたと思われます。

鐘つき堂と本堂西側

寺の歴史の中で

アラッと思うエピソード「その3」

数年前にNHKで放送された大河ドラマ「利家とまつ」を覚えていますか?府中三人衆(不破光治・佐々成政・前田利家)が越前府中(現在の武生市)を治めていた時代がありました。三人の署名入りで、慈眼寺に霊供米として弐拾壱石を保証するとした安堵状(あんどじょう)が残されています。昔々、はるばると山奥の寺まで家臣が書状を届けてくれたのでしょうね。日本の歴史に名を残す武将達が若き日に行ったまつりごとの一片です。

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