知多の鉄道 よもやまばなし
白井 昭
2003年3月9日 知多市歴史民族博物館 ふるさと歴史・文化講座より
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長浦海岸のシンボル・タコ
1.産業考古学とは
- あらゆる産業の歴史を科学としてとらえるもので、鉄道考古学もその1つ。
- イギリスで始まり、日本産業考古学会、産業遺産研究会などがある。
- 世界最初の電子計算機−−産業考古学の対象。
- 分からないことが多いから面白い−−謎解き。
2.知多の交通・明治中期まで
- 江戸時代〜明治中期 人・ものとも海上輸送が中心。
- 武豊線
明治19年開通。中部地方では最初。海運と鉄道建設を結ぶ。
武豊〜名古屋 : イギリス製SL、単線、工事用の性格。
ほかに陸上交通(乗合馬車など)は無く、極めて早い時期の開通。
その遺構 : 亀崎駅舎、半田の跨線橋(明治中期)
- 東海道本線は1889(明治22)年7月1日、全線開通。イギリス製SL、単線。大部分が2軸の客貨車(マッチ箱)。
- 明治期−−人力車。
- 乗合馬車−−19世紀より欧州・郵便馬車、アメリカ・駅馬車
当地方では少数派、明治期に大須〜横須賀、武豊〜内海、半田〜大野、鉄道駅に連絡。
6人乗り程度で各町史の記録もまちまち。
大正8年頃、常滑線大野(?)から乗合馬車で〜岡田〜阿久比へ通った例。
- 鉄道馬車−−明治中期に岡崎馬車鉄道。千種〜八事は明治末に電車になる。
当時のCMソング 「鉄道馬車は速いな〜ステン所のほうへ」
3.私鉄の開設
明治30年頃より関西線、尾西線、豊川鉄道、名古屋の市内電車など。
この頃当地では私鉄が多かった。関西線も私鉄だった。名古屋の市電は初めから複線。
4.愛知電気鉄道(愛電)
- 電気事業と電車を併営
名和、日長に発電所−−電灯と電車用。
電源は八百津水力発電所などから交流、高圧送電。電力は火力→大型水力の時代。
- 電灯は知多〜鳴海・笠寺・有松・大高一円に送電。知多半島に初めて電灯がつく。
明治゙45年2月〜のちに知多全域に拡大。
- 変電所〜トランスと回転変流機(直流600Vを出す) いずれもアメリカ・ウエスチングハウス製。
- 電車:電1形 1〜8号 木造2軸車
明治44年、熱田 日本車輛製。台車・電気品はイギリス製。
長さ10.5m、自重13トン、50人乗り、側面10枚窓、ドア無し、ポール集電、空気ブレーキ無し(手巻きブレーキ)
- 同じ頃に開通の犬山線、一宮線などは複線で電車も50両程あった。
そちらは港の名古屋電車製作所で作り、常滑線は日本車輛で作った。
5.常滑線
- アメリカに次いで東京、関西でも「郊外電車」の出現。
明治40年頃〜阪神電車、南海電車(SL)の電車化。
山手線、京浜電車−−いずれもボギー電車。
- 当地は更に遅れ、明治末頃より郊外電車。
美濃町線、津島線、犬山線、一宮線、常滑線ができた。
瀬戸線は明治38年に蒸気で開通後、電車化。
どれも2軸電車−−マッチ箱・チンチン電車−−東京、関西より小形で振動大。
運転本数を増やすには小型車となる−−利便性。
- 常滑線は明治45年2月、伝馬町〜大野町開通。
- 明治45年5月、付随車(モーター無し)4両を増車、2両連結運転も。
付1形、車両番号9〜12(推定)。
- 大正2年には大野町〜常滑延長と、東海道本線をオーバークロスしていまの神宮前へ乗り入れ、熱田駅の連絡線を作り貨車の乗り入れを始めた(連絡運輸)。
貨車1両を電車で引いた。
- 大正2年夏、電2形6両(推定12〜18号)うぃ日本車輛で、大正3年、社有貨車10両を大阪で新造。
- 連結器の変更
電1、付1形はピン式連結器だったが、官鉄の貨車とつなげたいので電2は官鉄と同じチェーン式連結器とし、多の車輛も大正3年に変更した。
チェーン式(緩衝器付き)−−明治村のSL、欧州では現在も使用中。
- 常滑線の貨物輸送
常滑の焼き物、岡田の織物を主として、以後、各駅に側線を設け、あらゆるものを輸送した。
トラックも無い当時、1両8トン貨車の運ぶ貨物は各町にとって大きな存在であった。
神宮前−熱田の連絡運輸により全国の貨車が入り、社有貨車も全国に送られた。
また、大正9年より郵便車を走らせ、郵便の輸送を行った。
- 有松線
大正6年、神宮前〜有松(裏)開通。
- 常滑線の改良
大正8年、長浦〜新舞子で5と15(?)が衝突、以後、5を欠番とする。直ちに、複線化を進め、大正末にはほぼ完成(大野町まで)。
大正10年、電3形ボギー電車、20〜26(25欠)新造。のち1020形となる。
はじめて空気ブレーキを採用、チンチン電車から気笛となる。車体のみ日本車輛。台車、電気品、ブレーキはアメリカ製。以後昭和5年ころまで電機、ブレーキはウエスチングハウスを使う。
複線化、ボギー化でスピードアップ、増発が図られた。
20形は初めは新線の有松線に使ったが、電5以降の増加で間もなく常滑線にも入った。
- 大正12年、常滑線の岡田支線を計画したが成らず、今はバスが走っている。
- 大正14年、電車、機関車、貨車を全車自動連結器に取り替え。
- 大正末までに電5〜電7など多数のボギー車を増備するとともに、古い2軸電車の売却、廃車を進めた。
- 昭和2年、全通した愛知電気鉄道の豊橋線は電力を直流1500Vで開通、神宮前構内だけ600Vのままであったが、昭和4年、常滑線も1500Vに昇圧し、パンタグラフ集電とした。これにより600V用電車は使えなくなったため、ボギー車も全部西尾線に回された。
鋼製クロスシートの新型車は主として豊橋線に、木造ロングシート車は常滑線に回された。
6.知多鉄道(河和線)
- 愛知電気鉄道の関連会社、神宮前直通運転。昭和6年、太田川〜成岩、複線、1500V、高速用、緩いカーブ、大型の37kgレール。
910形電車8両、鋼製クロスシート、時速80km/hあまり、技術的には愛知電気鉄道と共通設計。3200形に似るが、電機品も国産化、パンタ2基付き。昭和6(皇紀2591)年製。
- 昭和10年夏、河和駅完成。海路に連絡、売り出す。神宮前〜河和急行運転。
浦島、乙姫、四海波など夢のある停留所が生まれた(今は廃止)。
- 同年名鉄となり、昭和12年には流線型3400形も使用、100km/h運転。
電車は名鉄と共通かし、910形も正月には豊川鉄道へ応援に行った。
昭和17年、950形3両新造→名鉄へ。
- 昭和8年、武豊線ではSLに代わりガソリンカーを運転して対抗した。
- 太田川駅→太田川の変更は知多鉄道の頃から?
7.常滑線の観光・住宅
- 大正元年夏、大野海水浴場
- 大正5年、聚楽園にボタン園と臨時駅
- 大正7年、日長海水浴場
- 大正14年、舞子文化村
- 大正末〜昭和初年、 新舞子・水上飛行機、東大水族館、舞子館。
- 聚楽園の大仏
- 昭和初年、長浦のタコの像、戦後まで名物に。
- 昭和7年、富貴、河和口海水浴場
- 昭和12年、長浦住宅
- 昭和30年、巽ヶ丘住宅
8.貨物輸送と支線
知多の各鉄道は乗客の輸送以上に貨物輸送に貢献した。多数の支線、側線、貨物ホームなどが設けられた。
- 常滑駅は開業以来昭和30年代まで貨物が主役の駅で、多くの貨車が留置され、ホームは焼き物で埋まっていた。
貨車も陶器車(ポム1形)や家畜車(パ100形)までいろいろなものが常滑から日本全国に貨車直通で送られていった。
ポムの「ポ」は「ポースリン(陶器)」の「ポ」。ムは15トン車。
- 大正13年、築港支線、(入力途中)
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白井 昭:
大井川鐵道株式会社顧問,産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.
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