制御器史余話

2007年7月

白井 昭(名古屋レールアーカイブス)

1.はじめに

 電車の制御技術はながらく鉄道サイバネテックスの主役であったし、古くは世の中の制御技術史の源流をなした一面もあるので、このような昔話に貴重な紙面を借りることをどうかお許し願いたい。
 本稿では電車の総括制御について出来るだけ時系列的に書き残したい。体系的な究明が難しいため、断片の積み上げとして記すしかないが流れを汲み取っていただければ幸いである。読者におかれては日米の調査により補遺訂正をいただき、少しでも本稿を体系的な歴史記述に近づけて行くことに力添えをお願いしたい。

2.世界初の総括制御電車 

 世界初の総括制御電車(EMU)は1898年シカゴのサウスサイド高架鉄道(今はシカゴ“L”の一部)で180両のSL客車を電車化して生まれた。車両はオープンデッキの客車のまま運転台や電機品を取り付けた。写真−1はスプレーグによる総括制御の試験風景である。この実用化により鉄道は無煙化、高加速、及び長編成化を達成した。
 この制御器はスプレーグのK3形電動ドラム(写真−2)で単車のドラム形制御器を横にしてパイロットモータで回したような仕掛けであった。制御回路は限流継電器(CLR)による自動進段(図−1)となっている。抵抗器・空制機器を床下ヘレバーサをシート下へ取り付け、駆動電動機はGE社製であった。
 写真−1 総括制御の試験風景
 (出典:"Chicago's rapid transit", 1973)
 写真−2 K3電動ドラム
 (出典:"Chicago's rapid transit", 1973)
 図−1 スプレーグ電動ドラムの制御回路
 (出典:"Electrical Traction", Wilson&Lydall, 1907)
 1900年からは新造によるEMU化が進み、制御器もスプレーグD-6、D-14形へと改良され、これらは換装なく長く使われた。
 NY高架鉄道も初めはスプレーグだったが、1903年より全てGE社のMコントローラ、WH社のABコントローラによる新造となった。
 なお、スプレーグが用いたドラム式総括制御は、戦後の日本でも目立MMD、東洋電機ES200代など各都市のトラム用として作られたが、普及しなかった。

3.Mコントロール

 シカゴのレイクストリート高架鉄道の電車は最初GE社の直接制御によったが1901年にEMUに換装される。その制御はスプレーグではなくGE社初の総括制御Mコントロールを採用し、進段は手動であった。このEMUは1905年に更にM自動進段へと換装される。
 初期の手動進段Mのマスコンとしては細長いC6(写真−3)が多いが、C6は直列5ノッチ・並列5ノッチで現存している。
 Train Wireによる総括制御の特許はスプレーグが持っていたためMコントロールは特許戦争を経てSprague-GE ・ M コントロールと称するに至る。
 Mコントロールは主回路に電磁スイッチを並べた
もの(図−2)で、以後アメリカ、英国、欧州に普及する。スイッチ箱は床下、床上機械室などに置いた。
 写真−3 C6マスコン
 (出典:Schenectady Museum)

図-2 Mコントロール(出典:Schenectady Museum)
 その後、出力、制御段数、渡り(日本では初期に「移り」と呼んだ)、機器寸法など多様に発展した。公式の形式区分はMマニュアル、Mオートのみで、マスコン形式を付してM-C6とするくらいである。スイッチグループの形式が判明しなかったり判っても(DB15など)系統的な番号となっていないせいか不完全にしか仕様が追えず、研究者泣かせと言える。
 省電モハ1(写真−4)の制御器はC36付Mであった。そのCLR(写真−5)は運転台に置かれていたが、周辺の様子を伊那松島の復元により窺うことが出来る。モハ1の私鉄譲渡により、この制御装置は名鉄モ3100形、三信301形、大井川モハ300形等となって後世まで使われた。
 MコントローラはGE社の商品名であるが、後にはGEライセンスで欧州や日本等のメーカが作ったものもある。電磁スイッチ式という点では横軽のELであるEC40やED40もこの仲間と言える。
 写真−4 省電モハ1
 (出典:国鉄歴史辞典, 1973)
 写真−5 モハ1のCLR
 (出典:東京横浜間電気工事記念写真帳, 鉄道院)

4.ABコントロール

 WH社のABコントロールは電空単位スイッチを並べたスイッチグループを14V電池による電磁弁(MV)で制御するもの(図−3)で、後にNY地下鉄に数千両使われたABFの元祖である。 ABは空気配管があるだけMコントローラより機構が複雑で電池のお守にも手間がかかるため、駆動電動機出力が大きいほど有利となるが、GE社のMより近代的でありMと並んで普及した。最初のABは1905年シカゴ等に納入され自動進段でマスコンはハンドル操作面が垂直なWH11だった。 WH社は総括制御の初期方式としてスイッチを円形に配置した夕−レット形も試みたが標準化するに至らなかった。
 WH社の電空単位スイッチ式は、進段の自動(A)と手動(H)、制御電圧を得る方式(線電圧L、電池B)、弱め界磁付(F)などにより多様な展開を遂げて行く。 トラム用としてよりシンプルなHL(写真−6)は、1911年に出現し時代遅れの感のあるMをリードして行く。

図−3 ABコントロール(出典:"Electric Traction on Railways", Philip Dawson, 1909)
 写真−6 HLコントロール
 (出典:Westinghouse Electric&Manufacturing Company, 1916)

5.万能マスコンC36の出現

 マスコンの王様C36(写真−7)は1907年にGEより作られたが、小型軽量、戻しバネ付き、逆回し後進で使い易く、丈夫で長期大量に作られた。ノッチ数や吹き消しコイルなどのバリエーションも多い。
 C36の制御電源は、14から32V、100V、線電圧と万能である。自動進段なら何でも使えるためアメリカではWH系のABFなどにまでC36が使われている。
 なお、これら初期のEMUは木造電車ではあるが、すでにWHのAMP、AMRなどの自動ブレーキを備えていた。空制の歴史については中部産業遺産研究会発行「産業遺産研究9」に載せた白井著「AMPからHSCまで」を参照されたい。
 以上このあたりまでのテキストは、私の電鉄技術史の恩師、元CTAの故グランブルス氏から学んだものを元に多くの資料から組み立てたので、完成したものとは言えず今後の検証をお願いしたい。
 日本ではモハ1にC36マスコンが用いられ、モハ10のPCにはC36の流れを汲むMC1が国産化された。制御電源の100 V化によりマスコンは省形式MCIAとなり補修も含め群小メーカでも作られ。ユニバーサル化した。 MCIAは1970年頃まで作られ空制におけるK三動弁に並ぶもの・・・・・生きた産業遺産と言えるものである。
 写真−7 C36マスコン
 (出典:東京横浜間電気工事記念写真帳, 鉄道院)

6.バッテリーと線電圧

 制御電源は、GE社のMは線電圧を、WH社はバッテリーを主力とした。
 電車の予備灯にはバッテリーが必要だが、特に地下鉄では予備灯が重要だった。これを利用して主回路の制御をすれば楽であるがバッテリーの管理が負担となる。アメリカの地上サードレールでは多雪時接触不良により電磁スイッチがジャンプしたがそれでも電制の無い時代は致命的でもなく、バッテリーが不可欠とも言えなかった。結局、地下鉄はMが線電圧、ABFがバッテリーと別れたのに対し、地上ではALF・HLなど線電圧が多くなった。
 私は名古屋鉄道在籍当時、多くの1500VHL車(写真−8)を扱った。マスコンの5又は51線へ1500Vが来ていたがそれが怖くはなく、むしろ各電鉄とも運転士がリセットスイッチのアークでタバコに点火、リセット抵抗を焼くのに困っていた。
 南海の故西敏夫氏の話ではHB車(マスコンはWH12)はHL化してELへ転用した。
 NYでは1910年代、MをHV車、バッテリー車をLV車と呼んでいた。
 線電圧が1200V、1500VとなってもGE社、WH社ともダイナモーター(発電動機)の中間タップを利用したため、制御回路としては600VのMやAL ・ HLと変わらなかった。 1914年開業の京浜線電車運転(モハ1)も600Vと1200Vを直通したため、1200V区間ではダイナモータによって600Vを制御回路へ供給していた。
 MGは1920年頃からであるが、普及は日本が早く、アメリカでの普及は1930年代からでそれまでバッテリーの伝統が永かったのでMGとなっても出力電圧は32V等が多く制御回路も戦後まで32V等が多い。 戦前の銀座線ABFはバッテリーであったが、日本の主流はMGだった。そのため、戦後1955年頃からMGによるフロートチャージ(浮遊充電)が増えても、出力は1920年代以来の100Vが多いのが特徴である。
 写真−8 名古屋鉄道HL車
 (筆者撮影)

7.混結の時代

 アメリカの大電鉄では早くから異なる制御方式の混結に迫られた。自動進段どうしでは容易だが、手動と自動、電源カ式を含めた多様なニーズに応じたあらゆる混結が工夫された。
 当時のWH社のALMは、WH社のALとGE社のMを混結出来ることを表しているが、シカゴ4000形(写真−9)のようにABFLMコントロールまで現れた。
 写真−9 シカゴ4000形
 (出典:"Chicago's rapid taransit", 1973)

8.トラムのMU化

 1890年代より全米に広がったトラムは都市の拡大と乗客の増加でMM、MTM、3M運転が求められ、各地でMU化された。トラムは手動進段が好まれ、サンフランシスコなどは輸送カを付けるためHLのMM運転が多く行われた。
 ロサンゼルスPE(パシフイックエレクトリック)では、1905年の500系より数百両がマスコン形式WH12(S5、P3)でMU化され次のALFともに活躍したが、1930年頃からマイカーのため斜陽化していった。Mコントロールもトラム用手動進段が増え、トラム用の小型PC、PCMも加わり、PEでは1935年からの高加速PCC時代になってもPCCのMM、3Mが走っていた。

9.第2の革命期

 1900年のMU化を第一の革命とするならば1910年代には成熟した第二の革命期がアメリカにやってきた。 ALF、ABFのような多様化が進むとともに、標準化・ユニット化の潮流も出て来る。
 GE社はMKによりHLへの対抗を図る。 MKは進段を手動に制御段数も減らし逆転器を制御器箱に内蔵してMをシンプル化したが、更にオーバーロードリレーも取りこんで単独のCBボックスを廃止しワンボックス化を実現する。 このような標準化・ユニット化が広く行われ日本の電鉄にも影響を与える。
 少数だがDC1200V、2400Vや交流電カの線区が現れ、大都市ではEMUの10両運転が実現した。
 一般的な電車に界磁制御が普及し、GE社は古典的Mコントロールから近代的なPCに進むなど、この時期に多くの進化があった。
 この期の日本は初めてMU制御の電車を購入し技術的には当然ながらアメリカの流れの末端にあった。

10.NYの電鉄

 NYでは1871年の高架SL鉄道以ま高架鉄道が増え、1903年から高架電車化か進んだ。 SL客車の電車化から始まり、制御はスプレーグからM、ABの併存となった。 1920年頃には高架のヌードルインターチェンジ(写真−10)が生まれた。
 NY地下鉄は1904年の開業まり発展し、複々線、急行運転、1914年からのAMUEブレーキにまる10両運転は世界をリードした。東京より40年ほどの先行である。地下鉄の車両数は1920年代で5000両を超え、ロサンゼルスPEの3000両を超えた。電車の発注ロットも数百両単位で当時の日本とは桁違いであった。
 運転面では、1910年ごろより車掌のワンマン運転化のため自動扉(NYではMUドアと呼んだ)を採用、1914年から3扉両開き、1930年には4扉両間きとなり戦後目本の通勤電車のモデルと言える。しかし、都市への人口集中は常にその満員を漫画の材料にされた。
 アメリカの車両電機メーカはGE社とWH社がメジャーのためNYもこの2社を併用した。WH社は1914年よりABFを採用、戦後のABSまで長期大量に使用した。 GE社は長らくMオートを使い続けPC化か遅れたが1920年代からはPC15とABFの併存となった。古いMは戦後大量にMCMに換装され1970年頃まで使われた。
 丸の内線300系(写真−11)の床下機器がNY地下鉄のR10系の床下機器をコピーしたことは有名な話である。300系は斬新なデザインとあいまって戦後の電車技術革新のシンボル的存在となる。
 写真−10 ヌードルインターチェンジ
 (出典:不明)
 写真−11 丸ノ内線300系
 (出典:諸河フォトオフィス)

11.ロサンゼルスはPEが作った

 車の町LAは1930年頃まではパシフィックエレクトリック(PE)という私鉄が作り上げた。LAのトラムは1874年の馬車鉄道から始まり、1886年に電車が走ったが、1901年PEの設立後路線のネットを広げて今の広いLAの町を作り上げていった。 1920年代には路線が2000km、車両が3000両と世界最大のトラムを形成する。
 最初は直接制御であったが、1912年頃からEMU化され2〜5両くらいの連結運転を行った。電機品はWHが多く制御は1912年頃を境にWH12(HLと同等)からWH21(ALF)へ変わっている。このALF車は保存連転があるが、私が自分で運転したところHL車に比べて迫力に欠けるようである。
 ちなみに、WH社がスイッチ制御の形式を制定するまではシステムをマスコン形式(12、21)で呼んでいたため、制御方式を後から推測し難い。

12.多様化と標準化

 WH社ではHLを発売するころスイッチ制御の形式呼称を、自動はAL、ALF、AB、ABFなど、手動はHL、HLF、HB、HBFと整理した。これにマスコンやスイッチグループの形式を加えるとALF21(PE)、HL15-272(名鉄)のごとくよりわかりやすくなった。アメリカの研究者には形式制定前の古いものもHL等と呼んでいる人もいる。
 アメリカの大都市では自動進段に集約されたが、地方の中小電鉄ではシンプルな手動進段が好まれた。このマーケットにおいてWH社が主導してHLを標準化し、コストダウン・保守の統一を回り、GE社もMK(写真−12)で対抗した。
 1911年ごろはHLとMKが競争して発売され全米の外カナダなど世界中に広まり、日本へも伝わることとなる。
 写真−12 MKコントロール
 (出典:Schenectady Museum)

13.HLとMKの日本への導入

 HLやMKの特色は、全てをできる限り簡素化したことから日本の中小私鉄でも保守できることだった。
 1910年代にはMKが阪神・阪急・近鉄・南海に入り関西はMK天国となったが、EMU化の遅れていた関東の私鉄にはなかった。MKは手動のため床下機器にマスコンのノッチ数を合わせたことから、マスコン形式を付してMK-C87のように呼んでいた。
 国電関係では院電のボギー車(マスコンはC-71D及びC-87B)がMKを用いたが、甲武電化の電車は手動M(C-14マスコン)であってMKとは言わない。
 1920年代には多数のHLが日本へ輸入された。HL多用の例は小田急、京王、玉電、名鉄などである。戦後これらの多くの制御電圧を100V化するが、社内でHBと称したところとそのままHLと呼ぶところがあった。

14.日本におけるHL・MKの発展

 中小私鉄が用いたHLやMKはシンプルな標準品が多かったが、緑区によってHLやMKの高級品も用いられた。
 近鉄奈良線は1914年に大阪電気軌道として開業するが、電車デボ1は生駒越えの連続急勾配を乗り切るため123kWX2の大出力車であり制御装置のMKも多くのRスイッチと橋絡渡りを備えていた。写真−13はこの電車がモ200形と呼ばれた時代のものである。近鉄五位堂工場の保存車にMKの現物も残っている。1922年には弱界磁付きMK、1932年には改造により電制・弱界磁付きMKも使われた。
 箱根山の急勾配では1935年から芝浦製の電制付きMKが使われた。近鉄のHLFは勾配用にRスイッチが多くなっており、神戸電鉄などでは抑速電制付きHLが使われた。
 名鉄ではカム車をAL車と呼び、近鉄で6301形のABFをALFと言った。国鉄工場でも戦後の電動カムをPCと呼んでいた。これらは慣習とは言え米国の技術系譜を理解していなかったことが背景にある。また、名鉄はHLのスイッチグループを使ってALF化ヒするため、モ3750形2両で試作を行ったが普及しなかった。
 HL発売当初WH社は小型ELにHLを推奨するが日米ともあまり使われなかった。 EF52に始まる鉄道省国産ELはWH社のEF51あたりをモデルとしたが、これらELは単位スイッチを用いてもHL・HBFの標準規格とは一線を画したため、小型のED22でもHLとは呼ばれなかった。
 写真−13 モ200形電車
 (筆者撮影)

15.PCコントロールの出現

 1914年ごろ開発されたGE社の圧搾空気式カム制御器PCは、床下機器のユニット化・小型化と高信頼性を実現して、電車制御器の技術を画することとなる。
 MコントロールのCLRは重力式(重力でオフ、電磁力でオン)で応答も悪かったが、バネと電磁力をバランスさせるPCのCLR(写真−14)は近代的で優秀な作品であった。
 PC10はNY、シカゴほか各地で使われるが、最初は試行的に導入された。やがてNYはPC15、シカゴはPC10を制式化すると両数を増やし、1945年ごろまで数千両が主役として活躍した。また、阪神・名鉄が用いたPC5、PC6はコンパクトでトラムにも艤装出来る優れもので、後のPCMなど近代的多段制御の基礎となったと見られる。
 スイッチ制御の時代からエアエンジンの本家であったWH社は電空カムを試作宣伝するものの、商品化ではGEの独占となった。
 日本では1920年阪急51形が弱界磁付きでPCを制式化、同年名鉄、京成も採用し、以後阪神・阪急・南海などがPCを大量使用した。 しかし、近鉄はその後もMKを主力とした。
 写真−14 PCの限流継電器
 (出典:Schenectady Museum)

16.省電モハ1からモハ10へ

 1914年GEより輸入された省電モハ1の電機品は、日本の電鉄で初の1200V、M自動コントロールを採用するなど日本では先進的な技術であった。商社は三井物産があたり、当時として大きな商談であった。
 省電モハ10(写真−15)はPCを採用するが、省としてPCをMコントロールの後継とみたのかもしれない(併結を配慮したふしがある)。 PCとして、芝浦がGEのライセンスを得てRPC101(後の制式CS1)を、日立が独自のPR150(後の制式CS2)をそれぞれ競作した。
 RPC101の原型はGE社のPC101(写真−16)であるが、LBを二つ備えているところが1500V用らしい特徴と言える。日立はGE社のパテントを避けて独自の開発を進めたが、結局RPCに敵わず、省標準型制御器にはRPCの後継にあたるCS5が制式化されることとなる。
 写真−15 モハ10
 (出典:日本国有鉄道)

写真−16 PC101(出典:Schenectady Museum)

17.電動発電機の登場

 モハ10は当初600V補助回路から電燈は直列接続、制御回路は抵抗落としとしていた。 1200V区間ではモハ1と同じGE設計の発電動機により600Vを得た。
 しかし、震災後の1925年に架線電圧1500Vが東海道線に採用されると、次第にDM(発電動機)を外しMG(電動発電機)により1500Vから制御電圧100Vを得る方式へ切り換えられた。 MGは電動機の整流改善、発電機の定電圧特性改善、容量増大などの課題から改良を重ねる。 芝浦は私鉄向けにGEを元祖とするCLG1を多数供給した。近鉄養老線(当時は揖斐川電気工業)が1500V電化に際し用いたMGや、芝浦が省に納めたMH12-DM9(MHは電動機、DMは発電機を表す)もCLG1の同類と推定される。
 架線を昇圧していく過程で1500Vと600Vの区間が混在して、これを通し運転する際は複電圧電車として電圧切換を行うのが普通である。前記のCLG1はモータ側のつなぎ替えにより1500Vと750Vの切り換えが出来た。
 600V区間が短いときなど1500V車がそのまま600V区間に入る例もあり、このような直通にはバッテリー式が有利となるが、HL・ALFも最低電圧300Vくらいまでは調整により対応できた。

18.アメリカの技術革新と省電の保守性

 この間、アメリカの電鉄のメジャーな改革がPCC車により活発に進められた。それは、多段制御・電制常用・カルダン駆動などであった。 トラクションモータの低圧化も始まり300Vから150Vモータまで現れたが、結局300Vが主力となった。このことは電機子巻線への重ね巻きの採用と合わせて整流子間電圧を大幅に低下させて整流安定性を改善し、電制常用への道を拓いた。図−4はこのような進化をGEの軌道電車用モータにおいてグラフ化したものである。
 図−4 軌道電車用モーターの進化
 (出典:GE Review, 1949-5)
 郊外電車にその成果が本格的に導入されるのは戦後のことである。 NY地下鉄でも多くの挑戦をするが、1945年までの新造は釣掛けモータに制御はABFかPC、空制はU自在弁のUEプレーキが大半であった。1930年頃からずっとWNドライブ・直角ドライブ・電制常用と電空連動・多段制御などの新型編成を試作し機会をうかがっていたものの、量産化は終戦直後となる。
 日本でも大阪地下鉄はAMUブレーキに電制を常用、阪神などが電空油圧のPCM制御器を用いたりしたが、WNドライブは戦後まで出現しなかった。また、省電は1923年のモハ10から戦後モハ63までPCコントロールを続けるが、電制も無く保守的と言われてもしかたないであろう。
 戦後に入ってカルダン駆動の導入と合わせモータも300V〜375V化され、これは交流機に置き換わるまで続いていく。

19.界磁制御の歴史

1897年頃出たGEのR11直接制御器はシングルモータ用で直並列制御を行なわないものの、力行・弱め(分路)・電制のノッチを持っていた。弱め界磁は高速城の加速性能を補っていた。電動機容量を効率良く使う界磁制御は1913年頃に地下鉄を含め全米に普及した。
 わが国における界磁制御の導入は東海速線電化の輸入機関車ED10等が早いが少数派に留まった。電車では、1920年阪急51形は弱め界磁付きPCを、1922年近鉄61形は弱め界磁付きMKを多数導入し、以後新京阪などへも広まった。

20.日本の電動カム

 戦前のカム軸制御は空気式が主流で、電動カム式がPC(電空カム式)やPCM(電空油圧カム式)を凌駕するのは戦後のことである。
 電動カム式は、イギリスのEE社が得意としていて、デッカーブランド(EE社がデッカー社を吸収した経緯による)によりED50〜52や名鉄400形などで入ってきた。これらはメカの未熟と接点過多から保守に手がかかり故障も多かったようで、実用性でPCやABFに劣っていた。しかし、EE社は日本のEMUへの売り込みにつとめ東洋電機とのライセンス契約により日本への基礎を固めた。東洋電機製としては1926年に京成電鉄に収めたES151(マスコンはM8)が最初であった。
 日立は電空カム式PRを開発したもののPCへの劣勢は否めず、電動カムヘの転進を図ることとなる。EE社の電動カムを手本としたMC型、さらに多段化したMMCを開発し東急などに納入している。
 異色は名鉄モ450(二代目)に搭載されたEE社電動カムで、岡崎南公園の展示車として現存している。、マスコンはM15で全自動(それ以前は自動と手動を合わせ持つ半自動)、CLRがバランス型で、コンパクトかつ信頼性も高かった。これがEE社電動カムの系譜にどう位置づけられるかイギリスでの文献調査等が期待される。
 一方の東洋電機製の電動カムは新京阪や阪和電鉄において都市間高速輸送を担い戦前の到達点を形成する。このうち、新京阪鉄道デイ100に用いられたES504Aの結線図を図−5に示す。これを見ると減流遮断や弱め界磁などを採用し電動機の容量増大や高速化へ対応したことがわかる。写真−17は、この車両が阪急100形電車として京都線を走る姿である。

図−5 ES504Aの結線図(出典:東洋電機製造株式会社)
 写真−17 阪急電鉄100形電車
 (撮影:山口益生氏)

21.進段システムと応答

 連動進段は、Rスイッチの連動回路により進段順序を定めCLR(限流継電器)の制御下で自動進段する仕組みで、GE社のM、WH社のABともこれによっていた。連動進段は接点が多く保守に難があったが、接点不良等による進段不能が起きてもノッチオフにするとリセットされて再力行できる良さもあった。
 カム軸制御は、主回路カムの形状によりRスイッチが開閉する順序を定め同軸に配した制御ドラムとCLRにより自動進段する仕組みで、回路をシンプルにまとめることに成功した。
 スイッチ制御にこだわったWH社も、1922年ごろから連動進段でなく電空式のシーケンスドラム(日本では順序開閉器と訳した)により単位スイッチを制御した。これは手動進段式のマスコンを制御器へ組み入れ空気エンジンで制御することにより自動進段化したような仕掛けである。これにより接点過多は緩和される。シーケンスドラムの形状を図−6に示す。WH社のスイッチグループはかなり標準化されていたので、近鉄5100系では戦後HLにドラムを付加してAB化し、カム車と総括運転した。
 シーケンスドラムは日本にも伝わり、近鉄2200系、銀座線1200形、小田急デハ1600など三菱電機とつながりの深い電鉄へ広まった。近鉄の2200系以降はシーケンスドラムによる自動進段と合わせて、単位スイッチの利点を活かした手動の抑速制動を付加していたが、戦後もドラムが電動化されて長く新造された。このシステムは、結局、近鉄において2000年ごろまで用いられる。
 連動進段は応答の早さが売り物で、戦後アメリカのABSにおいてスイッチ制御は再び連動進段へ戻る。
 図−6 シーケンスドラム
 (出典:三菱電機総型録電鉄編, 昭和30年)

22.PCCコントロール

 1930年頃よりトラムにも自家用車との競争から自動車なみの高加速が求められ、そこで登場したのがPCCカーである。PCCコントロールの特徴は100段前後の超多段式であるが、その方式にはGE社の整流子型とWH社の多接点型があった。 1937年ごろから大量に生産され古いトラムを追放した。
 超多段式はEMUやトロリーバスにも使われるが、地下鉄の大型車には不適であったため戦後のNY地下鉄はPCM(電空油圧カム式)やABSが主段となった。シカゴ高架(“L”)は小型車両のため、1950年からPCCカー機器を大量に転用し、高加速の6000系EMUを作った。
 日本で初めて整流子型制御器が入ったのは1950年、名古屋のトレーラートロリーバスでGE段計の車芝製、高加速かつステップレスであった。筆者はここで初めてぐるぐる回る整流子を見た。このトロリーバスは故障もなく営業したが当時はみなが生活に精一杯だったためか勉強に来る人も少なかったようだ。
 整流子型は川崎の市電とトロリーバスで用いられ多接点形は東京都電5501号で用いられたが、運転士が手動の操作性を好んだこともあって、これらのPCCコントロールが日本で普及することはなかった。

23.近代化への架け橋PCM

 GEはカム軸を油圧シリンダで制御する多段制御を開発し(PCM)、トラムやサブアーバンで使われたが、不況もあり普及しなかった。しかし、これが戦後NYの電制付PCMの大量使用へつながる。 PCMはノルマルクローズ(スプリングで閉じカムで開く)のカム接触器など先進的な要素技術を用いていた。NY地下鉄では1935年ごろからPCCで用いた超多段式とPCMを比較実用し、PCMの優位性を確認したようである。
 芝浦製作所は1937年より芝浦がPCMをベースとしたPMを阪神国道70形(写真−18、「金魚鉢」の愛称で親しまれ日本最高のトラムと言われた)へ、PCMの流れを引くPA ・ PBを西鉄、名鉄へ納入した。油圧カムは今では阪堺電気軌道にPMがわずかに残るのみである。
 写真−18 阪神国道70形
 (筆者撮影)
 GE社は1948年、WH社のABSに対抗して電制付きPCMを大量に受注し、PCMはABSより長く使われた。 PCMの設計思想はMCMのベースとなったと思われる。
 油圧式カムは、英国のEE社によって独白に開発されロンドン付近のEMUに多数が長期に使われたが、その油圧式駆動機構は日本も入り、東洋電機のES800系として静鉄や小田急などで使われた。

24.革命児ABSコントロール

 1948年、戦後の地下鉄の巨大マーケットヘ、GE社はPCMを、対抗するWH社はまったく新設計のABSを投入した。 ABSは連動進段のスイッチ制御であるが、初めてのブレーキハンドル扱いによる電制常用、LO方式の電空連動、スポッティングを含む高い応答性といった特長を持ち、戦後の日米EMUの水準を一新した革命的コントローラーであった。
 三菱電機はNYより6年遅れて1954年に同じものをABFM(Mは多段化を意味する)の名で丸の内線300形用に納入、制御電圧はアメリカの32Vに対し日本では100Vとした。これによりABSの技術は日本へ入ることになる。機能と合わせて機器の設計・材料も一新され、新型MV(日本で広く普及し、国鉄VM13 ・ Hの原型となる)、逆転器のカム化、洋銀接点、プラスチックなど、10余年の情報途絶のあった日本の技術者にとって驚くことばかりであった。
 この制御装置は、NY地下鉄で10年間約に1000両、東京の地下鉄で15年間に330両と大量に生産された。丸の内線300形は今もブエノスアイレスで活躍中であり、優れた耐久性も実証された。

25.MCMとパッケージコントローラ

 GEは1951年頃からパッケージタイプの電動カム軸制御MCM(写真−19)を標準化し、PCCカー機器を用いていた都市高架鉄道の小型電車や、NY地下鉄へ納入した。 MCMはPCMからノルマルクローズのカム接触器を受け継ぐとともに、前後進・制動転換・界磁制御・直並列切換の組み合わせ制御を担うカム軸KMCを追加し、抵抗制御を担うKMRと合わせて2軸とした。
 名鉄では1959年よりMCMを大量使用したが、パノラマカーは主抵抗器も含めたパッケージ化に助けられてスペース・重量の制約を克服することができた。
 GEのMCMは主抵抗器の両側にKMCとKMRを配してそれぞれにパイロットモータを設ける構成であったが、パノラマカーでは2軸を片側に寄せてパイロットモータ1個で駆動する構成とした。これは2軸を1モータで駆動するメカニズムが複雑なため、50年近くたって考えるとこれほど長く使うならパイロットモータを2個用いたほうが好ましかったと思う。
 名鉄はパノラマカーを中心にMCMコントローラーの日本で唯一最大のユーザで15年間に1C8Mセットを100基ほど入れ、40セットが今も稼動中である。 MCMの技術は名鉄のようにパッケージとして導入されたほかにも、組み合わせ軸、カム接触器やパイロットモータの小型化等、設計思想や要素技術において日本の電車制御に多大な影響を与えたと思われる。
 写真−20は国鉄電車におけるカム接触器の新旧を並べて小型化を示したものである。カム接触器の小型化にはMCMの影響を指摘することができる。
 写真−19 MCM制御器
 (出典:AIEE, 1953年5月)
 写真−20 国鉄カム接触器の小型化
 (出典:JR東日本大船工場)

26.発電制動(抑速)

 直接制御器は1890年代のGE社R11から常用電制付きだが、日本では電制を非常用とすることが一般的で運転士が下り勾配で(内緒で)使うと叱られた。
 スイスでは抑速電制が必需に見えるが、電化の最初は車輪の力でピストンを動かして制動するシリンダーブレーキで勾配を降りたという。
 日本では1919年、箱根電気鉄道がGEのB51直接制御で抑速降坂を始めた。 EMUでは同社が1927年より電制付きMKで抑速常用を始めた。
 同年近鉄奈良線の初代400形(木造)2両のGE ・ MK を芝浦で電制付きとし試験は成功したが普及しなかった。もし普及していれば戦後の奈良線大事故なども防げたかもしれない。神戸電鉄などではHL系に抑速を設けていた。
 碓氷峠では1912年頃のEC40以来抑速は生命線であった。 EC40の初期は溶け流れた主抵抗器の補修が機関庫の大きな仕事であった。しかし、碓氷峠以外の鉄道省のELには抑速電制がなかった。
 戦後、国鉄の電車輸送が山線へ伸びるにつれモハ157系・161系などから抑速が普及して行く。私鉄のEMUでも本家の近鉄以外でも普及して行った。
 アメリカのディーゼル式ELでは抑速電制がエンジン性能と並ぶ重要ファクターとなっている。

27.停車用電制

 アメリカでは1930年頃から停車に電制を常用する努力が進められ、PCCカーではほとんど100%電制常用が実現した。 EMUでも、戦前から電制常用・ワンハンドル・電空制動などが試みられたが、実用普及は1948年のABS、PCMからとなった。
 1932年頃東洋電機の電動カムを用いた大阪地下鉄は停車に電制を常用して制綸子の鉄粉飛散防止を図り、戦後まで全列車で常用された。東京でも電制付きPCを導入したがこれは普及しなかったようである。
 ABSの技術を導入した営団300形以降、国鉄私鉄とも電空併用停車ブレーキが一般化した。これにはLOシステム(締め切り電磁弁による電空連動)が用いられた。 1964年の新幹線も電制常用でHSC-Dシステムをベースに設計された。
 しかし、東武など遅くまで空制のみのEMUの新造を続けた私鉄もあった。

28.回生制動

 回生制動は電制の理想と言え、急勾配克服と省エネルギーを目指して早くから試みられた。
 高野線には1928年AEGの回生抑速付きEMUが入り、急勾配克服に成功した。これをモデルにした東洋電機のAUR制御は戦後まで多数増備され、南海本線直通の1251系などで長く安定して使用された。このルーツは1930年の南独ツークシュピーツ登山電車と思われるが裏づけがなく、AEGレビューやドイツ電気学会誌などによる考証が期待される。
 1930年代より複巻電動機を用いた回生の京津と直巻電動機を用いた他励回生の阪和・名鉄3400形(写真−21)・EF11などが生まれたが成熟しない内に戦局が悪化した。当時の結線図は大きな青図にすべての回路が書いてあり、3400形のそれは見事なものであった。著者のもとにあるこの青図はレール・アーカイブスに寄贈する予定である。
 国鉄で碓氷峠と並ぶ急勾配区間である、福島・米沢問でも戦後EF16で回生が実用化され、1968年からは交流回生(ED78、EF71)が用いられる。
 以上の回生はすべて抑速であるが、戦後の1959年東洋電機は京阪電鉄2000系において複巻電動機を用いた回生制動を停車用に用いた。回生制動による停車は欧米でも未経験であり、画期的な技術開発であった。複巻回生は励磁回路が無接点化する1969年頃から急速に広がり、車両の省エネに貢献した。しかし、国鉄は昭和50年代にチョッパ制御を本格導入するまでEMUへの回生制動を用いていない。
 日立は、東急7000系(写真−22)において複巻回生における電動機の直並列切替えを実現し、回生領域を拡大することに成功した。同じく日立は近鉄奈良線/京都線の8000系昇圧改造において、MGから励磁電源を得て、直巻電動機を用いた他励回生を用いた。これは複巻回生に比して整流が安定しているメリットをもつ。
 これらの技術系譜に位置し直流電動機駆動の幕引きの役割を演じたのが、国鉄末期に登場した界磁添加励磁制御である。このシステムは、直巻電動機を用いた他励回生、回生中の直並列制御、マイコン論理による界磁制抑とカム軸制御の統制など、技術の優性遺伝的承継を誇っている。界磁添加励磁式は、通勤型205系、近郊型211系、特急形651系など多くの車両形式へ導入されて、JR内において今も多くの両数を擁している。
 1980年代中ごろにおいて私鉄の主力は複巻回生であった。地下鉄で広まったチョッパ制御は、郊外へは国鉄201系に用いられたほかはあまり普及しなかった。
 熊本市電8800系、大阪市地下鉄20系などにより漸次VVVF時代が拓かれ、やがて1990年以降
の主流となっていく。日本のVVVF制抑は、ジーメンスと並んで世界の電鉄技術をリードしているが、日本技術の源流であったアメリカの電鉄技術は沈滞し今や見るべきものがない。
 写真−21 名鉄3400形
 (筆者撮影)
 写真−22 東急7000系
 (撮影:宮田道一氏)

29.電空連動LOシステム

 1936年頃PCCカーは電制有効中において機械ブレーキを殺すLOシステムを導入し電空連動を実現した。WH社は空制を締め切るロックアウトバルブを、GE社はバネブレーキを電磁力で緩めるロックアウトリレーを用いた。ロックアウトバルブ(LOV)は、SMEEブレーキ(東京丸の内線、名古屋地下鉄)、HSC-Dブレーキ(小田急2200系、国鉄モハ90)の要素技術として戦後の日本で広まる。ここに至るまでに日本メーカは米の特許を逃れるべく多くの代替電空連動システムにチャレンジするがすべて失敗し期せずして本システムの有効性を示すこととなった。結局、電空連動はLOシステムに集約された。
 戦前の大阪地下鉄は、運転士のブレーキ弁扱いによる電空協調であったが、電制の不意の失効には即応できなかった。 NYでは戦前より電空連動システムを探っていたが、戦前のシネストン(WH社のワンハンドル)では解決できず、戦後LOシステムの導入で解決した。今もシネストンを使っている鉄道もあるが、この場合はLO連動となっている。
 運転台でLOVの動作を示す表示として、電制の立ち上がりを示す国鉄のCR(電流継電器)ランプ、名古屋鉄道のLOランプ(緑色)の例がある。
 LOシステムについて図一7に営団300形等の連動回路を示す。
 図−7 LOシステムの連動回路
 (出典:帝都高速度交通営団)

30.BPリレー

 発電制動には列車折り返し等における短絡ブレーキをいかに防ぐかという課題がある。
 日本にABSの技術が入って以来、逆転器と連動して電制回路を活かすBPリレー(GEではBOリレーとしていた)を設けている。BPはブレーキプロテクションを示し、原特許はWH社でもっていたはずである。日本メーカは電制化の初めこれを知らず、折り返し時のRV不動による駆動電動機焼損を散発した。
 短絡ブレーキによる事故としては、力行並列段でカム軸が途中停止しRV不転換のまま折り返したことにより、閉回路が短絡ブレーキを構成した地下鉄車両火災がある。対策はノッチオフにより主回路内の閉回路を開放することであるが、旧型車などで閉回路の開放不可の場合は単位SWを追加したりした。
 閉回路の応用として、600V旧型4M車で走行中に逆ノッチを用いると短絡ブレーキが働き急停車することが知られている。乗務員指導では禁じたものの、戦後の基礎ブレーキ不良時代は役立つ面もあり、伝承で広く知られていた。

31.終わりに

 3回にわたり古い話にお付き合いいただいたが、総括制御の始まりからパワーエレクロトニクス全盛の直前までで本稿を閉じさせていただくこととしたい。
 わが国の電気車制御は、海外技術の導入・模倣から始まり、独自の工夫と改良を試みつつ、次第に自立の道へと進んだ。日本の技術が世界をリードするに至った今、この歩みを欧米資料やわが国メーカ資料などを踏まえて明らかにして伝える必要を痛感している。
 本稿の作成にあたっては制御史に明るい真保光男氏(JR東日本)に多大な御協力を得た。最後にそのことを記して謝意に代えたい。

初出:サイバネティクス VOl.12-No.1〜No.3, 2007年


白井 昭:
名古屋レールアーカイブス会員、産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.


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