2006年4月
白井 昭(名古屋レールアーカイブス)
1942(昭和17)年末、豊川海軍工廠通勤のため名鉄豊川線を新設、旧西尾線の線路、電車の転用が決まると私は西尾線お別れサイクリングを実行することにした。既に鉄道好きの友人等は軍隊へ行き、弟は幼く私一人の催行となった。
実行は1943(昭和18)年4月桜の日曜とし、豊橋の自宅より岡崎新駅、三河吉田、蒲郡より帰宅のコースとした。当日は快晴で西尾線は桜満開だった。巨大な岡崎新駅(岡新)を起点に中島より西尾に向かった。
西尾線は元々の1040を川崎輸送のため各鉄にとられ、岐阜の70形が主力となっていた。当日はモ70形の単行が巨大な訊胴パンクをっけ、走るパンタという感じだったモ70のEE製制御器にっいては、アーカイブスニュースの本年1月号に載せてあります。西尾駅はモダンで豪華、3線用地の2線を営業列車が走るのは圧巻だったが、今は2線化された.西尾庫はトタン板への漏電があり怖かった。
西尾から三河吉日は碧海線からの1020形の単行、蒲郡線は今は海岸サイクリングだが、この時は鉄道沿いに走った。木炭車はダメで西浦庫の12号などSLが主力。もと三鉄の70引こは会えなかった。6250はまだ入線せず、2本の幡豆石材軌道は盛業だった。
西浦海岸はのどかで、南海で死闘が続いているとは思えなかった。当時我が戦力は完全に敗戦に向かいつつあった。
東海道はC53、C59の天下で先年ひと月を過ごした三谷が懐かしかった。途中憲兵に捕まることも無く、写真はやめたので、より良い思い出となった.
後年内田百間、宮脇先生なみにカメラなし例会を提案したが賛成者はなかった。
結局西尾線の桜はこれが見納めになったが、ハラハラと散る花は自分が何時死ぬか分からない身の上だけに今も心に残っている。今から60年以上前のことである。
図−1 サイクリングコース
図−2 旧西尾線の70形
西尾線は同年末廃止、75、77〜79は鳴海でポール、ステップ付きに改造した。この頃大曽根線にも70形が入ったが出所は不明である。
私は1944(昭和19年)に鳴海工場を見に行ったがデカ350の廃車、デキ800の新造、成田ホハを2210形に改造など多忙だった。
1945(昭和20)年正月、豊川市内線は工廠に最寄の市役所まで開通したが、飯田線の2M3Tに比し輸送力は小さく、地震や死者二千余の空襲で成果は上がらなかった。私の妻も工廠の空襲で療養生活となったが、一命はとりとめた。
西尾線のレールは複雑な経過で豊川線や新名古屋〜金山橘に転用され、戦争は負けたが名鉄本線は残った。
この一文を亡き弟に捧ぐ
終わり
三河吉田行き1020形 今村にて
モダンな西尾駅
白井 昭:
名古屋レールアーカイブス会員、産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.
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