「名鉄80年」写真集に伴い 尾西・名電鉄等の車両解体さる
1975(昭和50)年4月1日
鐵道友の会 名古屋支部 副支部長 白井 昭
〔資料メモ〕
- 「名鉄80年」写真集の作成はファンにとって有り難いことでしたが、同時に作成に伴い多くのことが分かり、あるいは新しい疑問が発見された。
- 我々は「名鉄80年」をスプリングボードとして、研究、解明に立ち向かうべきである。以下後日の資料としてメモを書き残すこととした。
1等車のあった尾西鉄道
- 尾西の客車は、ボギーではなく、クロスシートとロングシートの2種があり、1等車(イ、ロ、1、2)があった。
しかし、1等は明治44年に2等(ロ、1、2)に格下げされ、戦後まで佐屋に2等車が保存されていた。
- 明治44年〜大正2年に、全車貫通ドア付きとなり、大正12年電化後、客車はト300などの貨車に改造したり、廃車、他社に売却された。
- 詳しい形式、諸元、図面が明治村に保存中(持出禁)。
尾西SLの改番
1→1(明治村) |
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164→11 |
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192→22 |
2852→2 |
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165→12 |
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1000→31 |
673→3 |
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191→21 |
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珍しい三河の「ロニ」
- 三河鉄道の客車はロハ、ハフの他、ロニがあった。
当初は、国電(デ963等)が中心だが、新線延長とともに、大8、自社で丸ヤネの新車(ロハ60形)を新製した。
- 大正15年、電化後は貨車化、売却、待合室化された。
- 蒸気動車101号(ボギー)は汽車会社No.31として大2末完工したが、僅か2年のの使用で大正5年、阿南鉄道へ売却。
当時、最新式気動車でフリークエントサービスをと宣伝したものの、長続きはしなかった。
- 大正15年のデ100(モ1080)はクロスシートとし、夫婦(めおと)式電車として宣伝した。
ロマンスカーの名は、昭和に入ってからである。
三河のSL
順次、大正3年〜?、120、122、170、1104、110(以上、昔の省ナンバー使用)
大正11年入線、1270(A1)、1350(B1、大型)
何れも昭和8年頃、売却。昭和9年、鋼材値上げにより6両廃車、709はその後別口、
電車用発電所の歩み
- 京都電気鉄道は明治28年、水力電気(買電)で開業したが、明治31年の名電鉄は初めて直営の火力発電で開業した。
GE社は不成立で、ウォーカー社の550V蒸気発電機で給電した。
- 京電も、明治32年頃より、ウォーカーの火力発電所(550V)をもうけ、明治33年頃からは京都、名古屋ともにGEの火力発電機を導入した。
- 瀬戸電は、明治39年電化時は、買電でGE製のMG(印場変圧所)で直流600Vを出したが、明治43年、小幡にシーメンス製の水力発電所を設置し、自家発電とした。
- 明治45年、名電の郡部線(岩倉変圧所)は買電となり、600Vを採用した。
煉瓦の建物が明治村へ収まった(昭和50年3月18日)ものの、主機はMGかRCか確証なく、残された大宿題である。
大正15年末頃のドイツ式水銀整流器は、我が国でも早い方であった(欧州では大正10年より)。
550Vからの昇圧
- 京都、名古屋ともDC550Vで開業したが、600Vへの昇圧は何時か、明らかでない。
明治37年の甲武、明治39年の瀬戸は600Vなので、昇圧もこの頃か、今後の研究課題である。
複線化
- 京都電鉄が単線開通に対し、名古屋電気鉄道は明治31年の開業から複線(右側運行)で、津島、岩倉への郡部線も複線で開業した。
しかし、自動信号機はなく、続行式の運転であった。
- 自動信号は、大正10年、常滑線の2位式(米国ユニオンシグナル)が古く、3位式は大正12年、知立線(今の名本線)にユニオン方式の国産品を用いたのが最初である。
- 継電連動、モーターポイントは昭和5年、国府宮、太田川からで、急行運転に備えるものであった。
高山線建設
- 昭和7年10月より下呂までデセホ755、756の2両が直通、昭7、8よりデボ251、252がWC、ポール付、畳敷きで柳橋(名古屋市内)〜下呂直通、昭和15年10月からは省ナハフ14100形2両が逆に名鉄へ乗り入れた。
クロスシートの歴史
- 昭和31年頃の尾西が最初で、大正12年豊川の2等ボギー車(ナロハ300?)、大正15年からは豊橋線、三河鉄道、昭和にはいると伊那電のサハフ400など各線ともクロスシート時代となり、昭7には岐阜市内線の納涼電車までクロスシートとなるに至った。
▲3400形の優雅な天井灯
納涼電車
- 昭和7年頃が全盛で、岐阜市電は昭和7〜12年頃までクロスシートのオープンカーを走らせ、昭7頃より豊川線、常滑線(新舞子)、犬山線など納涼ビール電車が走った。
これらは、車外の電飾、社内は提灯、畳敷き、美人ウエイトレス付きで人気を博した。
名岐線で、木曽川(四季の里?)へ酒、芸者付きクーポンを発行したのもこの頃である。
- 名古屋市電は昭和12年頃、200台のオープンカーを走らせたが、戦争で老松などに休車として戦中まで保管された。
- 戦後は、昭27〜30まで岐阜市内に、クロスシート、オープンカーの納涼電車が復活した。
- 欧米で全盛を極めたオープンカー電車も、我が国では江ノ電、甲子園線、神戸線などに使われたものの、欧米並に盛んとはならなかった。
しかし、人間性を失った現代こそ、このような夢のある電車が必要ではないだろうか。
名電鉄のデワが35両
- 大元年開通の名古屋電気鉄道郡部線(犬山、津島など)は、貨物輸送も多く行い、これを多数のデワによる珍しい方法をとった。
他の電鉄は、モハ+ワム、モ700+トキといった混合列車が多かったが、名古屋電気鉄道はデワ、あるいはデワ+ワフをトラック代わりに頻繁に運転して、荷馬車の領域を奪った。
- デワ1形は実に35両もあった。
当初のNo.不明(200代?)、のちデワ1〜35となり、デワ+ワで運転した。
- 全国でもかくもデワを主力としたところは珍しい。
(このデワ1の写真、図面が無く、求めています。)
- 美濃町線もデワ601〜606がいたが、やはりのちにデワ+ワフとなり、やがてトラックやELの普及で数を減らしていった。
明33に散水車
- 名古屋電気鉄道の考課状によれば、名電1〜15(七つ窓、明治30〜32年製)はウォーカー13S形25馬力×1、代差はNYのペクハムトラック Co.製、7B型、車体は1〜12が月島井上車両である。
- 京都電気鉄道はブリル21B、プラッツの代車が多かったが、名古屋電気鉄道は長らくペクハムトラック Co.製のみを用いた(ブリルはPA)。
明治33年、散水車を作ったが無番。
- 京電、名電とも、前灯は取外式で、名電の番号は右書きで、第壱〜第拾の如くであった(私の母の話)。
名古屋の電車が前橋へ
- 明治44年、前橋電軌の開業時に電車が間に合わないため、名古屋電鉄の電車6両(ペクハム、1ヶモーター)を貸し出した。
これは営団地下鉄の大塚和大氏からのお知らせで、当時はこのような貸し出しはかなりあったと考えられる。
名電の雄 デシ500の生涯
- 大正1年開通の名鉄郡部線の主力、デシ500は、大正9年、ボギー登場まで犬山線、津島線に君臨し、青帯を巻き、窓上に飾りをつけた2等車で、40両も作られて、今日のパノラマカーに相当する主力であった。
明治44年発注、168〜182(うち、181、182はSC1、2に変更)
台車 MG35、モーターWH221、自重13t、色クリームとマルーン
(ブレーキは、デシ=ピーコック、デワ=アクレー)
大正3年 168〜205、SC1〜2、計40両
大正7年9月 168〜205→501〜538
(この年、市内線七つ窓24両を札幌市電へ)
大正9年 火災消失 SC1、504、506、521、527
大正13年 500形5両→デワに
大正15年 500形3両→起線デシ101〜104、散水車(のち三3)、廃車516。
昭和3年 デジ537、538→東美(広見)デ1、2、3(デ3昭和5年頃)
デシ535、536→デユ11、12
デシ500形1両→広瀬電鉄
昭和7年 デワ2両→デワ51・52(ボギー化)、昭和17年、2両が単台車となり、デキ30に。
ボギーをデワ1000へ(デワ1000のMCB台車で電車2080形を作る)
昭和10年 デワ1両→デキ53
昭和13年 廃車:503、5、9、12〜15、17〜19、23、30〜34、デユ11、12。
昭和18年 東美デ1、2→モ45、46、昭和22年菊池(熊本)デ15、16となる。
東美デ3→武豊 庫No.1(昭和30年頃廃車)
〔SC2〕
昭和6年、SC2→551(清洲線)→昭和16年、モ41→昭和25年、モ85(昭和35年廃止)
エアブレーキは大正10年頃、ドイツ捕虜が取り分けと伝承。
マシンは米アリスチャルマ。
〔デワ1〕
昭和16年、デワ1〜8歯医者、ブリル21大差を用い、サ51〜58を新川工場で作り、東名古屋港へ。
デワ9〜12の台車は昭和17年、モ91〜93に。
丸屋根の最初
- 明治41年、瀬戸線のレ5、6号御召車が電車としては嵐山と並び、日本最初の丸屋根を使用。
(レは連結車、のちの付随車のこと。レ5、6はのち、サ20となるが、車体は全く改造された)
- 大正4年、清洲線小型車206〜208(のちのデシ539〜541)は丸屋根のM車であった。
- 客車としては、軽便線や三河に丸屋根があった。
丹羽式台車
- ペクハムを真似た形の、京都の丹羽製台車が、大正5年頃の愛値電気鉄道付2(19、20)に用いられた。
- 瀬戸のデ3、4を大正10年、サハ化したときも似た形の台車を用いた(後のサ11、12)が、これは名古屋電気鉄道製であったように思う。
大きい空白
- 最後に「名鉄80年」で手のつかなかったものに、昭和10〜20年の東名古屋港のSLがある。
このSLは、借入のため、資料が無い。
また戦中、戦後に借入の渥美線の6250なども文書が無く、私どもの記憶に残るのみである。
- 戦後、東名古屋港〜熱田のC11、オハ31の復員列車も全く記録が無く、今後、支部の皆さんの力におう所が大きい。
「名鉄80年」写真集を土台として
- この写真集は、鉄道ファンには全く有り難かった。一方、宿題も多くできた。
35両もあったデワ1の写真が入手できず、記念切符では明治38年の戦勝記念切符(旭日)、
昭和初年の名鉄の酒、芸者付切符など大物が欠けたのは残念であった。
- これらは今後、「名鉄80年」をベースとして、皆さんの力で補っていただくことを期待している。
(以上)
(初出:鉄道友の会 名古屋支部報 パノラマ 1975年4月号)
白井 昭:
名古屋レールアーカイブス会員、産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.
上記の白井昭氏の肩書きは、1975年当時のもの。
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