名鉄とドイツ兵とモ85

2006年8月

白井 昭(名古屋レールアーカイブス)

 大正4年から8年まで名古屋市にドイツ将兵500人が5年間収容され,名古屋の文化と産業に影響を残した。そのドイツ人らは大正3年n月23日,青島から宇品経由汽車で名古屋入りした。ホハ4両にホロハ1両で将校は2等で来たものの,名古屋駅が空前の見物人で下車できず,急遽熱田へ行き市電で収容所へ入った。
 
〜初めての空気ブレーキ〜
 名古屋電鉄では那古野工場でSC2(551→41→85)の空馴化をやってもらった.犬正7年頃と見られ当社初の空気ブレーキで,汽笛でない汽笛を響かせた.仲間のモ45、デキ30などは最後まで手ブレーキであった。部品はアリスチャルマー製の滑り弁式ブレー牛弁で市内線の1000形ボギーには同形を,三菱のその類似品は1016形に使われた。
 笛は当時流行のビューとよく通る美しい音で、名鉄モ1010形や今ではアプトELのED903で間くことができる。
 モ85は長く使われ昭和24年には豊川線でモーターを落として立ち往生し,責任者の私は始末書をとられた(当時はモ41)。
 ドイツ人が改造当初、お礼として電車の切符が贈られ、電車で鼓舞公園の演奏会へ行くときなどに使われた.500人の収容所は古出来町の一中のところにありB6、96の中央線大曽根駅、瀬戸電,市電に囲まれ,エキスカーションには名電鉄で犬山にも行っている。
 一人の将校は名古屋女性の親切をたたえる美しい詩(ローレライの如き)を贈り、当時松ケ校小の教師だった私の母はとても感動していた.
 
〜明治,大正は立派〜
 昭和17〜20年の米英捕虜は有松の日車寮から1060形の専用電車で神宮前の日車へ通ったが、市民との交流は禁止で病死も多かった。戦後はオハ35が有松駅(有松裏)へ入り引き上げて行った。明治38年ロシア捕虜が名古屋に来たときも母は慰問に行っているが、今次大戦の野蛮とは大差あり明治、大正はよき時代であった。次の戦争では日本人はどう変わるだろうか。

〜安城支線のモ85〜
 写真は昭和30年に混合を引くモ85(かつてのSC2)であるが、貨物が主力の同線ではドイツ人が付けた空制が役立っていた。

安城支線のモ85十ワム  1955.11 旧新安城(国鉄安城駅)


白井 昭:
名古屋レールアーカイブス会員、産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.


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