大井川鐵道の鉄道保存を顧みて

大井川鐵道株式会社 顧問 白井 昭

 1935(昭和10)年頃、鉄道は流線形時代にあって華やかで、陸の王者であった。中でも3シリンダの蒸気機関車(SL)C53が、東海道線を時速100km/hで走っていた。SLの最大の魅力は平野の直線を100kmで走る姿で,戦後に人気を集めたD51の重連などは,いわゆる“ドサ回り”、つまり二線級の存在であるという意識が強い。こうした鉄道の保存は、歴史的かつ国際的に見つめ、進めていくことが重要であると考える。
 戦前は,明治生まれのイギリス製SLが入替などに活躍していた。時代遅れとされることもあったが尊敬すべきもので、スチプンソンギヤ(バルブギヤ)などは完成された設計である。輸入当時は高価な存在で、その資金は女工哀史に象徴される生糸から出ていた。
 客車も鋼製の最新車とともに明治生まれのオープンデッキの木造客車は,一般には“霊柩車”などと呼ばれたこともある.その写真が入手できず、スケッチにより作図したことが、産業遺産への関心の芽生えとなった。
 60余年前,すでにイギリスでは立派な趣味であったSLが、半世紀彼の今、日本でも理解されるようになったように、実は多くのことが欧米の流れを追って日本の歴史を形成している。戦時中はガソリンエンジンが花形であったが、SLを学ぶために機械工学でボイラを研究し,機関区を訪問した。


▲写真1 動態保存のきっかけとなった2100形機関車とイギリス製ターンテーブル
 

戦後の時代

 戦後,日本は戦争による空自で世界に後れを取り、これを取り戻すのに懸命に努力していた。ニューヨークの新性能電車、スイスの軽量客車、フランスの交流電化などは魅力に満ちたものであり、海外との交流、鉄道技術者の来訪も盛んとなった。
 多くの海外技術者との交流からは、最新技術の開発とともに、その歴史保存や技術移転も同じように大切であること、動態保存や保存鉄道、産業考古学、ナショナルトラストなどについて知見を得た。終戦直後の日本にはその余裕はなかったが、そのポリシーについては強く心に刻み込まれ、これがその後の展開の原点となった。
 1960(昭和35)年頃、名古屋鉄道で展望電車パノラマカーの開発に熱意を燃やすとともに、鉄道友の会で元鉄道省160形SLの保存活動に乗り出した。それは現在、明治村に動態保存されている。
 私が大井川鐵道に転じた1970(昭和45)年、当時保存が望まれていたB6・2109号SL(写真1)の動態保存に取り組み、これが大井川鐵道の保存鉄道への第一歩となった。160形、B6ともにイギリス生まの名作である。これより5年間、C12などを含む動態保存を続けて多くのノウハウが得られたが、これが次に来たるべき保存鉄道のため貴重な経験となった。
 この経験がなければ、1975(昭和50)年からの保存鉄道への道はあり得なかった。まだ「動態」などの言葉も定着していなかった頃であり、B6は大井川と日本の保存鉄道にとって大切な恩人であろう。1974(昭和49)年には、C12を使ってNHKドラマ「鳩子の海」のため本線運転を行なった。
 

保存鉄道の始まり

 当時の日本では,何とか早くSLを止めてほしいとの運動があった一方、一時的なSLブームが起こっていた。国鉄のSL廃止に伴い、大井川鐵道の本線運転の要望が高まったが、これには多くの費用が必要で容易に決断できなかった。アメリカ、オーストラリアを始め世界の情報を知るとともに、1971(昭和46)年にはイギリス,ヨーロッパを訪ね、飲食、宿泊、観光、商品といった複合的視点も重視するという経験者のノウハウを得てこの事業を進めた。
 1975年始めに本線運転を決定すると、1年半の間に人材や物資の準備し、SL列車用の客車の手配、石炭、水処理、要員の訓練、認可手続きなどを経て翌年夏には開業した。1975年当時、私の鉄道技術考古学の師となるシカゴの故G・クランプルス氏が来訪されている。
 こうして大井川鐵道は、SLだけでなくシステムとしての蒸気鉄道を残す「保存鉄道」の日本第一号となり、その成果は欧米からも注目された。新幹線や東名高速道路など地の利もあり、乗車人員は、初年度の5万人から20万人になり、通年1日1〜3往復、SL弁当、SLおじさんなどに発展した。
 1977(昭和52)年には、スイスのプリエンツ・ロートホルン鉄道と姉妹鉄道となり、毎年交流を続けている。また1979(昭和54)年には、かつてタイメン鉄道で使われたC56形SLをタイから帰国させ、イギリス圏に反響を呼んだ(写真2,写真3)。
 


▲写真2 タイより帰国当時のC5644号機
 


▲写真3 C5644号機の整備
 

 その後,1986(昭和61)年に特殊な技術を持つ台湾の阿里山森林鉄道と姉妹化し、スイスの姉妹鉄道の協力も得て、大井川鉄道井川線のアプト式鉄道を1990(平成2)年に竣工させた。
 1987(昭和62)年には日本ナショナルトラストに協力し、それまで大井川鐵道で動かしてきたC12164をトラストトレインとして運転を始めた。この頃C108、C11312を修復し、新たにコレクションに加えている。また,明治の名作であり保存鉄道のルーツとなったB6は、1993(平成5)年に修復工事を施工、日本工業大学に寄贈、動態保存されている。
 一方、現在修復中のC11190号機関車は、動態保存に向けて資金を募金に仰ぎ、広く国民全体の協力で復活をはかっている。
 保存がSLに偏るのは保存文化的には未成熟であり、社会の歴史を残すためには古い客車や貨車なども大切である.
 大井川では戦前の日本の標準形客車を車軸発電機、スチーム暖房を含め、できる限り原形で動態保存しているが、これらはすべて保存技術の問題に直結している。保存対象は、この他1897(明治30)年イギリス製の95t転車台、古い駅舎、古典レール、投炭練習機(9600形)など幅広い(写真4)。


▲写真4 動態保存機のパレード
 

運転技術の要点

 SLの運転,保修に関しては特殊な技術、特殊な用語が多い。全体としていずれも特別のノウハウが必要な世界であり、その伝承は重要であるが容易ではない。保存鉄道は、本線上をSL列車が定期的に運転して初めて保存鉄道たり得る。機関士、助士は教育、訓練によって養成し、運転規則、投炭練習、出庫点検、給炭、給水、石炭水まき、給油、点火、ブロワ、投炭、運転取扱い、灰処理、シンダ処理、煙管掃除、水処理、洗缶などの諸業務習得など、無形文化財的要素が必要である.
 乗務員には鉄道運転免許やボイラ技師の国家免許などの資格が必要であり、また投炭ショベルなどの道具から身の回り品まで整えねばならない。乗務員は知識、技能とともに体力勝負であり、かってはヤカンの水を飲みながら運転した。当鉄道では重油の併用はなく、助士2名として電車との交代勤務としているが、いずれは油の併燃が必要となろう。
 SLの運転で重要なことは、ボイラの蒸気や火の状態に応じた運転、そして蒸気節約のため弁のカットオフの扱いである。この他、ドレン排出、空転防止、砂まき、2本のハンドルによる空気ブレーキの扱いなど、電車とは異なる取扱いが求められる。かま焚きでは。常に蒸気の圧力とボイラの水位、火室の状態を管理し、火床は四隅を厚く保つ。
 投炭のタイミングは難しく、火床づくりは始発時に失敗すると最後まで乱調となる。火床には、前途の荷重、勾配を先取りして投炭する。SLの煙は少ないほど蒸気がよく上がり、黒煙が多いと不完全燃焼でSLの力は出ないので、黒煙もうもうの写真は恥である。とりわけ助士の投炭と機関士の強調が大切であるが、かま焚きは難しく、阿里山鉄道では登坂時の投炭ができる助士がいなくなっている(写真5)。
 


▲写真5 給油は運転の生命線
 

石炭の入手と品質管理

 石炭はカロリーのみならず多くの要件があり、発電用の石炭などは使用できない。火着きや火持ち、また灰の状態が良いこと、黒煙や火の粉が少ないことなど多くの条件が必要で,大井川鐵道では現在、品質の高いハノイ炭と中国、,オーストラリア炭などをブレンドした豆炭を主力とし,他の塊炭を混用している.品質の変化に対する管理が、重要かつ難しい。
 品質の管理を誤ると、黒煙公害、シンダ(燃えかす)の増大、沿線火災などの環境問題や、カロリー不足など、場合によっては大問題を招く。これらについては常に消防、環境、市民と連携を保っており、同じ線を走る電車の運転台には消火用の水を積んでいる。
 SL基地での防煙対策として、出庫時はなるべく木材を燃やし、人家の多い所では汽笛も加減する一方、地元の希望により要所に接近を知らせる汽笛を鳴らしている。この他、石炭灰や廃油の処理、列車からたばこの投げ捨て防止にも努めている。
 水処理に関して、大井川の水はヨーロッパよりも硬度が低いが、ボイラにはスケールが付き、点食でチューブ(煙管)に穴があく。その対策として、給水はイオン交換樹脂による軟水化、さらにタンクの水に清缶材を使用しているが十分ではない。中国のような缶水のブローはせず、洗缶は1〜3ヶ月ごとに行う。缶水は清缶材を含み、飲むことは出来ない。
 

補修技術とその伝承

 現在、日本にはSLの新造、修理のできる車両会社はなく、独自で行っている。大井川鐵道における運転補修技術は、戦前のSL運転から引き継いだものである。補修のための施設は、イギリスの小さな保存鐵道同様、天井クレーンなどの大きな設備はなく、動輪の出し入れにはピットを利用し、ロッド入れなども人力を主として行なう。
 動輪径は1.5m余もあるため,これを削る旋盤は限られる。客車の保修は、メタル摺合わせ、スチーム暖房、車軸発電機、木工など特殊なものが多い一方、SLではポイラ、走り装置に困難が多い。
 ボイラの水圧検査は毎年実施している。ボイラチューブは特注であるが,国産の質は戦前よりも良く、エキスパンダなど今では希少な専用工具も使用している。ボイラ火室のステーは取り替えるが、ボイラの胴板、火室周りの腐食は扱いが困難である。.スイスなどではボイラを新造、ドイツ、イギリスでは切り継ぎも行なっている。日本でもいずれはボイラの新造が必要となろう(写真6)。
 


▲写真6 エキスパンダによる煙管かしめ工事
 

 火室内の耐火レンガは入手可能であるが、寸法を自社加工している。過熱管は消耗品扱いで、切り継ぎや新造としているが、過熱管寄せの補修が困難になっている。メタルの盛り金は独自の鍛冶場で行ない、摺合わせを含めて昔の技術を引き継いでいる。ピストンリング類は鋳物を吹いて加工しているため,オーバーサイズにも対応している(写真7、写真8)。
 


▲写真7 ピストンリング素材のシーズニング
 


写真8 シカラップによるメタルの仕上げ
 

 パッキング類のうち、特に金属パッキング、グランドパッキングには入手困難なものもあり、アスベストに対しては代替素材を使用している。なお、生命線の一つであるシリンダ用過熱油は一時危機となったが,全国にSLが増えたことから、なんとか生産が続いている。
 メタル用の潤滑油は、戦前より質が向上した。軸受パッドは、職員の家庭に依頼して純毛を得ている。ピストン棒の「巴パッキン」は,業界の老舗「勇気屋」すら名も知らない現状である(写真9)。
 


▲写真9 巴形パッキン
 

 インゼクタ(グレシャムに拘っている)、コンプレッサなどのSL専用部品は、製造できるメーカーがなく、手持ちの予備品や展示SLと交換する
など苦労している。これについては、なるべく早く部品の新造に取り組むべきであると考える。
 帰国車両を含めて,これまでSLの動態修復はすでに5両になり、現在1両が進行中である。しかし大修理が多い関係で、基本的には修理技術の延長上にある。ボイラについて国の許可のなかったものは、図面の作成、強度計算、許可申請、検査などが必要である。
 労働局による修復機の検査もあり、奥深いSLの補修技術に対して、その伝承の中断を防ぐために,乗務員、整備係とも若手の養成に努めている。当社では、この30年間に多くの動態機が毎日運行を重ね、この間にあらゆる事態に遭遇し、実戦の場数の多さとノウハウが財産となっている。投炭練習機以上に実戦が第一であり、10年間でほぼ一人前となる。2003年完成の修復も、若手養成の良い機会となった。
 

資金と収支

 保存鉄道開始当初からぎりぎりの収支で歴史保存ができることを目指し、現在のところ目的を達している。これまでの修復はすべて鉄道の負担によるものであるが、欧米では国立博物館などを除き、資金と労力の多くをボランティアによっている.C11190機関車の修復では初めて全国から募金を集めたが、以後の保存事業を欧米のように運営するには、なお年月を要するであろう。
 大井川鉄道では、運賃の他、弁当、みやげ、その他の収入に頼っているが、乗客の主役に女性と子供が入っているのは底辺の広さを示していて心強い。世界各国の保存鉄道は地元にとって有益となり、日本でも今や鉄道の独断では廃止できない状態になっている。大井川地域においても,温泉など観光やお茶産業に影響を与えている.今後はさらにNPOといった何らかの公的な支援システムが必要である。
 

今後の展望

 かつて日本では実現不可能と考えた保存鉄道が、大井川を第1号として多数実現したことは驚くべきことである。今後も歴史の流れは、私
たちの想像できないまったく新しい流れを生み出していくに違いない。乗客も含む多くの人々が、未来の理想に夢を求めていくことに期待している。保存に関する研究も、過去の検証より未来の開拓こそ重要である.

(追記)
修復中だったC11190号機関車は2003年7月に修復を終わり、以後動態保存の主役として運転中である(写真10)。
 


▲写真10 修復成ったC11190号機


出典:白井昭:「鉄道の保存と修復」、オフィスMANDS発行、東京文化財研究所監修、2004年3月20日
著作権所有:白井昭


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