2005年5月20日
白井 昭(中部産業遺産研究会・名古屋レールアーカイブス)
(お願い・誤りもあると思います。訂正、調査をお待ちします。)
日本唯一の日野、束芝製連接トロリーバスは1949年9月までに束京、大阪でのテストを終え、公表された。
落成は同年春、計画は1948年末かと推定するが、また焼け跡時代で戦後の電鉄技術史の最初期に属し、その技術レベルを含め歴史に残るものである。
名古屋では1950年6月から営業運転に入り私は自宅が車庫近くのためよく利用したが、故障なく素晴らしい乗り心地だった。
トラクションモーターは当時の日本に存在しない複捲140HP,4000rpmの高速モーター(米軍DLのGEモーターについては不明だが)、日本初の整流子制御器で、分巻界磁で界磁制御した。
セルフラップ式空気ブレーキは連結用の非常弁つき2管式であった。美しい整流子の回る様はトレーラー客室の前から見ることができた。
名古屋ではこれと同時にキャブオーバー大型の2軸トロバスも営業に入ったが、その機器はトレーラー車と殆ど同じであった。
当時兼芝がこれを自力開発したとは考えられないが、GEとのやりとりは不明である。
その後4000rpm級が国産されるのは1954年頃からで、このトロバス時点でこれらが理解できた日本人は僅かと思われる。
1947年頃、名古屋にトロバスの新車12007,12008が入った。
車体は1937のニッサンキャブの中古だが新品なみに整備され、GE800モーターにGEのR11
cont.と中古だが故障少なく、満員でも速く、乗り中地良く好評で活躍した。小柄のため臨時折り返しは加速後女車掌がポールを下げUターンした。
室内は1列クロスで多客に適していた。
丸の内頴延長に伴う1955年、400形のうち1両だけWH社載入のABS,SME
E装置が使われた。三菱製品との比較を試みたと見られるが、ABSは300形計画の1953年には何とか最新形であったが、NYではMCMに続きWHもカム化し、AB
Sは既に旧式であった。
丸の内線は500形以後永くABFM(ABSに準ず)を使ったのは標準化の見地から妥当と思われる。
GEのPCMの実用は1927年頃からで1930年代にはNY地下で使用のうえ、1948年にはWHのABSと並んで制式化し、大量使用された。
このPCMはSMEEと組んだ電空併用であった。
一方PMの出現は1930年頃であるがPCMとの違いが不明である。
PCMは日本へ入らず(戦後PCM名があったが実態不明)、PMは1937年頃より阪神70形などに入り、戦後も南海軌道に入った(但し束芝RPM)。
またPMの発展したPA、PBは1937年頃より束芝より西鉄、名鉄に納入、PBは1943年(名鉄3500形)まで、戦後続いて名鉄、山陽などに製造された。
名鉄ではPBを戦前より1950年填まで「PM」(またはRPM)と呼んでいたがその原点は不明である。
MCMはPCMから発展しモータードライブ化、KMC(RV+FC+力制の一体化)の採用などあるが、ノルマルクローズの小形コンタクタなどカム制御器本体はPCMに準じている。
戦後日本の各メーカーは電制つき軽量多段制御装置の開発に苦労したが、最終的にはMCMに準ずるものに落ち着き、CS12も大形化しただけで原点はMCMに準じている。
この過程で東芝は戦前からのノウハウ、GEとの関係で特に有利だったと思われる。
PCM(又は類似)は戦前にイギリスに入り好評で戦後増加、さらにEEが類似品を量産し今も走っている。1970年頃には日本のTDKがEEと提携、ES800系として江の電、静鉄に納めたが普及しなかった。
白井 昭:
名古屋レールアーカイブス会員、産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.
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