2005年4月30日
白井 昭(中部産業遺産研究会・名古屋レールアーカイブス)
自宅書庫の再見中、名鉄デワ1の形式図(青図)を発見した。車種は電動貨車でなく貨物電動車で、1927(昭和2)年から1940(昭和15)年までB形パンタの時代で貴重な図面である。
これらの書類、図面は何れ当アーカイブズへ寄付する予定である。
このデワは35両が犬山、一宮、津島線で単行又は貨車1両を引いてトラックのように活躍した。これは集約端送のSL貨物列車より機動性があり1910年代の欧米では電動貨車、電動郵便車、電動荷物車が発達したが、日本で営業貨物のため多くのデワを走らせたのは珍しい。日本でも広軌の電鉄や市電では電動貨車を持つ所も多かったが、35両もの大量の例はなく、電鉄史に残る独自の輸送形態である。
初代デワ1形は名電鉄の鉄道線開業にあわせ1911(大正元)年に作られてより1918(大正7)年にデワ14〜35が普通貨車(モーター無し)に改造され、後のワフ51〜62となった。捻出された12両のブリル21-E台車、電装品は起線ののちの40形などに転用されたと見るが記録はない。
モーター付きのデワで残った13両は製造以来1本ポールであったが、1927(昭和2)年に手動のB型パンタに変更、ポールを外し市内線に入れなくなった。
1927年の図面では連結器はチェンのままで貨車牽引できないが、以後は不明である。パンタ化した青図にはポールを消した跡が残っている。
この13両は1940(昭和15)年に全差廃車されるまでの約30年間、各線で活躍をつづけたが、デキ100形ELの新造などで影が薄くなって行った。
また、開業当初から各社のデシ500も貨車を牽引でいたのに、客貨分離して客車とほとんど同数の電動貨車(貨物電動車)を併用したのは独自の形態で、アメリカのどこに学んで始めたのかを探求していく必要がある。
デワはブリティッシュWHのT−1−CコントローラーとEC221モーター (50HP)を用い、デシ500形電動客車とともに7O両以上を統一していた。
しかし台車はデシはマウンテンギブソン、デワはブリル21− E、車体はデシは名古屋電車、デワは梅鉢鉄工であった。
1911年の名古屋電気鉄道郊外線開業に際しデシ500形電動客車38両とデワ1形電動貨車35両、合計73両の電動車を新造したのは当時のメーカーにとってかなりのマーケットであった。
1941(昭和16)年以後、残ったデワのブリル台車(7クレー手ブレーキを含む)を転用し、車体は新川工場の新造でサ50形付随客車8両が作られた。
しかしサ50は8両で残り5両はモ90形などに転用したと推定されるが書類は残っていない。
サ51〜56は1941年12月に完成(立花車両部長時代)、各務原綿の長住町〜飛行場でモ200、サ50、サ50、モ200の編成3本で使われた。
戦中戦後の認可文書は実態と違うものが多いが、名鉄のは割に正確である。
それでも1両を2両に化かすような芸当の多い当時を掴むのは難しい。
しかし1942年7月にサ57〜58の完成とともに三菱輸送のためサ50は全車築港線へ移りELのプシュプルで運転した。 サ50の車体色は始め茶色、後緑色と思う。
各鉄線の川崎輸送には西尾線より1040形3両を補充した。ワワ50の1両は1944年頃サ60形代用客車に改造された。
1926年頃、電動客車デシ500は各地へ売却、改造、解体されるが何両かは客車で残り清州線などで使われた。 1927年の522、525号車のB形パンクの図面を発見、
中央にパンタ、前後にポールを残し柳橋乗入れ可能である。この時の連結器はチェンのままだが以後の経過は不明である。
1931年、残存のデシ500形3両を新川工場(関技師)でボギーの木造デキ50形に改造した。日車でC12台車を新造し、EC221モーターを4個内釣りとし、TDKのQ−2コントローラーを新造しT−1−Cと置換えた。
車体にはトラス棒を付け、中古のCP27コンプと直通空気ブレーキ、手動のB形バンタを備えた。
認可上の旧番は511,516,529となっていて前記のものとは別物である。
デキ51,52は1932年、デキ53は1935年完成、内2両はのちにデシ500の余り台車で2軸、手ブレーキのデキ30に改造された。
これらの戦後については既存の資料があり省略する。今後も未発表文書の発掘に努めアーカイブスへ寄付していきたい。(終わり)
白井 昭:
名古屋レールアーカイブス会員、産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.
Copyright 2005 SHIRAI Akira, All rights reserved.