白井 昭
2004/2/21
戦後のわが国の電鉄技術は戦中の遅れを埋めるために海外技術に追いつくことを目指したとされるが、実態は1951(昭和26)年においては情報すら満足でなかった。
戦後間もなく多くの鉄道出版、研究会、試作がなされたが、鉄道技術書は戦前の車両についての解説、その運転保守が多く、新技術への指向は具体化しなかった。
既に1948(昭和23)年から量産され、戦後のEMUのシンボル的存在であるニューヨークの新車も具体的なことは何も分からなかった。
一例として1948(昭和23)年の「交通技術」の話題は三菱バッテリーバスや松戸取手電化計画などで、海外情報は意外に乏しかった。
1950(昭和25)年になると、モハ80系も生まれて、ある程度戦前のレベルに復した日本では、新技術への具体的アプローチを始めた。各メーカーは競って高速モーター、近代化機器、トロリーバスの試作、製造を始めた。
このような風潮の中で日本の電気学会は1951(昭和26)年、『今後の電車』という意欲的な出版をした。執筆者は阪神野田、名古屋市古田、三菱松田などの有力者より成る。今回は主としてこの本(以後、本書と記す)を中心にその後どう展開したかを見ながら、歴史的な解析をしてみたい。
写真1 『今後の電車』の表紙
本書にはSMEE、セルフラップの文字さえなく、電気学会ですらSMEEブレーキの存在をほとんど知らなかったと思われる。
戦後、電鉄新技術の旗頭である1948(昭和23)年のニューヨーク、R10形についてもABSコントローラーの名前はあるものの、内容は乏しくて理解できず、従ってわが国技術者の関心も乏しかった。
しかし、僅か2年後の1953(昭和28)年にはABS制御の本物が日本へ到着し、三菱とウエスチングハウスの提携が復活、日本のエンジニアはここで初めて新技術に対面し、一気に全てを理解することになった。ウエスチングハウスの新MVやカムを見るのもこれが初めてで、やがてMVは国鉄のVM100系などになっていった。
戦後の日本は復興に手一杯で、外貨は乏しく、海外出張や提携の余力は無かった。そのため営団300が入る前の1950(昭和25)〜1953(昭和28)年には多くの手探りの試作が行われたが、システム全体としてはLO方式の電空連動ブレーキなど、鍵になる技術が欠けていたためモノにならず、その後に残るものは少なかった。
1953年からは日本の技術者の本格的海外出張が十数年ぶりに復活し、ようやく欧米の実態に目が開く結果となった。
電気学会の本書は、その直前の重要な時期をとらえるものとして貴重なものである。
直流の高性能トラクションモーターは欧米では1925年頃から実用され、PCCで定着したが、日本は社会水準が低くてそのニーズが無く、注目されなかった。
最大のものは自家用車との競争が無かった。低圧モーターではアメリカでは150Vモーターまで使われたが、日本ではその利点さえも明示されなかった。その一因として、欧米では発電ブレーキが普及したが、わが国では僅かに留まっていた。
低電圧は高速化への重要な武器となった。
近代型駆動装置も戦前、かなりの情報があったが、日本では使用されず、SLMのED54も消化不良に終わっていた。
1951年版の本書では、AEG中空式、BBCディスク、可撓歯車(ニューヨークで使用中とあるが、ウエスチングハウスの表示無し)、直角カルダン、日立ゴムクイルなどを紹介したものの、TDKディスクドライブが未完成の当時としては普及へのアプローチは手探りの状態であった。
本書ではWNドライブは「可撓歯車駆動」として図面無しで紹介したものの、日本には実在せず、真価は理解されていなかった。
WNドライブは1928(昭和3)年頃より実用され、日本にもOHM誌に写真入りで報告され、ニューヨークの比較用EMUで成功し、1942(昭和17)年にはAIEEがニューヨーク市のEMUのWN採用を伝えており、1948(昭和23)年からはニューヨーク地下鉄の数千両の量産が始まった。
しかし、新幹線の凍結された当時、日本のマーケットは狭軌とするメーカーは本命のWNに注目せず、専ら他の試作へ走り、特に直角駆動が多く作られた。
WNの本家の三菱電機すら住友金属とFS201直角カルダン台車を作り、小田急、名鉄(3850)で試用した。本書にはFS201と東芝のTT台車の写真が紹介されている。その後、日立はゴムクイルから直角へ転じ、直角駆動は東急、相鉄、名古屋市などで実用したものの、全国的には普及しなかった。
これら試作駆動がほとんど不成功であった中で、試作時代の最後の段階でTDKはディスクドライブを成功させ、狭軌のほか、今や新幹線にも用いられ、WNドライブより優位に立っている。
ディスクそのものは1920年代のBBCに発するが、現様式のものはBBCとTDKが同時に開発したと言われている。
一方、三菱は丸の内線300系のライセンス生産とその好成績の後近鉄など標準軌私鉄はWN化し、他メーカーも参入して新幹線もWNでスタートした。
1955(昭和30)年頃以後、日本のマーケットはWNとディスクの双方が主流となり、多くのメーカーで作られているのに対し、アメリカはWNと直角が主流となっている。
このような流れで1951(昭和26)年版の本書は高速、低圧トラクションモーターと分離駆動システムの夜明け前の状態をよく伝えている。
1951(昭和26)年当時、頂点にあったウエスチングハウス社ABS制御について、本書には僅かにABSの名称があり、スポッティング(S)の説明をしているがツナギ図も無く、完全な理解は難しい。また、同じニューヨークのR10系のGEの油圧式PCM制御(電制常用)については全く触れていないのは不思議である。当時の『GE
Review』で宣伝しないとは考え難い。
本書には当時の日本の制御器が多く紹介されていて有用ではあるが、質的には電気制動付きが少なく、力行のみの多段式が多い。また近代的なノルマルクローズカムを用いてカムの1往復(PM、PB)や2回転(MMC、川崎PCM、CS10?)が混在するのは進歩を示している。しかしABSやPCM、さらにMCMコントロールに比べれば総合性能的に幼稚さが見られ、結局この時期の作品で長期普及したものは無かった。
また制御部品は単位S、MV、PV、カムとも戦前形が多かった。
1951(昭和26)年当時の珍しい国産品を紹介すると川崎PCMは電空カム多段式、150HPとあるがユーザーが不明で、もしGEのPCM導入なら油圧のはずである。
東芝PB5は油圧多段式250HPとあるが、ユーザーは不明(輸出?)である。
三菱のALMは終戦前に阪神200形に単位スイッチ多段式、連動進段があり、その大容量のものは戦後南海1500形などで多く使われた。
国産でも1950(昭和25)年頃より電制常用が生まれるが、当時はウエスチングハウス社のBP、GEのB0リレー相当の保護回路もなく、そのため短絡ブレーキ事故を散発、かつその原因が分からないありさまで電空連動は全て不完全で、電制制御は一人前とは言えなかったのに対し、アメリカのABS、PCMコントロールは新時代のシステムとして完成品の域にあり、その格差は歴然としたものがあった。
その後国産品は幾変転を経て、結局は1958(昭和33)年頃には国鉄のCS12を含め各社ともGEのMCMに準じたものに集約されていった。
東芝は1954(昭和29)年に東急5000形用としてMCMに近い高性能のMPEコントロールを生んでいるが、この時期でのGE技術の情報移入については不明である。
1951年で出色なのは三菱の高速度減流器で、以後普及して保安と経済性に貢献したが、三菱のオリジナルとして評価したい。
本書ではリボン抵抗、強制通風で小型軽量化すべしとしており、アメリカでは1934(昭和9)年から普及したが、わが国では材料の遅れで実現せず、漸く1954(昭和29)年頃から実用化し、国鉄を含め普及したのは1957(昭和32)年頃からとなった。
GEのMCMコントロールでは逆転、PB、FCを一体化したKMCの採用と、制御器、抵抗器、ブロワを一体化したパッケージコントローラを開発(その原点はPCC)、名鉄パノラマカーはこれを原点とし東芝でアレンジしたものを現在まで大量に使用している。
1951年版の本書ではSMEは3両以下とあり、セルフラップ、LOシステムによる電空連動は全く出来ないのでSMEE、HSCブレーキの理解は全く出来なかったと思われる。
セルフラップブレーキ自体は、日本への導入は30年も遅れ、戦前にはセルフラップの言葉すら存在しなかった。この後のLOシステムについてのウエスチングハウス社との特許係争は想像がつかなかった。
しかし、1954年の丸の内線にSMEEの導入以後、ウエスチングハウス直系のHSC、HSC−Dを使う鉄道と、在来車との連結、セルフラップへのためらい、特許問題などからARD、AMCDなど自動ブレーキを使う鉄道とが生まれたが、最後にはHSC−D系に統合された。この間に各メーカー独自の連動(例:名鉄3850)も生まれたが、いずれも劣り、HSC−D、SEDに集約された。
その原因は電磁セルフラップとLO連動にあり、ウエスチングハウス社が特許にこだわるのも当然であった。
セルフラップは車との競合の1920年代から1930年代の超高速電車に使われたが、電磁セルフラップのHSCは1937年頃の高速ディーゼル列車に始まり、電車のエレクトロライナーを経て地下鉄用のSMEEが生まれた。LOシステムはウエスチングハウス形PCC、トロリーバスから導入された。
荷重制御は1935年頃よりニューヨークのAMUEブレーキで普及し、本書に解説があり、後のSMEE、HSC(SELD)のものも同じメカより発展した。
アメリカでも電空併用のマスターコントロールには試行錯誤があったが、ウエスチングハウス社は既に1935年頃からワンハンドル化と電空併用への回答としてマスコンとブレーキ弁を一体化したシネストンを宣伝したが、本書に記述は無く、その重要性が分からなかったものと思う。
戦後のSMEEではブレーキハンドルによるものと、シネストン系(ボストン等)により、1970年頃からは日米ともワンハンドルが増えていったが、今も2ハンドルの鉄道も多い。
当時海外出張は困難でも文献は入っていた。本書に引用されたものは
AIEEの各種文献、GE Review、BBC Review、Transit
Jounal、Railway Mechanics & Electrical
Engineering、Electrische Bhanen、Modern Transoportなどが挙げられる。それにも拘わらず、最も重要なセルフラップブレーキ、LO方式電空連動、エレクトロライナー等の情報が欠けているのは文献だけでトータルな知識を得ることは江戸時代の蘭学以上に難しいことを示している。
そのため営団300、国鉄モハ101級の設計はできず、手探り設計に苦しんだ。
本書における車両の紹介はニューヨーク地下鉄、PCCカー、タルゴ、トロリーバス等があるがごく簡単で、エレクトロライナーは電鉄技術史上重要なのに戦時にかかったためか全く出ていない。このEMUは140km/h運転など、後の小田急SE車によく似ていて、WNドライブ、HSCブレーキなど重要な存在で、アメリカでは対日戦のためこれ以後、電車の新造は禁止された。
1930年代のニューヨークの試作群は1例のみ示され、1948年の量産車は情報が全く不満足である。
本書には他の情報としてハンブルグのSバーンは発電、回生を併用している、ハンブルガーやミルウォーキーのEMUが160km/h走行したこと、わが国の新幹線は戦前3000V、150km/hのEMUが計画されたが凍結されている等としている。
また、ニューヨークセントラルのEMUの新車はWN駆動であった。
イタリアのETR300は未完成であった。
文献だけに頼ると記事は自賛でも、実態は失敗も少なくなく、現物の実用の結果を見ないと大所からの判断はできない。
また、本書の出た1951年は日本の電鉄技術の根本的大転換の時期(ARE→SMEEなど)で、この大きなドラマをよく理解しないと最新の論評についても矮小化を避けられない。
一方、もし戦前のように主としてライセンスで作っていたら、こういうものとして受け入れてしまい、本当のキーポイントは分からなかったであろう。手探りで苦しんだ結果、アメリカの技術の進化が分かったと言える。その後、バッドの東急7000形を経てアメリカ電鉄技術の沈下により立場が逆転した今では、この革命期、模索時代は懐かしい思い出となっている。
これらの成果がモハ151を経て新幹線0系へとつながっていった。
またこの情報レベルから見ればモハ80形が電制なし、釣掛モーターの戦前技術で作られたことは当然のことと理解できるし、資材もない当時としてはよくやったものと評価できる。
1950年の名鉄3850形設計時、山田伯秀計画課長は分離駆動のオールM、電制常用のオールクロスシートを目指したいと、当時の電鉄技術者の共通的な目標を語っていたが、実現したのは不完全な電制常用とオールクロスシートだけであった。
当時、軸重分散オールM志向は日本電鉄界全体にあり、速度は125km/hを目指していた。
写真2 FS201をつけた3850形
3850形は続いてFS201台車での分離駆動のテストが失敗に終わり、電空ブレーキ連動も不完全で、当初のテキストには自賛しているが、結局電制は廃止、制御器も廃棄した。しかし続く5000形、パノラマカーの設計には大いに勉強になった。
これは模索期の典型的な実例であろう。これに対し、MCMコントロール等、完全版の設計になるパノラマカーは40年以上、大改造もなく活躍中である。
戦前、近鉄、阪急、新京阪、阪和の各線が110km/h運転を常用し、戦後のカルダン駆動車も昭和30年頃までは110km/hで走っていた。これに対し、省電は95km/hで他の私鉄も常用最高速度は低かった。
戦前の電車は速度計が無く、電柱測定等なので測定速度は正確であった。
1951年版の本書でアメリカのトロリーバスは6000両を超えて増加中だが、日本も普及を図るべきであるが、道路が悪く活発な運転は期待できないとしている。
本書には1950年の東芝GEトロリーバスの要項をを掲載しているが、約150ノッチ等の要項のみで、内容図面は載っていない。
しかしこれは日本に最初に現れたGE・PCCコントロールなど新時代の電鉄技術の現物で、抜群に早い海外電鉄情報であったが、早すぎたためか十分な研究報道がされなかった。
未経験の高い加速力、150ノッチのユニフォームな加速、加速は直巻、電制は準分巻のトラクションモーターなど、すばらしい乗り心地と最新技術に魅せられて、私は好んでこの車に乗った。自宅は名古屋のトロリーバス基地のすぐ近くだった。
モハ80が出現直後の時だから日本としては時代を突出し過ぎでいわゆる高嶺の花でもあった。
この後、日本のトロリーバスも増加したが、関東では都電並の低い技術レベルでアメリカとは大差の製品であった。進歩的な大阪市のみはGE設計のアメリカ並の車を多数運転したが、道路が悪くマイカー不在の日本では都電並のトロリーバスが適し、電制常用の大阪はオーバースペックだったかも知れない。
写真3 名古屋市のトレーラートロリーバス
アメリカのトロリーバス技術の位置付けは電車より軽く、小さく、安く、操縦性は電車より優れ、ハイレスポンスが求められ、モハ80などのヘビーレールより実質は厳しく、電鉄技術の頂点にありLO式連動、KMC(PB+FC)制御などもトロリーバスのニーズに刺激されている。何よりもブレーキはセルフラップが必須である。先年、ボストンでの講演で私はトロリーバス、PCC、EMUの技術発展の相関についての研究をアメリカの研究者にお願いした。
トロリーバスでは前記の1950年のGE-東芝がデッドコピーとして突出して早く大阪へ続くが、長続きせず、EMUでは当初自力開発を試みたが結局技術提携とその援用で完成させ、さらに追い越して現在に至っている。
東芝はDLも早期にGEのコピーを製造したが、国鉄の採用とならず、日本は自力で国際性に劣るDLを作り続けた。現在でも日本のDELはGMより高価である。これに対し、台湾やタイではGEやGMより直輸入している。国鉄は終戦直後、米軍よりGEのDLの払い下げを受け、好成績を収めた。日本のメーカーはこれを分析したが、エンジンを始め、これに次ぐものを製造する技術は無かった。
1951年刊の「今後の電車」の結言で「わが国の電車は必ずや現在の陳腐化を脱し進化する」と論じているが、それはまさに1954年頃から実現していった。本書は戦中の海外情報空白期に次ぐ模索期の姿を示すものとして貴重で、1951年は丁度夜明け前という状態であった。そして当時電車列車というわが国としては画期的なモハ80系についてはあまり触れていない。
カンバン方式で有名なトヨタ自動車の故・大野耐一副社長はかつて「トヨタががアメリカの技術者から多く学んだことを忘れてはならない」と言っておられたが、勿論当時やがて対日貿易規制問題が起こるとは誰一人思っていなかったが、何事も技術の移転やそのルーツを学んでおくことは独りよがりにならないためにも重要なことと思われる。
電鉄技術史情報(33)でお尋ねした表記車両について、その後の情報として日本陸軍の水陸両用自動車は豊田自動車で、1943年から44年にかけ約200両製造されたものと分かった。
エンジンはKCトラック用と思われるが、全軸駆動のため独自の設計で、黒一色に塗られて挙母町内で試運転し、勘八峡で水上テストを行った。
トヨタ自動車の社史に写真があるが、実戦については不明である。
白井 昭:
産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.
白井昭氏の論文・著作が含まれる書籍が中部産業遺産研究会の書籍販売のホームページから入手可能です。
http://www2.wbs.ne.jp/~t-long/tyusanken/syohan.htm
郵便による申し込みの場合は次の通りです。
〒439-0031 静岡県小笠郡菊川町加茂1607-1 中部産業遺産研究会 永井 唐九郎
(代金の振り込み用紙は書籍に同梱されます)
「12号蒸気機関車」(シンポジウム日本の技術史をみる眼第22回報告集)(共著)
「明治村東京駅転車台」(シンポジウム日本の技術史をみる眼第22回報告集)(共著)
「大井川鐵道千頭駅のイギリス製転車台に関する調査報告」(産業遺産研究第10号)(共著)
「電車用空気ブレーキの系譜−AMPからHSCまで−」(産業遺産研究第9号)
「大井川鉄道の産業遺産と千頭駅SL資料館」(産業遺産研究第9号)
「名鉄パノラマカーの開発と設計」(シンポジウム日本の技術史をみる眼第18回報告集)
「地名の交通と運輸-大井川鉄道の建設と地名駅」(シンポジウム日本の技術史をみる眼第17回報告集)
「大井川鉄道と電気事業」(中部の電力のあゆみ第6回講演報告資料集)
「大井川鐵道」(愛知の産業遺産を歩く)
「千頭森林鉄道と智者山軌道」(産業遺産研究第6号)
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