白井 昭
2004/1/1
今回は保存と記録の問題について、幾つかの例題から考えてみたい。
昭和10年には名鉄は豊川鉄道グループを傘下に納めたが、その目的の1つは新しく開通する三信鉄道を使って名古屋・小坂井・天竜峡・飯田を直行するビジネス急行を走らせることであった。
その試運転は三信鉄道開通間もなく、神宮前〜飯田間で行われ好成績を収めたが、その日時など詳細の記録が未発見である。1937(昭和12)年8月以後の飯田の新聞にあるはずなので皆さんの探索をお願いしたい。
試運転は成功でも営業は実現しなかったため、今や記録がないまま消える可能性がある。
名古屋市電は1941(昭和16)年と1943年に2車体連接車を作ったが、資材不足と輸送の急増に対して大量にあった木造2軸電車2〜3両を原資として大量の2700形2車体連接車を作ることとし、1944(昭和19)年には16両分、32台の鋼体(未艤装)が木南車両から西町工場に到着した。しかしなお激増する輸送のため、この電車が完成しないうちの新計画がまとめられ、木造単車3〜4両を使って3車体の戦時型連接車を量産することとなり、図面も完成したが、空襲の激化で計画だけに終わった。これらのボギー台車はブリル21E単台車を写真1のように改造し、古い高床モーターを転用、高床台車、戦時型高床車体とする。車体は肋骨天井、裸電球、少座席で乗客は三菱航空機の工員などで超満員であり、高床低床などは問題外であった。
▲写真1 ブリル21E改ボギー台車
写真は名鉄サ2250形用にデワ1形のブリル21Eを名鉄で改造したもの。
バスも地下鉄も無いこの時代、2700形3連接車は市内輸送の主力となる筈であった。
結局は戦後の1948(昭和23)年、1949(昭和24)年に2701〜2711が戦時中に鋼体を使い、ブリル76E系の新造台車を入れて完成した(車籍上は1947年度)。
完成時には戦時型の暗緑色一色で高床の戦時型車体(肋骨天井、裸電球、僅かの板張り席)、ポール付きで混雑する戦後輸送に大きく役立った。その後車体の平時形化、黄緑塗り分け、ビューケル、さらには低床化までされて活躍した。
残る鋼体10台は後に小型ボギー車1701〜1705として新造車となった。
終戦後、私は西町工場から不要になったからと3連接の図面を戴いたが、今、私は3車体連接2700形の図面、外観図(特に戦時形)の復元を夢見ている。
もしこの計画が実現していたら、名古屋から木造単車が消え、今の外国のLRTのように大量の3連接車が幹線を続行したであろう。
▲写真2 初期の2700形
戦後間もない1947(昭和22)年より、日野、金剛のトレーラーバスが各地で活躍したが、1949(昭和24)年には東芝、日野の協力によりトレーラートロリーバス(セミトレーラー)を2両新造し、内1両が名古屋で営業し、私は好んでこれに乗車した。
ディーゼルのヘッドはボンネット形だが、トロリーバスはキャブ形で、客室先頭からは日本初のPCC形コントローラーがぐるりと回るのが見えた。
トレーラートロリーバスの加速は強力、スムーズで胸がすくようで、故障も少なく優れたものだったが、量産には至らなかった。
なお、単車の2号トロリーバスもPCCコントローラーを使っていた。これらは日本最初のPCC型コントローラーである。
このトロリーバスの技術記事、カタログが発見できません。皆さんのご協力をお願いします。
▲図1 名古屋のトレーラートロリーバス
ローザンヌで古典バスの動態保存をやっているスイスのバス友の会は連結トロリーバス1セットをアメリカのシーショー博物館に寄付し、2003年秋にボストン港へ到着した。2004年中には走り始めると思われる。
▲図2 ローザンヌのトレーラートロリーバス
1946(昭和21)年、約1000両の米軍トラックがバス改造用に日本に払い下げられた。その主力はGMCの3軸車で、強力なため東京でも岐阜でもトヨダ(豊田)のポンコツバスを引くことが多かった。
1948年には水陸両用車約400両が全国各地に払い下げられた。これは今も昔もダックのニックネームで呼ばれているが、日本ではきちんとアンヒビアンと呼んでいた。これも3軸で、トラックもともにボンネットバスにしたものとキャブオーバーにしたものがあり、後者は見分けが難しかった。それは米軍の標準化のため両者に共通設計の部分が多かったためである。
岐阜バスのは共にキャブオーバー形で見分けが難しかった。
名鉄バスはアヒビアンのみキャブオーバー形にして名古屋・一宮の国道急行バスに使った。当時は汽車も電車もとても乗れない状態のためと大宣伝で多客だった。宣伝看板にも米軍アンヒビアンと書いてあり、凸凹道も3軸でカバーした。
今もボストンでは米軍払い下げ改造の水陸両用バス(写真3)が大人気で走っているがこの方はすべての人がダック(あひる)と呼んでいて、車外にはあひるの絵が描いてある。
戦時中、トヨタ(豊田)の工場で日本軍の水陸両用車を作っていたが、これの資料がありません。産業考古学会の人などの調査を期待します。これも分からないうちに歴史が消えるのが問題です。
▲写真3 ボストンの「あひる(ダック)」(水陸両用車)
戦後米軍バスとともに助け舟になったのが日野、金剛のディーゼルトレーラーバスであった。始めはトレーラートラックとバスを開発したが、当時はバスがよく売れる結果となった。
1947〜1949(昭和22〜24)年にかけて作られ、始めはリア2軸からすぐ1軸となって全国で使われた。東京や岐阜(岐阜・大垣線)は2軸もあったが、名古屋などはすべて1軸(1948年形以降)であった。
狭い新岐阜のターミナルにも見事に出入りしていた。
車体は出入り口1つやクロスシート車もあったが、大半は2扉、ロングシートで3人乗務だが、人はいくらでも余っていた。
都バスはそれまで新車でもドアなし(アッパ)だったが、トレーラーバスからはドアをつけていた。
岐阜乗合50年史(名鉄資料館所蔵)のリア2軸の写真(写真4)には車体に岐阜乗合と表記してあるが、どうもメーカー写真に細工(修正)をした可能性が高い。
▲写真4 岐阜バスのトレーラーバス
豊田市の鞍が池公園の保存車、デキ300が解体とのこと。歴史認識の無い「珍しいもの保存」はいずれ消滅する。
いまや模型しかないと思っていた頚城のホジ(木造、片ボギー)の本物が意外にも六甲山中に残っていた。しかしこれも事情があり保存は難しそうだ。
【追記】
バスなど、電鉄にあらざるものが入りましたが、番外としてお許しください。
白井 昭:
産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.
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