電鉄技術史情報(32)

白井 昭
2003/9/22

本質を見出そう

国鉄電車のモハ101系からモハ165系まで技術的な原点は皆同じであり、私鉄も昭和30年代のEMUは本質的には大同小異である。
この中で本質的な技術の進展、アメリカからの技術移転について見出すことは大切であるが、特許も絡み、これが案外難しく明快に解明されていない。

例えば逆転器がドラムからカム化するのは、近代的なベークライトカム、ノルマルクローズ接触器について言えば、私が見たのは営団300形のABFM(原形ABS)が初めてで、日本のメーカーは順次これを真似たものと思われる。

ABSと同時にGEで作られた1948年のNYのPCMのRVはカムかドラムか、これはNYで実車(保存車)を見れば分かるので、皆さんで調べて戴きたい。あるいはカム式逆転器は戦前のトロバス、PCC(手動RVが多かった)、NYの戦前の試作PCMから始まっていたのかも知れない。

HSC−DとSMEE

これら2種のブレーキシステムはほとんど同一の内容であるが、自動常用ブレーキ付きはHSC、無しはSMEEとされている。WHブレーキにおいてはこの形だが、日本では大分変形を来している。

1954年の丸の内線は地下鉄専用のため、SMEEを用いたが、この年にWHブレーキはAMM、AMA自動ブレーキの普及している日本の国私鉄にはHSC−Dこそ戦略商品と認め構成を展開、事実日本市場を席巻した。はじめ三菱、日立、日本エアなど多くの類似品を作ったが、LOVによる電空連動の特許以上に全体の性能として問題にならず多くが消滅した。
例えば1951年の名鉄3850形の電空ブレーキなど殆ど使いものにならない代物であった。これらの事実はメーカーの資料では分からず実際に使った鉄道の当事者に聞く必要がある。

1965年頃になるとHSCの普及で自動常用ブレーキは有害無益になってきたので、機関車改装のある国鉄(113系など)を除いて常用機能を殺し、WH流では実質SMEEになって行くが日本では改名せずNo.83HSCなどと称してHSC−D、HSC−Rで通したが、これは国際的なものではない。
私は1964年、名鉄7500形の設計の際、自動を廃止したが、全国では早い方であった。アメリカでは郊外電車の衰退でHSCの普及しないうちに次世代に移って行った。

現代の技術史について

日本における1960年以降の空気ブレーキなどの電鉄技術史は十分の資料があるので、一見、今は触れなくて良いように思われるかも知れない。
しかし冒頭に唱えた本質的変化については今から分析しておく必要があり、これは研究者の皆様にお願いしたい。すなわち、今の資料は技術解説書の羅列はあってもその国際的、本質的意義付けや歴史的評価が把握されていない場合が多く、かつこの改名は電鉄技術史についてかなりの実力を必要とする仕事である。

このことは制御装置などあらゆるぶんやについても同様で、消化不良の資料の引用が多すぎて、肝心の総括にかけるものが多いが、本当は羅列は必要なく、発展の原点の改名こそ肝要である。米、欧、日の系譜を比較して歴史的全体像を分かりやすく示すことが求められる。


WH空気ブレーキの歴史については中部産業遺産研究会発行「産業遺産研究第9号」の拙稿をご参照下さい。

大井川鐵道の山崩れは復旧費10億円、開通見込み不明、経営の見通しも不明と言うことで、今回のレポートもまことに貧弱になったことをお詫びします。

2003年9月22日


白井 昭:
産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.


[ 白井昭電子博物館トップへ | 中部産業遺産研究会ホームページ | メールでのご意見・お問い合わせ ]

Copyright 2003 SHIRAI Akira, All rights reserved.