白井 昭
2003/4/27
アメリカで1920年代になると車への対抗のため、電車の活発化と無音化が求められ、それまでの重厚型の電車から軽快車へ、低速モーターの釣掛車から分離駆動へと向かっていった。
トラクションモーターの台車架装のためWNおよびウオームドライブ、あるいはベベルギヤが用いられ、これとワンセットでトラクションモーターの低圧、高速、軽量化が図られた。
端子電圧は300〜150Vに、定格回転数は800→2000rpm、最高1600→4000rpmと全く新しい設計となった。
1926年のWH1425モーターは300V−2000rpmで、もちろん日本の技術では手の出ないものであった。
WNドライブはナタールの技術でWH社が販売、その契約年次は不明であるが、1925年から電車に使用され、1段減速と2段減速があった。日本にも1928年の技術誌「OHM」に写真入りで紹介されているが、戦後まで日本で導入する鉄道は無かった。
アメリカではその後、各鉄道で軽量近代型車体、低圧高速モーター、多段制御、セルフラップブレーキなどとワンセットで次世代電車として脚光を浴びたが、全体として戦前のアメリカの電車は直角駆動(ハイポイドギヤ)の天下となり、WNはあまり普及しなかった。
しかし、1935年からのNY地下鉄7000代での直角との比較使用は貴重な経験、転換点となり、戦後のNYの量産はすべてWN(GEはWNと言わず)となり、今日まで延べ約1万両が量産されている。
戦後もアメリカでは直角、ハイポイドも多く使われたが、ディスクドライブは少なく、またNYはWNドライブの天下であった。
1935年からのNYの比較テストがWNの普及を導いたと言える。
戦後はダイナミックブレーキの常用のためにも低圧トラクションモーターは必須となり、ダイナミックブレーキの多いDELにも戦前から釣掛の低圧モーターが使われた。
WNドライブは日本には戦後、広軌の営団300形から制式化し、狭軌用や新幹線にまで発展していった。
日本では戦後、1950年頃に直角駆動が試みられたが定着せず、以後はWNとディスクが併存しているが、最近は新幹線にまでディスクが使用され、カーボンファイバーの使用や中空軸の廃止などでディスクドライブが優勢になっている。
GEは1926年頃にはティムケンと協力してウオームドライブで高速、低圧モーター化したが、次いでベベルギヤも使用し、PCCの標準設計ではすべてハイポイドギヤによる直角駆動となった。
戦後アメリカではNYをのぞき地下鉄電車でも直角を使う鉄道が多かったが、日本での直角駆動は相模鉄道などマイナーな存在に終わった。
日本のウオームドライブは名古屋市電の800形に見られ、相模鉄道は長らく直角駆動を使ったが、新車については2003年よりディスクドライブに切り替えた。
欧州では1925年頃からBBCのディスクドライブが使われたが、戦後の1953年頃BBCとTDKが同時別々に金属ディスク、中空軸のディスクドライブを開発し、以後、特に日本で普及して、今や新幹線にまで進出している。
ダイレクトドライブなどの特殊機構も昔からいろいろ試みられたが、今後の課題であろう。
セルフラップブレーキも電車の運動の活性化のためにアメリカで1925年頃から使用され始めたが、日本への導入は大きく遅れ、戦後となった。
大井川鐵道へHSCが入った当初はいくら指導しても、どのEMUも大きなフラットを抱えて走り恥ずかしい一方、車輪削正に悩まされた。しかし今は全くうまいものである。
戦後日本にセルフラップが入ってきた頃はどの鐵道でも不評で、軌道では追突が起きて元のPV3に戻す所もあった。
これが決してセルフラップが悪いのではなく、管理者と運転士を含めて扱う方が悪かった。指導者の不勉強と、初め数両だけ混用したのも悪く、全面導入した丸ノ内線などでは問題が少なかった。
昭和30年前後の不評の原因の一つに、当時の日本人で車を運転できる人が殆どいなかったことがある。アメリカでは車=セルフラップに馴染んでいて問題は少なく、さらにPCCでは足踏みブレーキとして車と全く同じにして活動性を高めた。
セルフラップはまだダイナミックブレーキとの同期化による併用の要件となっていて、ワンハンドルのシネストンあるいはセルフラップブレーキ弁による電空併用制御を含めセルフラップは必須の条件であり、今の電気指令も基本的にはセルフラップと同じである。
日本から非セルフラップのAMCDやARDなどもあったがマイナーに止まり、アメリカには存在しなかった。
有名なWH社のシネストンコントローラーは、実態はWHのセルフラップ・ブレーキ弁の反対回りにマスコンを一体化したものである。
戦後日本でもいろいろな電空一体化が試みられたが、すべて失敗し、WH社のLOVによる連動に集約された。また1930年代のシネストンの構想は半世紀後の1990年頃からのワンハンドルマスコンで漸く日本にも普及した。
結局、日米とも戦後の高性能車(日本のみの表現)は低圧、高速、軽量トラクションモーターを基盤としてフレキシブルドライブ、セルフラップ弁によるダイナミックブレーキの同期制御、LO(ロックアウト)制御による電空連動がワンセットとなって成り立っており、その背景はGE、WHの電気技術とWHのブレーキ技術(SMEE、HSC−D)によって成立している。
戦前から戦後にわたる1925年頃から1955年頃にかけ日本で長期、大量に「ブリル−39類似」と称する台車が作られ、やがて日本の市電の台車として最大のグループとなるに至った。
しかし、それは単に異径というだけで本来のマキシムトラクションではなく、39似と呼んでよいか疑わしい。
アメリカの39−Eはすべてマキシマムであると推定される。
日本の39似にはメーカーとしては日車C12形などの日本メーカーの形式があるのに、鐵道側では多くが異径はブリル−39−E類似とし、同径のものはブリル−76−類似で認可を受けている。中には丁寧にブリル39−E−1類似としているものもある。
アメリカの39−Eは当初高床モーターでスタート、間もなく低床モーター化して39−E−1、E−2と発展したが、いずれもマキシマムと推定される。
1925年頃になるとアメリカで片モーターではのろくて使いものにならず、4個モーターの時代に入ったためブリル−39は製作されなくなり、代わってのろい日本の電車に39が多用されるようになった。
国産のブリル39−E似はすべて低床モーター付き非マキシマムであった(推定)。
一方、制御器の世界でもPBをPMと呼んだり、近鉄2200系をABF17、電動ドラムの1450系をABF22と呼んで区別することがあり、正式の呼称ではないが「2200、1400、2250のABF」というよりは便利だった。
名鉄では釣掛の自動変速車をAL車と呼んだが、これはALコントロールでなく「ALという電車」(コントロールはたとえばPB)ということで、国際的に通用しないが社内では便利だった。ただしHL車のコントロールはすべてHL(主制御器はCB10など)だった所に矛盾があった。
これに似たものに戦前のNY地下鉄で1900〜1910年代にHVカー(HL)とLVカー(ABF)があったが、これもHVコントロールでなくHL付(高圧C回路)を示し便利と思う。ただし1900年代にはまだHLの商品名はなく、HLの前身の正式名は不明である。
本校は問題提起程度で皆様の補遺を得て完成に近づきたい。
日本の直接制御器界を制覇したデッカーのDB−1のK形は大正末以後、KR8など日本の全メーカーがコピーして現在まで作り続けた。
米国では最後までデッカーを使わず、GEのK−75などで通したが、デッカーは日本とイギリス連邦で普及した。なぜDB−1は斯界を制覇したのであろうか。
メタリックシールドによる焼損事故の防止と製造、保守の容易が考えられるが、今のうちに評価を明確にしておく必要がある。
電車屋はこのDB−1、Kを新デッカー、その前身のDB−1、Gを旧デッカーと呼んだ。旧デッカーはすでにその特色であるメタリックシールド・ブローアウトを持つが、メカはやや複雑でこのままでは世界制覇はできなかったと思う。
Type DB1、Form GからForm Kへの切り替えは1920年代初めと思われ、デッカーからEEへの移行と同じ頃であるが(イギリスの皆さんが詳しいと思う)、フェースプレートはDKの花文字から短期間DKのゴシックに、次にEEはすべてゴシックでデッカーシステムの併記付きとなった。
これらは見える所なので写真もあると思うが、日本国内の旧デッカーの保存品や写真は見ていない。古い電車でも新デッカーに換装されている。
イギリスの博物館に行ったときにはぜひ注目して頂きたい。
本稿は問題提起であり、今のうちにデータ収集を呼びかけるものである。
旧デッカーことDB1−G1の開発時期は京電で分からないだろうか。
旧デッカーはシリースとパラの渡りが広く、P5〜8ノッチとダイナミックブレーキのB7(最終)〜B4が重なっていた。
主ハンドル軸の上半は抵抗制御など、下半は上と別物で、下端で逆転シリンダと連動していた。その
内容は不明で、日本でツナギ図を見つけるが、英国で本物を見つけるなどに期待する。
新デッカーは主シリンダにPB制御が付き、簡単、丈夫で世界制覇を決めたと見る。4M用のQシリーズも基本的には同じ(三菱KR58系)である。なお、旧デッカ、Form
GはKより背が低く全体に小柄だった。
岐阜市電では戦後まで新旧デッカーが混用されたが、間もなくGE、WHの淘汰とともにDB-1、K4に統一された。EEのほか戦後のTDKもあったと思う。
戦後の岐阜市電は高出力、高速で陸の王者であったが、これには強力なダイナミックブレーキがささえとなっていた。路上に車の姿が無く、運転士は若く血気盛んだったのも一因であった。
いま残っている直接制御器は殆どが国産新デッカーで占められ、B18や旧デッカーはほとんど無くなり、イギリス連邦巡りに期待する。
しかし、タズマニアの動態車が岐阜の日本デッカーを付けて走っている(元の機器は失われ、名鉄が寄付)有様である。
何とかあの美しい花文字をもう1度見たいものである。
戦前、戦後の日本の市電が足はB-39-E、Contは新デッカーと米英の長所を集めて大量生産し、活躍したことはいかにも日本人のお家芸を示すものである。
小生、台湾政府の要請により阿里山鉄道の安全指導のため、5月1日〜8日まで台湾を訪れ不在しますので、技術誌情報も小休止しますが、この間も情報や訂正はぜひお寄せ下さるようお願い致します。
2003年4月27日
白井 昭:
産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.
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