電鉄技術史情報26

白井 昭

1.アメリカの電鉄技術史界

 アメリカでは終戦後の1950〜1970年代に多くの研究がなされ、New Electric Railway Journalの発行など活発だった。今も各地の協会による各地の技術史の研究やブリルの研究など盛んだが、以前よりトーンダウンしている。
 私は30年程前からシカゴの故・ジョージ・クランブルス氏を師としてこの道へ入ったが、、氏亡き後、これを継ぐ人材に恵まれていないように見える。
 ニューヨーク地下鉄の歴史資料も多いが、単にEMUの変遷にとどまり、コントローラーの変遷、そしてその本質についてはノータッチのものが多い。

2.ED31のこと

  1. ED31は大正12年製の国産初期の中型ELで、車体、台車は石川島造船所、電気品は芝浦製作所製で、伊那電気鉄道向けに6両製作された。
  2. 設計は省電モハ1(大正3年GE)と殆ど全て同一のGE設計で、当時すでに旧式の電磁スイッチ制御を使ったが、これらがかえって安定性を増す結果となり長年使用されることとなった。
    ELとしては無理はあるが、モハ1を殆ど変えなかったことが失敗を防いだ。
    伊那電→国鉄→近江といままで健在なのは名作と言って良い。
  3. 当時、相当高価なものを6両購入したことは、伊那電のシンボル的存在であった。
  4. 石川島にとっても記念碑的作品で(電気の芝浦あってのELだが)石川島博物館には同社のモニュメントとしてED31の模型が展示されている。
  5. 大正11年頃の第2次モハ1にはGEライセンスによる芝浦製の電気品が使われた。内容はGE製の第1次車と同じで、ED31の聞きもこの仲間となる。

    《現存の近江鉄道のED31について》 吉川文夫氏に頂いた写真によって検討すると
  6. 主制御器(スイッチグループ)はGEのMコントロール(自動)に似ている。
  7. マスコンはGEのC−33−D(S2、P2、計4ノッチ)似で、他にノッチングスイッチがある(芝浦はRC−36−D)。
    オリジナルかは私が実見の必要あり。
  8. 空制はAVR(芝浦製?)でブレーキ弁はA−D5でオリジナルのままと見る。
  9. モーターはモハ1と同じGE244、芝浦製、国鉄形式MT4.
  10. 制御電源は写真で分からないが、モハ1と同じとすればGE設計のダイナモーターにより1200Vから600Vタップをとっていた。
    国電モハ1は昭和30年頃までダイナモーターのまま使っていたのでED31も抵抗はない。しかし後日、MGに換装して100V化したことは容易に考えられる。
  11. 近江鉄道の資料では制御器が空電スイッチとなっている。写し間違いか換装か。電空の混合段システムを必要とするが、私が見る必要がある。
  12. ED31は総括制御までモハ1と同じに可能としているが、実用はしなかった?
  13. 機器でモハ1と異なるのはギヤ比とノッチングスイッチである。
  14. 現在日本でGE設計の電磁スイッチ式Mコントロール(自動)がのこるはJR東海のモハ1と近江のED31(Mとすれば)のみ。以前は名鉄モ3100などあり、アメリカには今も健在。
    GEのMKは近鉄1型など、同系は富山地鉄7000などかなり健在。
  15. ED31は国産初の中型ELで、かつ成功作品として大体の内容は記録されるべき(電磁か電空か明らかにすべし)。

3.直流電車回生ブレーキのルーツは?

  1. 昭和3年、南海高野線のAEG回生制御は直巻モーター他励による回生ブレーキとして一応完成の域に達していた。
  2. これから考えると、それ以前の1920年代にドイツ、スイスで直流電車の回生の実績があったと思われる。そのメーカーはAEG、BBC、シーメンスが考えられる。
  3. それ以前、三相交流の回生があったが単純で、別のジャンルになる。
  4. 高野山のAEG以後、これにならったTDKの直巻回生は長期、大量に実用された。このほか戦前に直巻もーたー他励の回生が阪和、名鉄、EF11など造られたが実用には成功しなかった。
  5. 戦前京津で実用化した視巻回生も欧州にルーツがあると思われる。

4.PCM、MCM制御物語

  1. GEの直流電車用主力制御器は、1948年から電制付きPCM全盛から、1954年頃より更にコンパクトなMCMパッケージコントローラーへと進んだ。
    PCMもMCMもノーマルクローズ、2軸コンタクタ、2回転多段式の点は同じで、油圧駆動からより小型のPM駆動になった。
    MCMはPCMから進化した。
  2. 1954〜のMCMの次代はアメリカのEMU技術の頂点で、1960〜から漸次日欧とも並立し、今や追い越されている。
  3. PCM、MCMの時代と、同時代に日本で体験したことを比較、考察してみたい。主観的で大きな誤りもあり得るので、訂正、補遺をお願いします。
  4. PCMは1927年頃から使われ始めたGEの油圧式小形、多段制御器でPCに代わる第2世代のカム制御器で、同系にPM(GE)、PA、PB(東芝)などがあった。
    PCMは戦前のニューヨークでも7000代の一部で試用されたが、量産は1948〜のR10以後の約500両と1954年頃からのイギリス(詳細不明)からである。
  5. 1948年、名鉄へ東芝より終戦前発注のPB2制御器の新製品が届き、クハ代用だったモ950形に取付けMMで試運転を行った。
    当時ニューヨークではPCMが量産の時代で、カムとしてはPCMとPBは相似たものであった。PB2のMM編成の加速はPCCを思わせる強力、円滑なものであった。
  6. しかし、ニューヨークのPCMはWNドライブ(☆)、オールM、電制常用で空気ブレーキをME42ブレーキ弁1本で扱い、締め切り電磁弁で電空連動するSMEEブレーキを使っていた。これに対しモハ80など日本組は釣掛モーター、電制なし自動ブレーキとワンサイクル遅れていた。
  7. 同じ1948年頃、名古屋市でトロリーバスの新造車が相当期間営業試用された。2軸車、トレーラーバス各1両あり、何れもGE設計、東芝製のPCCコントローラーを備えていた。
    単車の加速はPCCなみであったが、トレーラーバスの方も同型のディーゼルトレーラーバスのノロノロぶりに比し、強烈な加速を見せた。
    この2形式の東芝の説明書(カラー)があったので、探して欲しい。
  8. 日本でも1954年頃になるとPB4、PB5制御器など電制常用が現れたが、このGEではすでにMCMパッケージコントローラーに移っていた。
    MCMはブロワ、主抵抗器、制御器を一体としてコンパクト化し、PCMの油圧に代わりPM駆動により小型化した。
    PCM、MCMコントローラーは戦後の日本のメーカーにも大きな影響を与えた。
  9. 名鉄はパノラマカーなどにMCMパッケージコントローラーを大量(日本最多)に試用し、1965年頃までに200両程新造し、今なお多数が健在でその優秀さを実証している。
    名鉄のMCMは東芝製で、1C8Mなど変更があるが原点はGEのMCMである。
    パノラマカーは一部の複巻回生車(7500形)以外はすべてMCMを装備している。
  10. MCMは新システムとして従来バラバラだったRV、FC、PB(力制)制御を1軸化した組み合わせカム制御器(KMC)を開発し、いっそう簡単小型化した。
    抵抗制御器をKMRと呼び、2軸をPM2個でまわすものとPM1個で回すものがあった。これもまたすぐに日本のメーカーの取り入れるところとなった。
  11. KMC機構のルーツはPCCとも言われるが初年は不明。
    PCMコントローラーにもKMCを使ったものがあったかは不明。
    この点、1948年ころのGEレビュー、アメリカ電気学会誌よりニューヨークのPCMコントローラーの記事を探して欲しい。
    またニューヨークの何両かのPCM付き保存車のカバーを開けて確認をお願いしたい。
  12. 戦後1953年頃までに日本のメーカーで開発された電制常用の制御器は、各メーカーとも完成品のGE・PCM、WH・ABSに比し著しく劣っていたが、ライセンス導入につれGE、WHに学んで改善を進め、アメリカに並ぶものになっていった。
  13. 日本の制御器が遅れた一因として、締切弁(WH社特許)によるSMEE、HSC−Dシステム導入遅れ(外貨不足)があった。
  14. 締切MV(LOV)、締切リレー(LOR)の初年、ルーツは?
    WH−PCCか、トロバスか、ニューヨークの試作車にLOVは使われたか。
    今後の課題である。
  15. 戦後GEによる電制付きPCMのセールス攻勢に対し、WH社は1948年、全く新しい単位スイッチ式のABSコントロールを開発し、以後ニューヨークだけでも約1000両に試用された。ABSはスポッティング付きの連動進段単位スイッチ式で、レスポンスの良さをセールスポイントとした。
    確かにレスポンスは鋭く、特にフレキシブルな制御の求められる電制では有用であった。この特色を生かして丸の内線(三菱電機)、ストックホルムでも試用された。
  16. この影響で1954年より日本はABSに準じた連動進段制御のブームとなり、営団300系、小田急2200系、名鉄5000形はじめ中小私鉄に至るまで1C8MのABFMが普及した。すなわちニューヨークの制御が日本の田舎にまで達したのである。
  17. しかしABSは広いスペースを取り、保守量も大きいため、その後世界的に単位スイッチの時代は去り、WH社自体も1954年よりGEのSCMに似た電動カムに転進した。
    日本の単位スイッチABFMの各鉄道もカム化したが、丸の内線のみは最後まで単位スイッチを使ったのは運転、保守の統一性から見識あるところであった。
    丸の内線はABSと同じだがABFMと呼び、ニューヨークでは後にABFとしている。ニューヨークではスポッティングをやめたか? 丸の内線は最後までスポッティングを行かしていた。WH社ではPCCのアクセルレーターまでABFと呼ぶことがある。
  18. ニューヨークではABSが約1000両作られたのに対し、GEはPCM、MCM、SCMと変化が急なため、PCMは500両位、MCMは新造車用約500両に分かれた。このほかMCMはスペースが小さく保守が楽などその優秀性から古いABF車の換装用に多数製造され、また各地のPCCカーにもMCMコントローラー(PCC形)が新造された。
    しかしGEは1985年頃からより簡易なSCMコントロールをニューヨーク、シカゴ、ボストンなど各市に売り込み、MCM時代の終わりを告げたが、この頃から電鉄技術に関するアメリカの独自の発明は失われていった。
    ABSは今なおブエノスアイレスで、MCMは名鉄パノラマカーで多数活躍中で、この両システムはアメリカの非電子式制御器最後の名作ということができる。

2002年12月26日


白井 昭:
大井川鐵道株式会社顧問,産業考古学会会員,中部産業遺産研究会会員,鉄道友の会参与,海外鉄道研究会会員,日本ナショナルトラスト会員.


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